yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

クィネル著「地獄からのメッセージ」でクリーシィは帳尻合わせのため危険な罠に飛び込んでいく

2018年05月29日 | 斜読

book463 地獄からのメッセージ A.J. クィネル 新潮文庫 1997      (斜読・海外の作家一覧)
  クィネル(1940-2005)著のクリーシィ・シリーズは1980年「燃える男」(b380)、1992年「パーフェクト・キル」(book436)、1993年「ブルー・リング」・・まだ読んでいない・・、1994年「ブラック・ホーン」(book437)、1996年「地獄からのメッセージ」の5冊が出版されている。

 1冊目は、もと傭兵で自暴自棄に陥っていたクリーシィがナポリに住む親友グィドーの紹介で娘ピンタの護衛を引き受け、ピンタのお陰で気力を取り戻す。しかし、ピンタが殺され、クリーシィも瀕死の重傷を負う。ゴゾ島で身体を癒やしているとき、ナディアと親密になる。すっかり回復したクリーシィは、ピンタの復讐を果たすためマフィアを壊滅させる。
 2冊目は、クリーシィ夫人のナディアと赤ちゃんがテロによる飛行機爆破で命を落とす。乗り合わせたアメリカ上院議員グレインジャー夫人も犠牲になった。クリーシィはグレインジャーの資金提供を受けながら、養子のマイケルとともに、テロを命じたパレスティナ人民戦線議長を倒す。
 4冊目は、グレインジャーの選挙区の夫人の娘がジンバブエで殺され、香港マフィアの仕業と分かる。クリーシィとマイケルが夫人に代わって復讐を果たそうとするが、マイケルは致命的な傷を負い、悲観して自殺する。クリーシィはローデシア人マキシーの応援を得て、香港マフィアを倒す。
 クリーシィと家族、仲間は1冊目、2冊目、4冊目・・と連鎖しながら発展していくので、物語が劇的に展開し、ついつい次の事件を読みたくなってしまう・・p72に2~4冊目のあらましが紹介されるし、随所にクリーシィと仲間のことが登場するから、5冊目から読んでも物語に吸い込まれる・・。
 残念ながらクィネルは2005年に急逝したので、5冊目の「地獄からのメッセージ」がクリーシィ最後の活躍になった。

 今回はベトナム戦争(1955~1975)が鍵である。クリーシィはその当時アメリカの非公式隊員として、カンボジア国境に近い戦線の斥候班に所属していた。1968年9月、クリーシィを慕っていたジェイク・ベンツェンがマシンガンに撃たれてしまう。戦線が混乱していて、クリーシィはなんとか逃げ出すが、ジェイクは合衆国陸軍戦闘中行方不明兵士扱いになる。その後の生死の情報は無い。

 ベトナム戦争当時、ベトナム人ビル・クラムは米軍幹部将校に賄賂をおくり、米軍の物資の闇取引で巨万の富を築いた。ビル・クラムにゆすられていた米軍幹部将校の依頼で、クリーシィは、1977年、ビル・クラムを射殺し、米軍幹部将校との癒着を示す証書を建物ごと燃やした。ビル・クラムにはコニー・ロン・クラムという娘がいた・・成長したあとで重要な黒幕として登場する・・。

 前後するが、南ヴェトナム警察幹部警官ヴァン・ルク・ワンは、ビル・クラムの物資を横流ししてもうけ、住民にはひどい仕打ちをしていた。1968年、クリーシィは極悪非道なヴァン・ルク・ワンを近距離で撃ち殺す。あとで分かるが、ヴァン・ルク・ワンは九死に一生を得、1975年のサイゴン陥落後、ビル・クラムからの賄賂でカンボジアに逃げ、のちにコニー・ロン・クラムの下で暗躍する。
 これで伏線は出そろう。

 ジェイクの死?行方不明?から26年後、アメリカ・サンディエゴに住むベンツェン夫妻のもとにジェイクの認識票とクリーシィと書かれたメモが届けられた。ベンツェンはブリュッセルにあるマキシーのビストロにいたクリーシィを探し出し、認識票を見せる。ベンツェン夫人の似顔絵を見たクリーシィは、殺したはずのヴァン・ルク・ワンと判断する。マキシーと、仲間のコペンハーゲン出身フクロウ、マルセイユ出身イェンス・イェンセンは口をそろえて罠だと止める。クリーシィはジェイクを見届けたいという好奇心が勝り、必要経費をすべて用意するからと3人に協力を要請する。
 クリーシィは上院議員グレインジャーを通して、合衆国陸軍戦闘中行方不明兵士担当部MIAに協力を要請する。

 細かな動きがあるが、クリーシィ、グィドー、マキシー、フクロウ、イェンス・イェンセン、MIA担当部員スザンナ・ムーアがサイゴンに集まる。
 一方、クメール・ルージュの黒幕コニー・ロン・クラム、配下のヴァン・ルク・ワンが、手ぐすねを引いてクリーシィたちを待ち受ける。まず、サイゴン入りしたクリーシィに、ヴァン・ルク・ワン選りすぐりのチャン・コク・コンが尾行につけられた。尾行に気づいたクリーシィたちは彼を捕まえ、雇い主がヴァン・ルク・ワンであることを確認する。クリーシィは、チャンにおまえを殺す気はない、家族も守ると伝える。チャンは、カンボジア国境に近くにクメール・ルージュの基地があること、そこにアメリカ人捕虜がいたことを話す。クリーシィは、家族を守るためにローデシア人マキシーとベルギー人ルネをサイゴンに呼ぶ。マキシー、ルネは用意周到に準備し、襲ってきた殺し屋を倒し、家族を助ける。

 おって、クメール・ルージュの基地がメコン川を渡った先のツクルイ村南東4kmの寺であることが分かる。この寺は1181~1193年にジャヤバルマン7世(1125-1218、クメール王朝の王)が建てたそうだ。コニー・ロン・クラムは、傭兵オランダ系アフリカーナのピエト・デヴィットに寺の周りに隙間なく地雷を敷設させる。コニーはクリーシィたちの戦法を練り、空から侵入することを予想して、地雷で退路を断ち寺でクリーシィを苦しめながら殺す狙いがあった。表紙に防毒マスクの男が描かれているから、コニー・ロン・クラムのさらに周到な作戦が予想できるかも知れない。

 地雷敷設を終えたピエト・デヴィットは、コニーの紹介でヴェトナム人娼婦タン・ソトに会う。捕虜になっていたジェイクもタン・ソトとつきあっていて、3才の男の子がいた。すべてが終わった巻末で、クリーシィはタン・ソトと子どもをサンディエゴのベンツェン夫妻の家に案内する。ベンツェン夫人は二人をジェイクの部屋に案内し、物語は終わる。
 p87にホー・チ・ミン・・のちの建国に父・・が登場する。ベトナム戦争の悲惨も端々に描かれる。

 クリーシィからの伝言、p255・・いろんなことをやってきた、自慢できないことも含まれている、生き残れるかどうかが人生の判断基準だった、そのためにつくった負債を返す、ジェイクを探すのはおれ自身の人生の帳尻合わせだ・・。これがこの本のテーマであろう。
 クイネルを通して現実に起こっている社会の裏側を知った。悪に立ち向かうクリーシィの活劇、言葉に引き込まれた。クィネルに感謝し、合掌。(2018.5)

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2018.5 成田山は歌舞伎のお陰か、初代本堂薬師堂、2代重文光明堂、3代重文釈迦堂、4代大本堂と発展

2018年05月26日 | よしなしごと

2018.5 成田山新勝寺を行く ④額堂 「成田屋」 光明堂 釈迦堂 三重塔 薬師堂  ①~④フルページ+写真

 総門-仁王門-大本堂はほぼ南北軸上に配置されているが、大本堂の北側はまた高くなり、伽藍は南西・北東軸、さらに東西軸に配置を変えていく。
 成田山は標高40m弱とさほどの高さはないが、山?なのであり、高くなるほど平らな土地が少なく、伽藍の配置が地形に左右されたようだ。
 939年、成田に下った覚朝大僧正は関東平野を見渡せる山を選び、成田山新勝寺を興したに違いない。

 西翼殿の先の階段を上ると、南西・北東軸上に額堂、光明堂、奥の院が並び、東西軸に向きを変えて、醫王殿、平和の大塔が並んでいる。

 額堂=第2額堂は1861年建立で、国の重要文化財の指定を受けている(写真、ホームページ参照)。信徒から奉納された額や絵馬を飾る建物で、1階は吹き放しの・・当初、奥側は板壁が張ってあった・・、入母屋屋根、瓦葺きである。
 1階中ほどに7代目市川團十郎をモデルにした「成田屋」の石像が飾られている。

 パンフレット、webなどによると、江戸時代、人気の歌舞伎役者初代市川團十郎(1660-1704)に跡継ぎとなる男の子ができなかった。
 市川家は節目ごとに成田山に参詣していて、團十郎が跡継ぎを祈願したところ、のちに2代目團十郎を襲名する男の子を授かることができた。團十郎はたいへん喜び、成田不動尊の霊験にまつわる歌舞伎を上演したところ大当たりし、以来、「成田屋」を屋号にした。
 團十郎の歌舞伎で成田山の霊験が江戸に知れ渡り、成田山参詣が広まった・・うなぎ屋が大繁盛したのもうなづける・・。
 「成田屋」の歌舞伎はその後も人気がうなぎ登りだったようで、7代目團十郎(1791-1859)は大本堂の手前、三重塔の隣に、額堂=第1額堂を奉納した。額堂には7代目團十郎をモデルにした「成田屋」の石像も置かれた。
 成田山参詣が広まり、信徒からの額や絵馬の奉納が多く、飾りきれないので前述の第2額堂が1861年に建てられた。
 1965年、第1額堂が焼失してしまう。7代目團十郎「成田屋」の石像は第2額堂に移されたが、第1額堂の再建はされなかったため第2額堂は額堂と呼ばれることになった。

 ついでながら、12代目団十郎(1946-2013)の長男が市川海老蔵(1977-)で、屋号は「成田屋」である。海老蔵は成田山の縁で成田市御案内人に任命されているし、今春の成田山節分で勧玄くん、麗禾ちゃんと豆をまいている光景が報道された。江戸時代からの縁が続いている。
 さらについでながら、成田山の本尊は不動明王で、鬼たちも不動明王の前では改心するとされ、節分のかけ声は「福は内」だけである。

 額堂の龍や獅子の木彫、額絵を間近で見たかったが、柵が立てられ、立ち入り禁止になっている。木造の重要文化財であるし、第1額堂を火災で失っているから、火の用心のためであろう。
 額堂の先に旧本堂だった光明堂が建っている(写真)。
 1701年、現在の大本堂の場所に、この建物が本堂として建てられた。1858年、新たに本堂=現釈迦堂が建てられ、旧本堂は名を光明堂と改めて、本堂の後に移された。
 1984年、新たに大本堂が建てられ、前本堂は大本堂の西に移されて釈迦堂と名を改めた。同時に旧本堂だった光明堂は、額堂の先、奥の院手前に移された。
 移築、改修を繰り返したが、創建時の様子をよく残し、国の重要文化財の指定を受けている。本尊は真言密教の教主である大日如来で、不動明王、愛染明王を従えている。石段を上り、参拝する。

 光明堂の裏手の洞窟が奥の院である。通常は扉が閉まっているらしいが、今日は開いていた。洞窟が低いので頭を下げながら入り、黒々とした大日如来に参拝する。
 奥の院の先を右に折れると、左に2017年建立の醫王殿が建っている。ここにも特設の柱が立ち、布が下げられていて、列を作って布に参拝していた。本尊は薬師如来だから、健康長寿の御利益がありそうだ。

 最後に、1984年建立の平和大塔に参拝する。1階は写経道場などがあるらしいが、外階段で直接2階に上がり、不動明王に合掌して外に出た。
 東側は崖になっていて、降りると庭園を楽しむことができるそうだ。が、釈迦堂、三重塔は遠望しただけなので、同じ道を戻ることにした。
 右に奥の院、左に権現堂、右に光明堂、額堂、左に開山堂を眺める。階段下ではまだ「火渡り修業」の参列者が列を作っていたが、だいぶ少なくなった。


 列の隙間を通り抜け、釈迦堂=前本堂の正面に出る(写真、ホームページ参照)。1858年建立で、国の重要文化財である。総欅造り、入母屋屋根に、大きな千鳥破風、小さな唐破風を重ねているが、横に伸びているので仁王門に比べ安定感がある。
 釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩、千手観音が安置されている。外壁には五百羅漢像、内部の木彫も細かな表現だった。


 大本堂の手前に東には三重塔が建つ(写真、ホームページ参照)。1712年建立、高さ25mで、国の重要文化財である。内部には大日如来が安置されているそうだが、非公開である。
 外部には十六羅漢像の木彫が飾られている。1980年代に古文書を参考に修復されたので、色彩が鮮やかである。

 主だった堂に参拝した。まだ見どころがあるようだが、昼をだいぶ過ぎたので、総門で一礼し、故T君に礼を言い、参道を戻った。途中、成田山といえばうなぎであろう。食事処でうなぎ定食をいただく。久しぶりのうなぎはおいしかった。

 うなぎを食べながら観光案内図を眺めていたら、参道の途中に最古の本堂=薬師堂が記されている。「最古の本堂」は気になるので立ち寄った(写真、ホームページ参照)。
 1655年、現在の大本堂の場所に建てられた最古の本堂で、初代市川團十郎も最古の本堂に参拝したはずだ。
 1701年、旧本堂=光明堂建立にあたり、旧本堂の後に移築され、1858年、前本堂=釈迦堂建設のとき、最古の本堂はいまの場所に移されて薬師堂と名を改めたそうだ。同時に、旧本堂=光明堂は前本堂=釈迦堂の後に移り、大本堂建立で旧本堂は光明堂の場所に、前本堂は釈迦堂の場所に移ったことになる。
 それぞれが健在なのは大日如来、不動明王の力であろう。最古の本堂=薬師堂は簡素であり、市の有形文化財にとどまっている。
 「成田屋」の歌舞伎で成田山参詣が広まるにつれ、旧本堂=光明堂が建ち、さらに参詣者が増えて前本堂=釈迦堂が建てられ、いまや大本堂に発展した。成田山新勝寺と「成田山」の深い縁がよく理解できる。いろいろ学んだ一日になった。(2018.5)

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2018.5 成田山新勝寺の仁王門を抜け大本堂参拝、護摩だきと火渡り修業を見る

2018年05月24日 | よしなしごと

2018.5 成田山新勝寺を行く ③仁王門 大本堂 護摩だき 火渡り修業

 総門を抜けると、石灯籠がまっすぐ並んで参拝者を導く。その先の石段の上に、仁王門が古風な面持ちで建ち上がっている(写真、ホームページ参照)。1861年再建、屋根は大きすぎる千鳥破風と小作りな唐破風を重ねた入母屋屋根・銅板葺きである。
 赤い大きな提灯が目立つ。「魚がし」と書かれていて、東京築地の魚河岸で働く人たちの講=魚河岸講の奉納である。江戸時代に伊勢参りをする伊勢講、善光寺を訪ねる善光寺講、富士山信仰の富士講などが盛んになった。魚河岸講もその一つで、いまでも成田山詣が続いているようだ。

 仁王門の向かって左の密迹ミッシャク金剛、右の那羅延ナラエン金剛(写真)が、参拝者の邪気を払う。朱塗りが残っているから、当初は色鮮やかだったに違いない。色落ちしているが、悪者が来たら襲いかかりそうな勢いを感じる。
 裏手には四天王の多聞天広目天の像がにらみを効かしていた。
 四周の頭貫の上には竹林の七賢人などをテーマにした木彫が飾られている(写真、ホームページ参照)。ぐるりと木彫を鑑賞する。
 竹林の七賢人をテーマにした屏風絵、彫刻などをよく目にするから大ざっぱな知識はあるが、大ざっぱということは=具体的なこと、正確なことは分からないということで、木彫を見ただけではどんな背景で何を表現しているかは推測の域を出ない。頭貫の上で、金網の中だから、ときどき何の光景か判然としない。解説が欲しいね。もう一回り木彫を眺めて、仁王門をくぐる。

 門をくぐると、横長の池に、石橋が架かっている。池を取り巻いて石の柵、石柱、野趣味な岩が並び、荒涼とした雰囲気を見せる。仁王門で邪気を払い、いよいよ深山幽谷に入るという仕掛けだろうか。
 外国人のグループが、荒涼とした背景にポーズを取りスマホをかざしている。私には何の変哲もない風景に見えるが、外国人には珍しいようだ。逆に、海外旅行などで、地元の人は気にもとめず通り過ぎるが、私には珍しく感じて写真を撮ることもある。日常と違う、珍しく感じるといった光景に出会うのが旅のおもしろさでもある。


 石橋を渡り、狛犬の先の石段を上ると、正面に大本堂が現れる(写真、ホームページ参照)。境内は広いが、大勢の参拝者であふれている。
 境内中ほどに特設の柱が立てられ、布地がたれていて、大勢が列を作り、布地に触っては合掌していた。堂内の本尊と結ばれた布地で御利益があるらしいが、長蛇の列を避けて大本堂に向かう。

 石段を上がり、外陣の中央で不動明王像に合掌する。内陣では高位な僧侶が講和をされていて、大勢が耳を傾けていた。
 左右から自由に入れるので、内陣に座った。ほどなく、さらに高位な僧侶?住職?による護摩だきが始まった(写真、ホームページ参照)。真言密教の秘法だそうで、僧侶が護摩壇護摩木を入れると火柱が立つ。
 護摩木が人間の煩悩で、不動明王の智恵を象徴する炎で煩悩が焼き払われ、信徒の願いが清浄され、成就されるそうだ。
 護摩祈願を申し込むと、身につけた品を護摩壇の炎にかざしてくれる。次々と信徒が脇の僧侶に品物を渡すと、品物を高々と捧げ、うやうやしく炎にかざし、また高々と捧げて信徒に手渡す。御利益がありそうだが、護摩祈願は申し込んでいないので、護摩壇の炎に合掌し、外に出る。

 西翼殿の方が騒がしい。西翼殿から見下ろすと、釈迦堂の手前の境内で式典が進行している。成田山新勝寺では、2011年の東日本大震災以降、被災地支援を行っており、その一つとして復興支援義援金を募っていて、ちょうど陸前高田市に義援金が贈呈される式典の最中だった。
 式典の一方で、何人もの山伏姿の僧が贈呈後に行われる復興祈願「火渡り修業」の準備を進めていた(写真、ホームページ参照)。しめ縄が張られた中央に井桁に木を組み、松の枝を入れて火をつけると、勢いよく燃え出す。
 次々と松を加えていく。ここでも信徒が身につけた品を僧に渡し、炎にかざしてもらっていた。この炎も護摩だきの霊験があるようだ。
 井桁の木が燃え尽きると、燃えかすを10mほどに伸ばし、さらに松を加えて燃やしてから、燃えかすを整える。高位な僧?が念仏を唱えたあと、いよいよ火渡り修行が始まる(写真)。
 居並ぶ僧の火渡りが終わると、義援金贈呈に参列していた陸前高田市長たちが火渡りし、続いて信徒が火渡りをする。一般の参拝者も火渡りができるらしく、長蛇の列ができていた。
 たぶん山伏姿の僧が渡るころはまだかなり熱いようだが、信徒が渡るころはだいぶ冷めたようで、子どもやお年寄りも火渡りに参加していた。心願が成就されますように。
続く

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2018.5 京都・神護寺の覚朝大僧正は空海の彫った不動明王像とともに成田に下り新勝寺を開く

2018年05月22日 | よしなしごと

2018.5 成田山新勝寺を行く ②総門 空海 神護寺 
 総門は2007年建立である。故T君を始めゼネコンOの精鋭、宮大工、大勢の職人がつくりあげた、高さ15mの楼門である(写真)。
 表参道は左に右にカーブしていて、境内あたりでは西から東に緩やかに弧を描いている。その弧に面して総門が建ち上がっているので、表参道からは総門が見えず、突然と姿を現したように感じる。

 遠くに山門を眺めながら敷砂利を一歩一歩踏みしめる、あるいははるか高みの山門を見上げながら一段一段石段を上る場合は、徐々に緊張が高まり、山門にたどり着いたときには気持ちが集中し、素直に神仏に吸い込まれていく気がする。
 その一方、成田山新勝寺総門のように、表参道からは見えず突然に現れると、雷が突然落ちたときのような驚きに包まれる。
 その現れ方が突然であればあるほど、総門が巨大で気高ければ気高いほど驚きは大きく、一瞬にして緊張が高まり、気持ちが一点に集中する気がする・・京都・仁和寺仁王門などでも実感した・・。シートで覆われた工事中の骨組みからはとても想像できない巨大さ、荘重さを感じた。故T君を思い出しながら一礼し、総門を抜ける。


 成田山新勝寺は真言宗智山派の大本山で、本尊は不動明王である。成田山のパンフレットによれば、嵯峨天皇(786-842)の勅願で弘法大師空海(774-835)が敬刻し開眼した不動明王像で、京都・高尾山神護寺に奉安されたそうだ
 ・・2018年4月、成田山を訪ねる2週間ほど前に京都・神護寺を訪ねた。弘法大師空海が入山したことは神護寺のパンフレットにも記されているが、空海が彫った不動明王のことは触れられていなかった。だから、神護寺-空海-成田山のつながりはまったく気づかなかった。知識が浅いとこういうことはよく起こる・・。

 話を戻して、939年、平将門が反乱を起こす。朱雀天皇(923-952)の密勅を受けた寛朝大僧正(916-998)は、神護寺の不動明王とともに成田に下り、平和祈願の護摩を修めたところ、940年、兵乱が平定された。この功績で、成田山新勝寺が開基された。
 覚朝大僧正が成田に下ったことは、神護寺ホームページに記されている。もともとここに高雄山寺があり、802年、最澄が法華会を行い、812年、空海が入山して寺を整備し、神護国祚真言寺=略して神護寺と名を改めた。
 空海によって開かれた真言宗の寺で、後年の覚朝大僧正が開いた成田山も真言宗になる。空海-真言宗-神護寺-覚朝大僧正-成田山のつながりも、成田山で理解できた。
 断片的であっても知識はやがて線でつながり、意味をなしてくることも少なくない。2018年は、寛朝大僧正による成田山開基1080年に当たるそうだ。成田山の僧侶は、神護寺に足を向けて寝られないね。
続く

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2018.5 成田山表参道には歌舞伎役者像、12支石像、うなぎ屋と見どころ多し

2018年05月20日 | よしなしごと

2018.5 成田山新勝寺を行く ①表参道 歌舞伎役者像 十二支石像 うなぎ屋 

 だいぶ前、2006年か2005年ごろ、工高クラス会で、大手ゼネコンOに務め成田山新勝寺総門を担当していたT君が、「躯体工事が終わり屋根葺きに入るところなので、いまなら小屋組をはじめ総門の骨組みが見られる、屋根が葺きあがると内装工事に入り、小屋組は見えなくなるし、部外者の見学もしにくくなる、いまなら見学しやすい」と、見学に誘われた。
 さっそく見学に出かけけることにした。当日、若い現場監督のていねいな説明を聞きながら、工事半ばの総門をくまなく見せてもらった。

 総門の見学を終え、大本堂に参拝するころ日が落ちたので帰路についた。総門落成式の様子はテレビでも紹介され、T君を思い出しながら報道を見た。
 T君は責任感が強く、定年後も参与職?を務めた。がっしりした身体で健康そうだったが、病に倒れ、先立った。合掌。

 成田山新勝寺は節分などでしばしばテレビに取り上げられる。成田空港に近いせいか外国人の観光スポットにもなっているようだ。今春も成田山新勝寺がテレビに登場し、総門がアップで映された。
 堂々とした総門に目を見張った。工事中の総門は見学したが、完成後の総門はまだ見ていない。故人になったT君に「俺の担当した総門をちゃんと見てくれよ」と言われそうだ。2018年5月某日、成田山新勝寺に出かけた。

 JR日暮里駅から京成本線特急に乗り換える。以前の成田空港行きスカイライナーは成田駅にも停車したが、スカイアクセス線運行後はスカイライナー、アクセス特急は成田駅を通らず空港に直行することになった。
 日暮里~京成成田は特急でも1時間近くかかる。埼玉と千葉は隣り合わせで、道路は圏央道が開通し埼玉~千葉の時間距離が縮まったが、鉄道はいったん都心に出ないと移動がスムーズにいかない。ついつい足が遠のいてしまう。

 京成成田駅前はビルが建て込んでいて、観光案内所などは見当たらない。参道に向かって歩くと、JR成田駅前のロータリーに出る。JR成田駅ビルに観光案内所があったので、観光案内図をもらう(写真、JR成田駅、右手に観光案内所、ホームページ参照)。

 表参道の始まりに、歌舞伎役者像が見得を切っている・・観光案内図に「成田屋」の屋号のいわれが書かれているが、後述の額堂で紹介する・・。
 歌舞伎役者像を左=北に折れると表参道である。下る人もわずかいるが、上る人がぞろぞろと言っていいほど多い。家族連れ、外国人、グループが両脇に並ぶ店をのぞきながら、のんびり歩いている。
 ギリギリ2車線分の両側に歩道がとられているが、歩道が狭いのでベビーカーがはみ出し、グループ連れが車道にふくれる。右側の店から左側の店をのぞく人もいる。車はのろのろ走っていく。ヒヤヒヤする歩車共存である。

 歩道・車道の区分に石像が並んでいる。よく見ると、ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、リュウ?、ヘビ・・・、どうやら12支にちなんだ石像らしい。??、亀もあった。縁起のいい鶴亀?か、でも鶴は見当たらない。歩車を分ける味気ないポール、柵よりは気が利いているから、なぜ12支か、鶴はどうしたかなどは小さなことであろう。
 参道にうなぎ屋が多い(写真)。店先でウナギを捌いていて、手慣れた裁き方に外国人が目を点にしていた。
 蒲焼きの香りに釣られたか、まだ昼時には早いのに列ができている食事処もあった。表参道はおよそ800mで、両側に150店ほど並んでいるが60店がうなぎ屋だそうだ。そのどれもが繁盛しているらしい。
 成田の北を流れる利根川流域には印旛沼など低湿地や沼が多く、昔からウナギがよく捕れた。
 江戸時代に歌舞伎役者「成田屋」が評判になり、成田山参詣が急増して、食事の需要が増えた。
 古くから夏の暑さを乗り切るためにウナギを食べる習慣があり、江戸時代に丑ウシの日にウナギ・・ウがつけば馬肉でも良かったとの説もあるが・・が広まった、などの諸説がある。
 どの説も納得できるから、表参道にうなぎ屋がひしめいても十分に採算が取れるようだ。ウナギは参拝後の楽しみにして、坂道を下る。


 表参道は右に左に大きくカーブしている。表参道を歩いていても、総門も大本堂もまったく見えない。対象物が見えないと足が遅くなり、参拝客の目は参道に並ぶ店に向いてしまうようだ。これも参道の賑わいをつくる要因であろう。

 大きな入母屋屋根が見えるあたりで視線が止まる(写真、ホームページ参照)。行き止まりのようにも見える。あとで、入母屋屋根は新勝寺・光輪閣の屋根だったことが分かるが、参道の家並みに溶け込んでいて、参道を賑わす店の一つと勘違いしてしまう。
 このアイストップを右に折れると、左に総門が姿を見せる。
続く

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