シャイーは80年代後半から約15年かけて、アムスとマーラーの交響曲全集を完成しているが、確かこれをそれに先だったものだった(86年収録)。マーラーのまとめて録音するにあたって、露払い的に10番を録音するというパターンはラトルもそうだったけれど、「マーラーの作品」と胸を張って主張するにはいくつかに留保つく作品であるが故に、テスト的に演奏してみるということもあるだろうし、先人の手垢のついていない作品を自分なりの解釈ほ施してみたいという意図もあったのだろうと思う。ともあれ、この時期、こういったマーラーの10番を先発に起用するというのは、明らかに新しい世代の指揮者の柔軟な思考を感じさせたものだった。
さて、演奏はこの時点でその後のマーラー演奏と共通するものがしっかり出来上がっていると思う。遅めのテンポで瑞々しく旋律を歌い、あまり情念的なところに深入りすることなく、全体に透明度の高いマーラーである。したがって、非常に情念的な第1楽章はやや食い足りないし、時に熱狂的な中間の3つの楽章はメリハリという点であっさりしているかな....とも思う。ただし、浄化されるような最終楽章の清澄な雰囲気と音楽の拡がりは素晴らしく、シャイーの面目躍如といったところだろう。この曲は大方第1楽章に力点を置いた演奏が多いけれど、この演奏は明らかに最終楽章をクライマックスにしていると思う。
ちなみに録音もその後のパターンとほぼ同様な、ホール・トーンを巧みに取り入れ、ほんの少し角のとれた音調でまとめた90年代以降のデッカ・パターンである。一見、淡々と進んでいくが、第4楽章~第5楽章の大太鼓の音はもテラーク顔負けの凄い迫力である。
さて、演奏はこの時点でその後のマーラー演奏と共通するものがしっかり出来上がっていると思う。遅めのテンポで瑞々しく旋律を歌い、あまり情念的なところに深入りすることなく、全体に透明度の高いマーラーである。したがって、非常に情念的な第1楽章はやや食い足りないし、時に熱狂的な中間の3つの楽章はメリハリという点であっさりしているかな....とも思う。ただし、浄化されるような最終楽章の清澄な雰囲気と音楽の拡がりは素晴らしく、シャイーの面目躍如といったところだろう。この曲は大方第1楽章に力点を置いた演奏が多いけれど、この演奏は明らかに最終楽章をクライマックスにしていると思う。
ちなみに録音もその後のパターンとほぼ同様な、ホール・トーンを巧みに取り入れ、ほんの少し角のとれた音調でまとめた90年代以降のデッカ・パターンである。一見、淡々と進んでいくが、第4楽章~第5楽章の大太鼓の音はもテラーク顔負けの凄い迫力である。