yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.6 赤城を行く2 カルデラ湖の覚満淵を歩き、隠れ家のような宿で眺望風呂を楽しむ

2020年06月30日 | 旅行

2020.6 赤城を歩く 2   <日本の旅・群馬の旅

小尾瀬と呼ばれる覚満淵を歩く
 大沼は標高1345m、周囲4kmほどで、起伏も少なく、遊歩道と県道を利用すればおよそ1時間で歩けるそうだ。起伏の少ない1時間の散策なら挑戦できるが、山の天気は変わりやすい。土砂降りのリスクを避け、大沼一周ハイキングはパスし、覚満淵に向かった。
 覚満淵の北側に、覚満淵を抜け、地蔵岳や大沼などを結ぶ自然歩道・登山道である関東ふれあいの道の入口ゲートがあったが閉鎖されていた。新型コロナウイルス感染予防でさまざまな施設の利用が自粛されているためだろうか?。

 県道70号線を走ると、赤城公園ビジターセンターがあり、大きな駐車場、公衆トイレが併設されている。ハイキングや観光のパンフレットを探そうとビジターセンターをのぞいたが、閉館していた。ビジターセンターも自粛中らしいと思った・・翌日は開館していたので、定休日だったようだ?・・。
 ビジターセンターの反対側にも覚満淵のゲートがある。近づくと金網の引き戸が閉められていた。やはり自粛か?、と思いながら近づくと、「鹿から植物を守るために戸を閉めています、開けたら必ず閉めて下さい」といった意味の張り紙があった。覚満淵散策はできそうだ。

 覚満淵は標高1360m、周囲500m?800m?の沼と、周囲の湿原の総称で、小尾瀬と呼ばれるほど湿性植物、高山植物の宝庫だそうだ(写真)。植物を保護するための木道が整備されていて、沼を30分ほどで一周できる。傘を差し、金網戸を閉めて歩き始める。
 覚満淵は、5世紀ごろ、比叡山の高僧覚満法師がここで七日七夜の大法会を営んだことに由来するらしい。比叡山から赤城山まで来て大法会を営むのだから、そのころから赤城山の霊力が京の都でも認められていたのであろうか。
 木道を歩いているのは私たちだけである。鴨が水面を泳ぎ、鳥がさえずる。静かな風景にひたりながら、沼を一周する。

 覚満淵から標高1392mの鳥居峠に登るルートがあり、覚満淵や赤城山の眺望を楽しめるらしい。時計は14:50、鳥居峠まで高低差30mほどだから登り降りしても明るいうちに戻って来られる。
 覚満淵を囲む駒ヶ岳?、地蔵岳?、小地蔵岳?などを見ると、雲が忙しく流れていく。山道で土砂降りになれば足元がおぼつかない。鳥居峠も霧、雲に包まれている可能性も無くはない。鳥居峠もパスし、鹿除けの金網戸をしっかり閉め、車に戻る。

隠れ家のような山屋蒼月で眺望半露天温泉を楽しむ
 覚満淵から宿に向かう道は、先ほど走った県道4号線=上毛三山パノラマ街道と、小沼を経て山あいを下る県道16号線がある。ナビによれば、県道4号線の方が距離は長いが時間が短い。たぶん県道16号線は県道4号線よりもカーブが多く、走るのに時間がかかるのであろう。走行時間の短い県道4号線を選ぶ。
 ほどなく雨が激しくなる。赤城山総合観光案内所あたりのツツジも雨に煙ってもうろうとしていた。ワイパーを最強にしても前が見えないほどの雨のドライブは何度も体験している。ライトをつけ、カーブごとに十分に減速し、坂道を下る。下るにつれ、雨はおとなしくなった。

 県道4号線=上毛三山パノラマ街道はやがて直線になり、家並みが増えた。そば処ささやを過ぎて間もなく、国道353号線=東国文化歴史街道を左に折れる。
 県道16号線を越えてほどなく今日の宿「山屋蒼月」に着く。宿の駐車場に車を入れようとしたら、小雨のなか、スタッフと職人が大立ち回りをしていた。少し前、大雨で駐車場の一部が陥没したそうだ。女将も体験したことのない大雨に驚いていた。

 駐車場から玄関戸を開け、屋根付きの路地をぐるりと回った先にフロント・ロビーがある。隠れ里に入って行くような仕掛けになっている。フロント・ロビーは独立していて、受付を済ませたあと右の自動ドアを出て屋根付きデッキを折れると、私たちの予約した本館入口がある。ここで靴を脱ぎ、畳廊下を歩き、畳階段を上ると、見晴らしのいいライブラリーラウンジがあり、その先が眺望半露天風呂が付いた私たちの部屋である。

 敷地は5000坪ほどもあるそうで、緩い斜面に庭園、池、せせらぎ、林が整備され、そのあいだを縫うように屋根付き渡り廊下が伸びていて、本館、フロント・ロビー、個室食事処、別館、別邸、離れ、大浴場が配置されている(写真、フロント・ロビーからの眺め)。
 どの部屋にも温泉の露天風呂が設けられている。温泉大浴場を利用せず食事も部屋まで運んでもらえば、誰とも会わずに過ごすことができる。まさに隠れ家である。

 さっそく眺望のいい桧風呂に入った。窓を開けると、左に奥深い林が広がり、正面には緑の先に前橋?の街並みが遠望できる(写真)。雨だれを聞きながらのんびり温泉を独り占めした。
 湯上がり後、ライブラリーラウンジで、雨に煙る緑を眺めながら生ビールを頂く。ぜいたくな時間である。

 夕食は、フロント・ロビー左の自動ドアを出た先の個室が並んだ食事処である。
 食材はすべて地元群馬の素材を使っていて、食前酒=自家製果実酒に始まり、先付=赤城のゆべし、突出=里山七種、椀物=南瓜すり流し、向付=蒟蒻刺身、焼物=紅鱒塩焼、蒸物=トマトとチーズの茶碗蒸、強肴=上州牛ローストビーフと茄子ステーキ、炊合=夏野菜冷やし鉢、揚物=かき揚げ、温物=上州麦豚柳川風鍋、そして御飯、留椀、香の物、菓子と、群馬の素材+自家製が続いた。
 群馬は海がないので、刺身や海老などの海の素材は使わず、その代わり、群馬の素材にこだわって料理が工夫されている。とてもおいしかったが、量が多すぎる。途中から若いスタッフに少なめ、少なめを連発しながら頂いた。

 お酒は、地元銘酒である秘幻、桂川、別撰聖徳の利き酒セットを頼んだ。透明のガラス器なので色合いの微妙な違いを見比べながら、美味しく頂いた。料理が美味しくお酒がすすんだので、純米吟醸山屋蒼月を追加した。どれも料理との相性が良かった。  続く(2020.6)

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2020.6 赤城を行く 赤城山大鳥居・霧下蕎麦・レンゲツツジ・赤城山を祀る赤城神社

2020年06月24日 | 旅行

2020.6 赤城を歩く 1   日本の旅・群馬の旅

 埼玉県、東京都、神奈川県、千葉県の4都県に出されていた新型コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言が段階的に解除され始めた2020年6月、温泉で気晴らし+ハイキングで健康+ささやかな経済投資を兼ね、すでに緊急事態宣言が解除されている群馬県赤城山に向かった。
 公共交通機関での感染リスクを避けるためマイカーを使い、宿は感染予防対策が行き届いた赤城温泉山屋蒼月を選んだ。webでは、山屋蒼月はほとんどの部屋が離れ型で、部屋に露天温泉が付き、食事は個室でとると紹介されている。結果的に、限られたスタッフ以外との接触は全くなかった。家族だけ、カップルで楽しみたい旅ばかりでなく、今回のような感染予防にぴったりの宿だった。

東国文化歴史街道を走り、大鳥居を抜ける
 出発当日、さいたまは薄曇りに日射しもあり、Tシャツでも暑いほどだった。家を出てから40~50分で川越IC、関越自動車道に入り途中の上里SAで中休みをとり、前橋ICを降りて国道17号線を東に走る。ナビには東国文化歴史街道と表示が出た。
 群馬県南部には、遺跡、古墳、国府、宿場などの史跡、遺構、文化財が多く残っているので、それらをめぐる国道17号線、122号線・・や県道を結んだ観光街道を東国文化歴史街道と愛称しているそうだ。国道**号線、県道**号線より、東国文化歴史街道の方がその地域に特徴的な歴史文化、自然景観などをイメージしやすい。もっとも文化歴史に関する史跡、文化財はどこにでもあるから、どの都道府県でも文化歴史街道は通用しそうである。名称、愛称は先手必勝である。群馬県は観光産業に力を入れているようだ。
 利根川を渡り、左に群馬県庁を見ながら東国歴史文化街道を走る。左折し、右折し、左折して北に向かうと東国文化歴史街道は県道4号線に変わる。緩やかな坂を走っていると、赤い鳥居が見えてきた。道路をまたいだ鳥居はかなり大きい(写真)。扁額は「赤城山」と読める。県道4号線を北上し、山道を上りきると大沼に出て、大沼の対岸に赤城神社が鎮座するから、この巨大な鳥居は赤城神社の神域の印だろうか。

さ丶やで霧下蕎麦を味わう
 ガイドブックにはこのあたりの蕎麦の名店がいくつか紹介されている。その一つ、右手の「さ丶や」に入った。大きな切妻屋根は信州の本棟造を思わせる(写真)。引き違い戸を開けると、古風な作りの座敷が広がり、手前の座敷にはいろりが据えられている。やはり本棟造の移築かも知れない。
 コロナウイルス騒ぎがなければいろり端に腰を下ろすが、感染リスクの少ない庭の見える掃き出し側に席を取った。網戸を通してさわやかな風が通る。風が心地いいし、ウイルス感染予防にもなる。
 さ丶やでは霧下蕎麦を自家製粉石臼挽きし、地下80mの清水を使用しているそうだ。霧下蕎麦とは、標高500~700mの高原地帯で栽培された蕎麦のことで、寒暖差が大きいため朝霧が発生し、おいしい蕎麦が育つらしい。たぶん赤城高原は朝霧が発生し易い土地で、霧下蕎麦が栽培され、蕎麦の名店が多くなったようだ。
 おすすめメニューは龍神で、小さめの椀に山菜、天ぷら、きんぴら、とろろをのせた蕎麦と蕎麦寿司が5段重ねになっている。量が多そうだし、キノコの苦手な私には山菜がくせ者なので、おろし蕎麦を頼んだ。おろしだけなので、蕎麦の味が堪能できる。コシのあるおいしい蕎麦を味わった。

上毛三山パノラマ街道のヘアピンカーブを上り、ツツジを眺める
 13:10過ぎ、さ丶やを出る。小雨がぱらつき始めた。次の交叉点から県道4号線は上毛三山パノラマ街道に名を変える。東国文化歴史街道は右に折れ、国道353号線になる・・翌日、東国歴史文化街道の国道353号線を走り古墳に向かったので後述する。
 上毛三山とは赤城山(1800m級)、榛名山(1400m級)、妙義山(1100m級)のことでいずれもハイキング~登山+温泉で人気が高い。東国文化歴史街道が史跡、文化財なら、上毛三山パノラマ街道の愛称は山+温泉を活用した観光産業をうかがわせる。
 県道4号線は次第に上り勾配がきつくなり、林が深くなる。山道特有のカーブが次々と現れる。山道を走るのは慣れているが、気は抜けない。つづら折れの坂道を右に左にハンドルを切る。整備の行き届いた往復2車線の道路だから走りやすいが、エンジンがあえぐほどの急坂でスピードが出ない。
 さ丶やから30分ほど、ヘアピンカーブを曲がった左に赤城山総合観光案内所がある。案内所のまわりの斜面が白樺牧場で、このあたりはツツジの名勝地らしい。一休みを兼ねて、車を駐め、ツツジを眺める(写真)。
 赤城山の麓では4月ごろからツツジが開花し、~5月~6月~7月とツツジが赤城山を登っていくそうだ。白樺牧場あたりには10万株のレンゲツツジが植えられていて、例年なら赤城山新緑&つつじWEEKが開催されるが、今年は新型コロナウイルス感染予防のため、人の集まるイベントはすべて中止になっている。それでも小雨に煙るなか、レンゲツツジは朱紅色の花で目を和ませている。
 ツツジはレンゲツツジのほかに、ヤマツツジ、ミツバツツジ、アカヤシオ、シロヤシオ、ムラサキヤシロなどの品種があり、花の色や花の大きさ、花弁の数などが違うらしい。草花も疎いから見分けがつかないので、色づいた山の風景を矯めつ眇めつ・・ためつすがめつ・・眺める。
 牛はレンゲツツジに含まれる毒が分かるようで、レンゲツツジは食べず、まわりの草を食べてくれる。その分、レンゲツツジの育ちがよくなる・・牛の糞も栄養になるかな?・・。牧場とレンゲツツジは共存共栄関係になる。牧場のミルクでつくったソフトクリームがここの名物だそうだ。観光客は目でツツジ、口でソフトクリームを楽しみ、牧場はレンゲツツジで牛が元気になり、おいしい牛乳とソフトクリームで経営もうまくいく。こちらも共存共栄関係である。
 ・・ただし、小雨のせいか牛は姿を見せず、羊も飼育しているらしいがマスコットの似顔絵だけだった・・。

カルデラ湖大沼東岸・赤城神社の御神体は赤城山
 もう一息、ヘアピンカーブを曲がり切ると、上毛三山パノラマ街道はT字路を右に折れて県道70号線に変わり、山に囲まれたカルデラ湖の大沼が現れる。
 赤城山は榛名山、妙義山と並ぶ上毛三山の一つで、日本百名山、日本百景に選ばれているが、赤城山という山はない。中央の大沼、東南の覚満淵、その先の小沼はいずれもカルデラ湖で、カルデラの周囲を囲んでいる黒檜山1828m、駒ヶ岳1685m、長七郎山1579m、地蔵岳1674m、荒山1572m、鍋割山1332m、鈴ヶ岳1565m、小地蔵岳1574mなどの峰々の総称が赤城山と呼ばれている。
 大沼の東岸、赤城山最高峰の黒檜山の西麓に赤城山を祀る赤城神社が鎮座する。県道4号線=東国文化歴史街道を走っている途中、前述した赤城山の扁額をかけた大鳥居をくぐった。赤城山が御神体だから、山麓に立つ大鳥居が神域を象徴していたとの推測は正しかったようだ。
 駐車場には数台しか駐まっていなかった。平日で天気も悪いうえ、新型コロナウイルス感染予防で外出自粛、ステイホームが強調されているためであろう。
 赤城神社の創建は7世紀ごろで、山岳信仰の崇敬者を集め、関東一円におよそ300の末社があるそうだ。近年改修され、本殿は朱塗りが鮮やかである(写真)。先客がいたのでソーシャルデスタンスを十分に開け、暫時待ってから二礼二拍手一礼する。
 赤城神社は大沼に鳥のくちばしのように突き出た半島の先に建っていて、くちばしの先端から対岸まで朱塗りの木橋が架かっている(写真)。新郎新婦が手を携え大沼に架かった橋を渡れば、赤城山の霊力によって二人の気持ちが一つに昂揚するに違いない。が、雨で滑りやすいのか、新型コロナウイルス感染予防のためか?、橋は通行止めだった。小雨でも地蔵岳?を遠景にした大沼と朱塗りの橋は絵になっているから、晴れていれば見事な構図になりそうだ。 続く(2020.6)

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阿久津和生著「お城のできるまで」は親が下調べをし小学校上級~の子に読み聞かせるといい

2020年06月19日 | 斜読

book511 お城のできるまで 阿久津和夫 集英社 1980  斜読・日本の作家一覧
 1980年代、子ども向けの図解本が流行した。本書「大人と子供の絵本シリーズ1 お城のできるまで」も、小学校上級以上を対象に、築城の様子や方法を大判の図と分かりやすい文で解説している。著者阿久津氏は、大人にも十分楽しめると紹介している。
 さっそく購入したが、私自身が城郭に詳しくなかったこともあって説明に身が入らず、低学年だった子どもたちにも城のイメージがわきにくかったようで、一度目を通しただけで本棚行きになった。

 たまたま本棚の終活・断捨離をしていて、埃のたまった本書を見つけ、読み直した。著者阿久津氏は、国宝犬山城、「国宝犬山城天守修理工事報告書」、伊藤ていじ著「城 築城の技法と歴史」などを参考にして本書をまとめたそうだ。
 P4戦国時代では山の上に城を築いたが、戦国時代が終わると・・P7敵が攻めにくく、水に恵まれ、交通の中心となり、城下町のつくりやすい場所が城づくりに選ばれるようになる。
 P9城には、領主が指揮をとる天守閣、見張り+攻撃のための櫓、領主の住む御殿、重臣の住む屋敷などがつくられる。
 P11秋の刈り入れが終わるころ、農民たちが城の予定地の丘に集められ、P13丘への道づくり、本丸の地ならし、測量がすすめられ、P15~P16堀を堀り、盛り土をし、P18石垣の石が切り出され、P19じょうぶなヒノキが切り出される。
 P21石は船をつかい、木はいかだを組んで川を下り、重い石はろくろで運ばれた。p23木枯らしの季節、石工により天守閣の石積みが始まる・・P25に天守閣の石垣=天守台の断面・・。P27梅の花のころ、天守台の工事が終わり、農民は農作業のため村に戻り、大工の仕事が始まる。
 P29天守台の工事中に大工は材木の加工を進める・・P30大工道具と大工仕事・・。P33天守閣の入口の骨組みをつくり、p34湿気に強い松と栗の木で天守閣の土台を組む・・P35土台の組手・継手・・。p36土台に柱を立て、柱と柱のあいだに梁を入れ、P38小屋根の垂木を打ち、P41鍛冶屋が釘づくりをすすめる・・農民も手伝う。
 P43骨組みが出来上がり、床板が張られ、P44屋根に垂木が打たれ、天守閣の姿が浮かびあがり、p45窯場で瓦やしゃちほこ、鬼瓦が焼かれ舟で運ばれる。
 P47屋根は野地板の上に荒土を盛り瓦を葺き、外壁は板小舞にする。p48城にはご殿、重臣の屋敷の工事がすすみ、城下に商人、職人の家が建ち始める。
 p51本丸を囲む土塀、櫓、門がつくられ、本丸への道は敵の攻撃を防ぐように階段にし、土塀はがんじょうにつくられ、p52石落としや弓や鉄砲のための狭間が設けられ、p53大手門には敵に反撃するための升形を設ける。
 P55天守閣の4階には城下町の暮らしぶりや敵の様子を見るための見晴台が巡らされる。P57冬が近づいてきたので室内壁の竹小舞を急ぎ、P58荒土を塗り、仕上げの漆喰を塗る。
 P60天守閣完成、P64城内の建物も完成し、P66石工、大工、瓦師、建具師、左官、その他の職人、農民が城を後にし、P69領主、重臣たちが新しい城に引っ越してきて、P71春の城下町はにぎわいを見せ、城づくりの話が終わる。

 いまから40年前だから城の情報は限られていた。遠出の旅行もしにくかったから、子どもも大人も城を見学する機会は少なかった。大判の図と簡潔な文の「お城のできるまで」は、子どもにも大人にも築城の過程を分かりやすく紹介している、と思う。城の独特の構造や専門用語に著者阿久津氏も苦労したのではないだろうか。
 
 私は旅好きだが年を重ねるたびに旅の趣向が変化し、最近は城を組み込んだ旅が増えた。2016年~2019年の旅では、長浜城、彦根城、熊本城、姫路城、名古屋城、岐阜城、犬山城、金沢城、松本城、高松城、丸亀城、大洲城、宇和島城、松山城、浜松城、掛川城、小山城、駿府城、仙台城、小田原城ほかを訪ねた。
 現存する国宝もあれば、復元、再現や城跡だけになった城もある。あわせ資料や武将たちをテーマにした本も読んだから、城に詳しくなった。
 近年の城ブームで、テレビでも城をテーマにした番組が増え、CGを駆使して微に入り細に入り解説してくれるので、ますます城の理解が深まった。

 そうした経験を踏まえると、城の本来の役割だった敵の攻撃をいかに防ぐか、逆に敵から見ればいかに城の防衛を突破するかについて書き加えると、城づくりがもっとダイナミックに感じられると思う。

 絵本はテレビ、映画、CG画像にはかなわないが、親子が絵本を開き、一ページずつ読み解くことで城づくりを共有できる。話が、戦国時代や鉄砲の伝来に広がり、あるいはヨーロッパの城と日本の城の違いに飛び、さらには神社建築と寺院建築に発展し、新しい旅の計画につながるかも知れない。
 ・・もちろん、親は事前に目を通し、気になることは下調べをしておく・・オンラインが普及しているいまなら親子で調べるのもいい・・。
 (2020.2)

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黒沢歩著「ラトヴィアの蒼い風」は著者の暖かな眼差しでラトヴィア人の生き方を描いている

2020年06月17日 | 斜読

book514 ラトヴィアの蒼い風 黒沢歩 新評論 2007  斜読・日本の作家一覧> 
 2009年9月にリトアニア・ヴィリニュス~ラトビア・リガ~エストニア・タリンを訪ねた。いつの間にか10年を過ぎた。記憶をたぐりながらラトビア紀行をまとめているとき、そのころ著者黒沢氏がラトビア語習得でリガに住んでいて、日々の体験をもとにラトヴィア人の考え方や文化様式をさらりとまとめた本を出版していたことを知った。
 その一冊が本書で、副題は「清楚な魅力のあふれる国」である。「蒼い風」も「清楚」も黒沢氏が受けた強い印象であろう。

 観光旅行の私は2泊3日のリガ滞在で、社会が安定している、人々が国づくりに力を入れている、どこも清潔で人々は明るい、安心して街歩きができるなどを直感したが、蒼い風を感じるには至らなかった。黒沢氏のようにラトビア人の目線になりきって暮らさないと感じられないようだ。
 
まえがき
  ラトヴィアを正しく理解していない人が多い=遠い国だが、第2次世界大戦前、バルト三国唯一の日本公使館がリガに置かれ300名の館員がいた=近い国など、ラトヴィアを初心者向けに紹介している。

第1章 ようこそラトヴィアへ  
 黒沢氏がリガに暮らし始めたのは1993年で、まだ右も左も分からないころ日本への国際電話で苦労した話から始まる。
 日本ではLatviaの表記でラトビアが多く使われるが、黒沢氏によればラトヴィアの方が原語に近いそうだ。首都名Rigaはリガ、リーガのどちらも使われるが、黒沢氏はリーガを使う。
 黒沢氏は日本語の先生を務めている。生徒に日本語を教えるとき、たとえばlaもraも日本語ではラになる。日本語の抑揚、アクセントはどちらかというと平坦だが、ラトヴィア語は大げさすぎるほど抑揚がつくらしい。話す+聞く+書くで苦労が尽きなかったようだ。
 そういった体験をもとにしたラトヴィアでの暮らし、ラトヴィア人の考え方が平易な文で綴られていく。
 古代、バルト海の北の海岸沿いに住んでいたリーブ人は漁業を営んでいた。12世紀末、(アルベルト率いる)ドイツ人がキリスト教布教を名目に進攻する。リーブ人は征服され、ラトヴィア人に融合し、いまや消えゆく民族になったが、リーブ人の名残を伝承する祭りが毎年開催されていて、その希望に満ちた様子が紹介されている。

 テレビで映画「クロコダイル・ダンディ」を見たことがあるが、なんと主役はラトヴィア人だそうだ。リガの新市街アルベルタ通りにはユーゲントシュティール建築=アールヌーヴォー建築が建ち並んでいて、その設計者はロシア生まれのエイゼンシュテインであり、リガで生まれ育ったその息子のエイゼンシュテインは(戦艦ポチョムキンなどの)映画監督である。「ほらふき男爵」の奇想天外な話はよく知られるが、そのエピソードを語ったミュンハウゼンはリガ警備隊大尉のとき地元の娘と結婚したそうで、ラトヴィアゆかりの著名人は少なくない、
などなどが第1章 1.電話の行方、2.ラトヴィアか、ラトビアか、3.大海原と山へのあこがれ、4.リーガの交通、5.選挙後のトイレ、6.リエアパーヤ 風の生まれる町、7.リーブ人の祭り、8.ほらふき男爵、現る?、9.ラトヴィア料理を食べる  に語られている。 

第2章  猫のいる風景
 ラトヴィアではペットが家族の一員で、子どもの家族紹介では「父と母とおじいさんとおばあさん、そして犬と猫と・・」のように必ずペットが登場するそうだ。
 ・・幼いときに重い病気にかかって足の力を奪われ・・それでも生きねばならず、生きる意味を見つけなければならない・・歌は歌えない、本も書けず、子どもも産めない・・手と頭を使い・・自然、歌や芸術、世のなかの出来事に感じ考えたこと・・自分なりの世界観を手袋に編んだ・・イェッテさんを訪問したとき、イェッテさんが俳句「冬の陽 幹を這い上がり 消えた」をさらりと詠んだくだりは胸に迫る。車いすでしか動けないイェッテさんの大きな前向きな気持ち、それを暖かな眼差しで綴る黒沢氏、慈愛の心の強さを感じる。
 第2章は、1.詩のある暮らし、2.イェッテさんと猫、3.リーガの猫たち、4.病院の猫、5.列車に乗って、6.ラトガレの陶芸家 、第3章 女の情景 では、1.ピルツはサウナではない?、2.一家の柱3.出稼ぎ世代のドラマ  が語られ、あとがきで幕となる。
 
 本書はラトヴィア観光の手引き書ではないので観光ガイドブックは別に用意し、ラトヴィアに比較的長く滞在するなら持参して現地で少しずつ読み、ラトヴィア滞在が短い場合は事前に読んでおくと、黒沢氏の暖かな眼差しを通したラトヴィア人の考え方、生き方を理解することができる、と思う。
 10年前の2泊3日のリガ散策を思い起こすと、屋根の塔に猫の彫像をのせた観光名所「猫の家」以外の猫には出会わなかったが、悲惨な歴史を体験したにもかかわらず、ラトヴィア人が明るい笑顔で過ごしている謎がこの本を通して少し解けた気がする。 (2020.6)

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2000.8 中国西北シルクロード1 蘭州は遠い・回族民家・巨大な灌漑水車

2020年06月15日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 1  

 初めての中国訪問は、当時の大阪市立大学T教授に誘われ、上海郊外の農村住宅調査に参加した1986年4月である。そのとき上海・同済大学のC教授を知り、その後、C教授の助言を受けながら何度も中国を訪ね農村住宅の調査を重ねた。
 中国は漢族55の少数民族で構成される。中国の人口はおよそ14億人で漢族が92%を占め、55の少数民族は8%ほどで、漢化されながらも独自の文化を維持している。調査した農村住宅の多くは漢族だったので、少数民族の住み方が気になる。
 2000年8月、少数民族の住み方を実感しようと、M教授の助手で私が保証人となって来日し、東京大学研究生になっていた上海出身のM君に助言をお願いして、①→蘭州、②蘭州で回族民家、③→夏河でチベット族民家、③→敦煌で漢族農家、④敦煌、⑤→トルファン、⑥トルファンでカレーズ、ウイグル族民家、⑦→ウルムチでカザフ族民家、⑧→西安、⑨→成田の行程で中国西北を訪ねた。M君には現地でもずいぶんと助けてもらった。改めて謝意を表す。

シルクロードを行く/早朝家を出て深夜蘭州飛天大酒店着
 初日、当時大宮の旧宅を8:30ごろ出て成田空港に向かう。中国東方航空・上海便は、飛行時間3時間半ほど、時差-1時間で、16:00過ぎに上海空港・国際線に着陸する。何度も上海に来ているが、来るたびに新しくなっている。鄧小平(1940-1997)氏の改革開放政策の成果であろう。
 通関し、2万円を1511元に両替・・1元≒13円・・、空港ホテルで早めの夕食をとる。
 18:00ごろ、M君と合流し、上海空港・国内線蘭州行きにチェックインする。混雑で1時間ほど遅れ、飛行時間3時間ほどで22:30ごろ蘭州空港に着陸する。現地ガイドのKさんが出迎えてくれた。

 今回の旅行手配は中国の農村住宅調査で何度も手配をお願いしているS社で、代表のSさんとは懇意である。そのSさんにシルクロード、敦煌、少数民族をキーワードに手配をお願いした。現地ガイドのKさんも事情は分かっているようだが、真夜中なので挨拶もそこそこにホテルに向かった。

 眠気と暗さで様子が分からないうち、蘭州中心街に建つ超高層ホテルの蘭州飛天大酒店に着いた。すでに24:30を過ぎている。大宮(北緯36度・東経135度)を朝8:30、蘭州(北緯36度・東経103度)は深夜24:30、移動にのべ16時間かかった。さすが中国大陸は広い。
 「飛天」は空を舞う天女のことで、シルクロードを経て伝わったとされる。シルクロードの旅に飛天と名付けられたホテルに泊まるのは幸先いいが、眠気と疲れで天女の壁画?、彫刻?を探す意欲も起こらない。翌日の予定を確認し、ベッドに入った。

 翌朝、窓から眺めると、中層の集合住宅が整然と並び、そのすき間を昔ながらの木造瓦葺きの低層住宅が埋めていて、中層住宅のあちこちに高層、超高層のビルがにょきにょきと建ち上がっている(写真)。昔ながらの暮らし、近代の暮らし、そして現代の暮らしへと、時代が大きく動いている様子がうかがえる。
 朝食後、部屋をスケッチした(図)。室内は間口4mほど、奥行き4.5mほどにツインベッドが置かれていて、入口側にバストイレが設置されている。経済的な旅行でよく見られる標準的なツインベッドルームである。改革開放政策のただ中で欧米型ホテルを手本にしたようだ。飛天大酒店は超高層ホテルである(写真)。土地の効率的利用と経済発展の象徴として高い、大きい、新しいが目指されたのであろうか。

 8:45、マイクロバスで出発する。Kさんが市街を走るあいだ蘭州について紹介してくれた。+web情報も合わせる。
 蘭州Lanzhouはシルクロードの要衝の地として栄えていた。秦代に秦に組み込まれ、漢代に金城と呼ばれ、隋代に蘭州となった。
 人口280万人、うち市域内に150万人が住み、93%以上が漢族である。7%ほどの少数民族は15族ほどいるが、回族などイスラム系少数民族が多い。
 黄河(写真、web転載、5連鉄骨アーチ橋は1909年完成の中山橋)が蘭州市街を西から東に流れている。というより黄河に沿って市街が形成され、蘭州の発展に応じて市域は黄河沿い20kmほどに伸びたそうだ。
 黄河は全長5400kmで、中国では長江6380kmに次ぎ、世界では7番目に長い。上流域の黄土高原の黄土が黄河に溶け込んでいるため、前掲写真で見るように茶色く濁っていて、その黄河が流れ込む黄海も茶色い。中山橋は233mほどなので蘭州を流れる黄河の幅は200~300mぐらいだが、河口近くでは18kmにも及ぶ。長さといい、川幅といい、泥水のような流れといい、日本の川とは大違いである。
 蘭州市域は標高1600mほど(蘭州の標高は1512m)の高原で、夏は平均最高気温が29°を超えるが、冬は平均-10°を下回る。雨は年間300mmに満たない。中国最大級の石油埋蔵量があり10大工業都市として発展している一方、ウリ、メロンも特産だそうだ。そんな話を聞いていたとき、ウリを満載したリアカーが通り過ぎた(写真)。ホテルの朝食で食べたウリも美味しかった。地味と気候がウリに向いているのであろう。

シルクロードを行く/蘭州・回族の住まい
 Kさんが「このあたりは回族が多く住んでいる、見学できるか聞いてきましょうか?」といい、車を止めた。
 回族huizuは、唐時代に交易のため渡来したアラブ系、ペルシャ系の人々が定着し、イスラムに則って暮らしている民族である。唐以来1000年を超えるあいだに漢化が進んだが、豚肉は禁忌などイスラムの習俗は固持されているそうだ。中国全土で1000万人ほどが居住している。イスラムで欠かせないモスクは清真寺Qingzhensiと呼ばれ、清真寺を中心に居住区が形成されている。
 Kさんの交渉で許可を得たAさん宅の間取りをM君がスケッチし、私はKさんの通訳で部屋の使い方などを記録した。
 通り側=南側に2mを越える高さのレンガ塀を設けていて(写真)、塀から3mほど奥に横一列の住まいが建つ(間取り図)。
 門のやや左、住まいの中央やや右に片開き戸の入口があり、幅1.3mほどの廊下に面して、右=東から厨房、客庁、(小さい)套間、(大きい)套間の4部屋が並ぶ。部屋名はすべて中国語である。
 壁はレンガ積みで、厨房はレンガのまま、客庁、套間はレンガ+漆喰仕上げ、厨房の床はレンガ敷き、客庁、套間はレンガ+モルタル仕上げ、屋根は木造架構切妻瓦葺、天井はいずれもボード貼りだった。
 6人家族で、左=西の套間を世帯主夫婦と長男、次の套間を娘と子ども、客庁(写真)を祖母と娘が使っていた。
 間取りは漢族とほぼ同じ小規模の住宅であり、部屋名にも表れているが話し言葉も漢族と変わらない。宗教的儀式、儀礼はイスラムに則っているそうだが、住まいからは”回族らしさ”はうかがえなかった。
 お礼をいい車に戻る。

シルクロードを行く/蘭州・黄河に設けられた巨大水車
 10:00近く、黄河沿いの蘭州水車園に寄った。
 日本でも揚水、脱穀・精米・製粉などに水車が利用されていたが、技術革新とともに水車が姿を消し始めた。水の力でゴットンゴトンと動く水車は、骨組みの見事なバランスと相まって、見る者を興奮させる魔力がある。単一の水車も魅力的だが、福岡県朝倉・筑後川に復元された三連水車は走り出しそうな勢いさえ感じさせる。
 蘭州・黄河沿いの水車園に参観券2元≒26円で入園し、巨大な水車の迫力に圧倒された(写真)。直径が10数mの大きな水車が二つ並び、ゆっくりだが力強く回りながら、黄河の水を汲み上げていた。
 かつて手桶などで水を汲んでいたが、明代に発明家が試行錯誤のうえ水車を完成させたそうだ。現在の水車園の水車はすべて復元なので、やはり技術革新で水車が使われなくなったのであろう。
 水車が大きくなったのは、遠くまで水を送るため水の汲み上げ高さを高くしたかったためと思うが、大きい、高い、新しい、早い・・を目指す漢族の思い入れかも知れない。
 水車園はかなり広く、多数の水車が配置されているが、私たちは先を急ぐことにした。 続く(2020.6)

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