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奈良を歩く17 平城宮2 

2021年10月30日 | 旅行

日本の旅・奈良の旅>  奈良を歩く17 2019.3 平城宮2  大極殿・東院庭園・朱雀門

 第43代元明天皇(707-715)が平城遷都を決めたのが708年、2年後の710年には平城に遷都している。
 平城京は教科書にも出ているが、南北4.8km、東西4.3kmの広さで、中央北に平城宮、平城宮から南にまっすぐ朱雀大路が延び、南端に羅城門が設けられ、京内は南北を9の大路=条、東西を8の大路=坊で区画されている。遷都までわずか2年しかない。まず都城の骨格がつくられ、大極殿、朱雀門、内裏、朝堂などが先んじて建てられたであろうが、遷都後も工事は続けられたようだ。

 大極殿(第一次大極殿)は天皇の即位、元旦の朝賀、外交使節の謁見など、政の要となる宮殿だから最優先で、しかももっとも壮麗に建てられたはずである。しかし、724年に即位した第45代聖武天皇(701-756)は740年に恭仁京に遷都し、大極殿を新都に移築してしまう。ところが聖武天皇は大極殿を恭仁京に残したまま、742年に紫香楽宮、744年に難波宮に遷都し、754年になって平城京に復帰する。大極殿は恭仁京に残してきたため、内裏の南、もとの大極殿の東南に新たに大極殿(第二次大極殿)が建てられた。
 第一次大極殿の南に政務を行う朝堂院(中央区朝堂院)が建てられていたが、第二次大極殿の南にも新たに朝堂院(東区朝堂院)が建てられた。朱雀大路・朱雀門・中央区朝堂・大極殿が平城京の中心軸だったが、その東隣に東区朝堂院・第二次大極殿・内裏が並ぶ特異な形になった。
 ・・聖武天皇の奇々怪々な行動、発想に興味を引かれる。機会があればどなたかの本で推測してみたい・・。
 ・・恭仁京に移築された大極殿は、その後、山城国国分寺金堂に転用されたことが記録に残っているそうだ。現在は礎石などが残されているらしい・・。

 第一次大極殿は山城国国分寺金堂跡、同時代の寺院などの研究をもとに、平城遷都1300年の2010年に復元された(写真)。南を正面とし、間口44m、奥行き20m、高さ27mの堂々たる構えで、黒の本瓦葺き入母屋屋根に、高さ2mの黄金色の鴟尾を乗せている。
 当初、大極殿の周りには東西180m、南北320mの築地回廊が巡らされていて、南中央に南門とその左右に東楼、西楼が建てられていた。築地回廊、東楼・西楼の復元はまだ手つかずだが、南門は復元工事が進められている(写真)。南門の彼方に復元された朱雀門が見えていて、平城宮の広さが実感できる。
 1km四方の平城宮にも築地塀が巡らされ、南中央の朱雀門を始め12の門が設けられていたそうだ。宮内には壮麗な建物が並び、華やかな衣装をまとった貴人が暮らし、身分に応じた衣装の役人が勤めていただろうが、一般庶民は宮内をうかがい知ることはできなかった。華やかさの裏にはいつも陰がある。

 復元された大極殿の仮塀をぐるりと回り、大極殿東側から殿内に入る。殿内は朱塗りの円柱に支えられた巨大な空間で、圧倒される(写真)。
 見学者が入るとガイドがていねいに解説をしてくれる。朱塗りの天井もよく見ると、花びらのような絵柄が描かれ、壁面上部には四神や12支をモチーフにした絵が描かれている。気高い雰囲気の演出である。
 天皇の座所となる中央の高御座は、京都御所の高御座を参考に復元されたそうだ(前掲写真中央)。令和天皇即位の報道番組で、京都御所から運ばれた高御座を見た。令和天皇が衣冠束帯で高御座に座す儀式の原点となった平城宮の復元高御座を見ていると、歴史の重みを感じ神妙になる。
 殿内には屋根に飾られた黄金色に輝く鴟尾(前掲写真左)や宝珠の模型、天井画・壁画製作の解説パネルなどが展示されている。ガイドの案内で一回りし、大極殿を出た。

 大極殿の南側は中央区朝堂院跡だが、復元工事中の南門を除き空地のままである。
 東側の第二次大極殿、東区朝堂院は土壇が残されていて、礎石が並んでいる(写真、後方は第一次大極殿)。
 要所要所に平城京の都城計画と現在地を記したタイルが置かれているが(前掲写真手前)、手つかずの空地が広がっていて都城の様子は雲をつかむようだ。

 第一次大極殿から直線で南東700mほどに位置する東院庭園を目指して歩く。東院庭園は平城宮の東に東西80m、南北100mの広さで造園され、遺構をもとに1988年に復元された。庭園の周囲は大垣で囲われ、門が設けられていたようだが、現在は南側、東側の大垣と正門となる東院南門=建部門(たけるべもん、写真)が復元されている。
 建部門が正門だが、東区朝堂院跡から歩いてくると庭園の西建物に誘導される。西建物には庭園跡からの出土品、平瓦・丸瓦・鬼瓦や復元図などが展示されている。入園は自由だが、スタッフはいない。見学者もほかにいなかった。
 庭園内はほぼ全面が曲線を描いた池になっていて、州浜、入江、出島、中島、築山石組がデザインされ、北西に曲水が配置されている。当初はもう少し角張った池だったようだが、奈良時代後期に曲線の池に改修されたらしい。

 庭園中央に、池にせり出して間口2間、奥行き5間(うち2間は吹き放しで池にせり出している)、周囲に露台を巡らせた東西軸の正殿が建つ(写真)。正殿には、池の東側から東西軸で架けられた朱塗りの平橋を渡って入る。
 庭園北東には吹き放しの間口3間、奥行き2間、東西軸の北東建物が建つ(前掲写真右端)。北東建物は陸地に建っているが、南北軸で架けられた朱塗りの反橋で池を渡って入る。東西方向の平橋、南北方向の反橋の対比も目を楽しませる演出であろう。
 庭園東南偶には1階をL型の吹き放しとし、1間四方の2階を乗せた隅楼が建つ。隅楼から大らかに曲線を描いた池、州浜、入江、出島、中島、築山石組、正殿と平橋、北東建物と反橋を見渡せる。招かれた客人は隅楼から庭園を眺めて気分をほぐし、正殿で準備されている宴席を見て気持ちを高ぶらせたのではないだろうか。

 第45代聖武天皇はこの庭園で曲水の宴を催したことや、第48代称徳天皇(=第46代孝謙天皇)が隣に迎賓館に相当する東院玉殿を建てて宴会や儀式を行ったこと、第49代光仁天皇はここを離宮としたことなどが記録に残っているそうだ。
 天皇、貴族は格式張った大極殿、朝堂における激務を癒やすため、・・天皇の後継を巡るどろどろとした確執から逃れるため?・・、ここで饗宴を楽しんだのであろうか。一般庶民の貧しい暮らしから見れば、皇族、貴族の饗宴は縁遠すぎる。

 東院庭園をあとにして朱雀門を目指す。朱雀門は第一次大極殿から南750mほど、東院庭園から直線で南西700mほどに建っているが、近鉄奈良線が平城宮内を通っているので、東院庭園から西に700mほど歩き、遊歩道を南に折れた100mほど先で近鉄奈良線の踏切を渡らなければならない。踏切の100mほど先に朱雀門が堂々と構えている。
 朱雀門は、1km四方の平城宮を囲んでいる築地塀に設けられた12の門のうちの正門である。平城京の入口となる羅城門から平城宮に向かって長さ3.7km、幅75mの朱雀大路が一直線に北に延び、平城宮に突き当たった位置に正門となる朱雀門が建つ。
 1998年に復元された朱雀門は、平城宮の威厳を表す間口25m、奥行き10m、高さ22mの壮大な楼門である(写真、朱雀大路からの眺め)。
 平城京には役人、僧侶とともに農民、商人などの一般庶民も住んでいたから、祝賀行事、行幸、外交使節の送迎などで天皇が現れるときは、一目見ようと大勢が朱雀大路に押しかけたのではないだろうか。天皇の威厳を示すためにも、朱雀門は大げさな構えでデザインされたのであろう。

  朱雀門の南に朱雀門ひろば、東に平城宮いざない館、西に観光交流施設が整備されていて、見学者で賑わっていた。
 朱雀門の基壇に上がると、北の彼方に南門の復元工事が見える(写真)。かつては南門の東西に楼が建ち築地回廊が巡らされていたから、朱雀門からのぞいても大極殿は屋根しか見えない。平城宮は雲の彼方の存在であることを示そうとしたのであろう。
 しばらく眺めていたら、近鉄奈良線の電車が通り過ぎた。平城宮の大きさを実感させられた。

 近鉄奈良線の踏切を渡り、朱雀門から直線で北西700mの平城宮資料館に戻る。キャリーバッグを受け取り、南におよそ300m歩いてかんぽの宿奈良に向かう。
 二条町バス停を降りたのが14:30ごろ、大極殿、東院庭園、朱雀門を見学し、宿に着いたのは16:30に近い。およそ2時間、たっぷり歩いた。平城宮の遺構だから難しいだろうが、見学の途中に奈良時代のイメージを損なわないしゃれたカフェがあれば、くつろぎながら平城宮に想いを馳せられたと思う。  (2021.10)

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