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2016京都を歩く ⑲上醍醐の山道を登り始めて1時間、醍醐寺の始まり開山堂に着く、秀頼の再建で重文

2016年10月27日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く⑲五大堂 五大明王 崖造り 重文・如意輪堂 重文・開山堂 豊臣秀頼再建 

 国宝の薬師堂の先は坂道が大きく曲り、突き当たりに簡素な屋根を架けた鐘楼があって、その先は崖らしい。
 左=東の坂道を選ぶ。上ると五大堂が建つ。醍醐寺ホームページには913年、醍醐天皇の御願堂として創建されたと記されている。となると、薬師堂といっしょに建てられたことになる。
 こちらはその後火災にあい、昭和15年に再建されたので、国宝、重文の指定はない。しかし、端正な形は原形の再現であろう。堂内には五大明王が祀られていた。
 下醍醐の不動堂にも不動明王を中心とした五体の明王が祀られていたが、五大堂も同じく不動明王を中心として5体の明王が祀られていた。いずれも木彫で、重文である。
 中心の不動明王は座しているが、いまにも動かんとする迫力を感じる。

 堂前に3体のブロンズ像の中央が聖宝=理源大師だそうだ。ここでも護摩が焚かれるようで、護摩道場がしつらえられていた。
 
 坂道を戻り、鐘楼の先の坂道を登ると、崖に床に組んだ崖造り=懸崖造り如意輪堂が姿を見せる。
 876年、聖宝による創建で、准胝堂といっしょに建てられたが焼失し、醍醐寺ホームページでは1613年に再建されたそうだ・・1606年、後述の開山堂と同時に再建されたとの説もある・・。
 それでも400年の歴史があり、桃山時代のつくりを残していることから重文に指定されている。本尊は如意輪観音だが、拝観はできなかった。
如意輪堂に向かい合う形で開山堂が建っている(写真)。こここそが、聖宝が醍醐に登り山頂に堂を建てた場所である。
 聖宝没後の911年、弟子がここに聖宝を奉安する御影堂を建立した。その後焼失し、1606年、豊臣秀頼によって再建された。それがいまの開山堂である。
 如意輪堂と同じく400年の歴史があり、桃山時代のつくりを見せることから重文に指定されている。
 本尊は聖宝=理源大師で、隣に空海=弘法大師、観賢僧正像が奉安されているらしいが、格子からのぞいても拝観はできなかった。

 山頂から山並みを見渡す。広々として気持ちが大きくなる。参拝者の一人は弁当を広げていた。時計は12時を少し過ぎていたから確かに昼時である。
 弁当は持参していないし、まだ下りがあるので気を引き締めて、持参の一口羊羹を食べる。甘みが口に広がり、元気になったような気がする。

 成身院=女人堂からほぼ1時間で登ったことになる。受け付けで聞いた1時間半~より早めのペースだったことと、昨日の鞍馬~貴船の疲れが残っていて、足はよれよれである。
 ゆっくりと山を下りる。如意輪堂を見上げ、鐘楼の横を通り、薬師堂からはそのまま先に進んで坂道を下る。
 下に准胝堂跡の空地が見え、石段を下りると醍醐水に出る。清瀧宮拝殿からは登りと同じ参道を下った。十四丁、十三丁・・の道標があるので、下りはあとの距離が推測しやすい。
 九丁・不動の滝・・五丁・醍醐の花見・・、休み休みしながら下り、成身院=女人堂には1時過ぎに着いた。下りもおよそ1時間だった。

 醍醐寺の総門に着いたのが9時半、下醍醐と呼ばれる醍醐寺の境内を参拝して仁王門=西大門に戻ったのが10時半だから、下醍醐の見学+参拝はおよそ1時間、休憩後の11時ごろ、成身院=女人堂から山道を登り、山頂の五大堂、如意輪堂、開山堂に着いたのが12時過ぎ、一息してから下り、成身院=女人堂に帰り着いたのが1時過ぎで、上醍醐の往復がおよそ2時間、休憩を含め3時間半の行程だった。
 印象としてはかなりきつかった。まず、日ごろの足腰の鍛錬が必要である。次に、下醍醐の弁天堂から一方通行の回転扉を抜けて成身院=女人堂から登り始めると、少しショートカットできる。
 下醍醐でトイレを済ませたうえ、飲物と軽食を持参すれば、たっぷりした休憩+ゆったりした参拝でも3時間半ほどで戻れそうだ。醍醐寺=下醍醐+上醍醐の参拝を計画している人の参考にしていただきたい。

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