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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ドボルザーク 交響曲第9番「新世界」/ライナー&シカゴSO <SACD>

2007年12月31日 18時07分06秒 | クラシック(一般)
 年末聴きたくなる「第9」は、私の場合、ベートーベンのそれではなく、もうここドホルザークの「新世界」の方....ということは、一昨年の調度今頃に書いた記憶があるけれど、この「新世界」の演奏はというと、これまたあの時書いた記憶があるのだが、私にとってはフリッチャイがベルリンを振った1959年のステレオ録音が決定盤で、その他に私が持っているセル、クーベリック、カラヤン、ケルテス、小澤といった指揮者が振った演奏については、どれね「いまひとつ」といったイメージがあったもので、ことこの曲に関しては、指揮者やオケの違いを聴き比べにあまり興味がなかったのだが、たまにはいいかも....ということで購入したのがこれである。

 さて演奏だが、指揮者がハンガリー系のフリッツ・ライナーと手兵シカゴいうことで、ひょっとすると、とりえといったらゴリゴリ感だけ....みたいな絵に描いたようにザッハリッヒなものかと予想していたが、なかなかいい演奏だ。もちろん、ライナーだからして情緒面ではごくごくさっぱりしているし、第1楽章などもドラマチックの中から浮かび上がる望郷の念だという雰囲気はあまりなく、彼らしくてきぱきと進むが、この曲の交響曲的なフォルムを重視すればこういう演奏もありだと思う。耳タコな第2楽章はベタベタせずにさっぱりと清潔に歌っているのが品格を感じさせるし、室内楽的といいたいようなシカゴの締まったアンサンブルもそうした雰囲気を倍加している。第3楽章はシカゴの機動性を満喫させるスポーティーな演奏だ。主部とトリオをあまり極端に対比させず....というか、もう我慢できないといった風情のトリオのパワフルさにシカコらしさを感じさせないでもない。最終楽章についても前楽章に輪をかけた出来である。エネルギッシュに燃え上がるような演奏という訳でもないが、交響曲ラストに置かれたアレグロ楽章として聴くなら、ぐいぐいと進んでいく様がなんとも小気味よい演奏だと思う。また、ラスト近くこれまで登場した主題が走馬燈の如く交錯する場面の、交通整理のうまさもまたライナーである。

 という訳で、このアルバム考えてみたら、私が持っている「新世界」でも、ケルテス、セルに続く3つ目のハンガリー系指揮者のものとなった。ドボルザークはチェコの人だから、ハンガリー出身の人にとっては、近しいものはあっても、決して「おらが音楽」というほどのものではないと思うのだが、他にショルティやドラティなんかも振っているだろうし、ハンガリー人にとってなにか琴線に触れるものでもあるのだろうか?。まぁ、単に超有名作品ということだけなのかもしれないが....。ちなみに収録は1957年、ステレオ最初期の録音となる。解像度とマスの響きがほどよく調和したウェル・バランスの録音といえるが、さすがにレンジ感はそこそこだし、そこはかとないナローな感じがいかにも時代を感じさせなくもない。SACDという器は、元テープが収録されていた時にあった録音の限界すら残酷に描写してしまう....といったところか。
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TOHSHIBA SD-580D (DVDプレイヤー)

2007年12月30日 23時46分47秒 | PC+AUDIO
 液晶テレビの広大な画面で見るPCのデスクトップは壮観である。PCの画面は基本静止画像だから当然といえば当然かもしれないのだが、そのすっきりとクリア表示もなかなか素晴らしいものがある。一方、DVDの画像はかなりノイズが目立つ、これまで「DVDという器の実現できる画質は十分に良質」とばかり思いこんできたが、決してそうでないことが、今回の液晶テレビ購入ではっきり分かったといったところか。そこで気になるのがHDMI接続である。HDMIというのは画像と音声の両方をケーブル1本でデジタル転送できる新しい規格で、このところ急速に広まっているらしいけれど、今日もちょこまかとセッティングしつつ、あれこれとDVDを観ていると、とにかく暗めのステージを記録した音楽DVDだと、ブロック、滲みといったノイズがひどいのだ。ところがネットで調べてみると、HDMI接続して、画像をアップコンバートした状態で転送させるとかなりそのあたり緩和されるらしい、ならぱ是非DVDをHDMIで接続して観てみたいと思い始めたという訳だ。

 さて、現在は年末特有の物欲解放のイケイケ状態にはあるものの(笑)、さすがに20万からの液晶テレビを購入した直後に、またぞろ10万とかのDVDプレイヤーを買うのもはばかられたので、いろいろ調べてみたところ、パイオニアのDV600AVとみつけたのがこの機種だ。どちらもHDMI端子付きでアップコンバートで転送ができて、1万~1万5千円といったところなのがそそられる。私が今使っているDVDプレイヤーはパイオニアのDV578Aという安物で、これももう何年も使っているから、そろそろリプレースするのも悪くあるまいと自分にいいきかせて(笑)、夕方頃から、市内の電気や巡りを始めたところ、本命のパイオニアの方はどこも在庫がなかったのだが、こちらの機種は在庫があったので、購入してきた。実はこの機種、途中でとまる、ディスク認識しない....など、ネットでも評判がよくないのだが、「まぁ、いいや」とばかりにノリで購入してしまった。なにしろ買うと3,4千円するHDMIケーブルが同梱されて、1万ちょいだから激安である。

 さて、自宅に帰ってさっそくHDMIで接続してDVDをみたところ、確かに効果は歴然である。滲みは激減、ブロックノイズもかなり緩和されて、あまり画質のよろしくないDVDでもなんとか見やすい状態にしてくれるという感じだ。デジタル転送やアップコンバートといった手法は、実は高級機種より本機のような安い機種の方にこそメリットがあるというのはオーディオの世界では散々体験してきたことだが、ヴィジィアルの方でも全く同じだったというところか。
 ところでこの異様に安いDVDプレイヤーだが、ディスプレイは四ケタの数字のみで、レジューム機能なしと、機能も最低限だが、貧相なセッティング画面などみるにつけ、どうも純東芝産ではなく、激安ショップなどで売っている中国製のプレイヤーのOEM販売のような気がするのだが、どうだろうか。ともあれ、これでDVDの方もなんといい感じでみれるようになった。私にはこれで十分である。
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SONY BRAVIA KDL-40W5000 (液晶テレビ)

2007年12月29日 22時10分32秒 | PC+AUDIO
 秋ぐらいから、夏くらいに買おうか買わぬか悩み、秋ぐらいからは買うとすればどんな機種がいいだろう?あれこれと考えあぐねていた液晶テレビだが、先週くらいにようやくSONYのBRAVIA KDL-40W5000という機種を決め、本日ようやく自宅に届いた。実はしばらく前にもっと安いO`zzioから出ている37型の機種に決めかけていたのだが、最終的にはディスプレイのサイズは42インチ並だが、本体の寸法は37型とさして変わらないという、40インチという頃合いの良さが決め手になった。画質だの、性能面は実はほとんど考えいない、実をいうと職場で私の隣の席に座っている同僚が半年くらい前に店に通いつめ、あれこれ熟慮をしてこれを購入したらしく、画質や性能はそれを信じたみたいなところがある(笑)。オーディオ機器ならあれこれ考えるが、映像機器となると、私の場合しょせんその程度のこだわりである。

 という訳で、今日はほんどこれのセッティングに費やしてしまった。なにしろ私の場合、AV関係ではYAMAHAのAZ-1というアンプがAVセンターとして中央にあった訳だけれど、通常なら当然テレビをリプレースするだけで済みそうなもののだが、せっかくの液晶テレビならパソコンを繋げてみたい、HDIM端子からデジタル転送される画質というの味わってみたい....などと欲を広げていくと、このAZ-1は当然HDIMなどという最新のインターフェイスはもっていないから、そっちの方はAVセンターを液晶テレビ側で担うことなることになる訳で、CableTV、DVD、VCR、MD/CD、PCをどう両方に分担したものか....と、ラックの裏側に回ってもうとっくに忘れていたAVアンプの配線をあれこれ抜き差し、足りない必要なケーブルは市内の電気屋に買いに行く....などということやっているうちに、いつのまにやら夜になってしまったというところだ。なにしろ、これまででさえ画像系に通常のRCAの他、D端子、音声系ではアナログの他、同軸と光のラインが入り乱れていたところに、今度はHDIMが加わったのだから、この配線は複雑を極めたことなった。

 さて、液晶テレビを観た感想だけれど、一口にいって従来のソースはほとんどボケボケ、ブロックノイズだらけで観ていられないという感じか。さすがにケーブルTVから送り込まれてくるハイビジョンのソースはクリアでキレイだが、それに比べるとDVDでさえ冴え冴えとしたところ全くない、ごくごく普通の画面という感じなのである。ひょっとすると40インチのディスプレイは大きすぎたのかもしれない。私は画面から2メートルくらいのところから観ているけれど、これだとちと粗が分かりすぎてしまうのだ。全部、ハイビジョンのソースならそれでもよいが、現状ではまだまだ通常のソースが沢山あるのだから、やたらと目立つブロック・ノイズ感はちと困ったものである。ということで詳しいことはまたいずれ....。
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ULTRAVOX / Quartet

2007年12月28日 23時27分17秒 | ROCK-POP
 この作品を忘れていた。ミッジ・ユーロの居たウルトラヴォックスというと、個人的には「ヴィエナ」と「エデンの嵐」の2作が印象深いのだけれど、どっこいこの82年に発表したサード・アルバム(通算では6作目)は大傑作である。なにしろプロデューサーにジョージ・マーティンというのが凄い。「エデンの嵐」というアルバムはレビューのところにも書いたけれど、セルフ・プロデュースという「自分等が見えない状態」というが災いしたのか、メリハリといい、ヴァリエーションといい、今一歩平板な印象をぬぐい去れたなかったのだが、おそらくそのあたりを反省したのだろう。同じEMIというメリットもあったのだろうが、ビートルズの音楽を売れるようにラッピングを施したジョージ・マーティンが起用されたのだ。

 実際のこのアルバムはよくできている。特に旧A面の4曲はマーティンによって彼らの魅力を上手に4曲に切り分けて、まるで「ベスト・オブ・ウルトラヴォックス」の如き雰囲気すら漂う。冒頭を飾る「Reap The Wild Wind」のストリング・シンセの乾いた響き、シーケンス・パターンの程よく後方に追いやり、ドラムスを全面に押し出したバランスなど、ポップなメロディー・ラインなど、既にテクノ・ポップを越えた突き抜けた明るさのようなものがあるし、「Serenade」は「New Europeans」タイプのダークな作品だが、これまたテクノっぽいリズムにとアコピからみが単調さを救い、実にメリハリのあるポップさを演出している。「Mine for Life」は、私の好きな「Passing Strangers」の続編のような曲で、中間部でドリーミーな展開になるのも同じで、本編ほどではないが、これも楽しめる作品だ。「Hymn」も傑作、ウルトラヴォックスのヨーロッパ的センスをややアンダーなトーンではなく、明るくまとめたところにマーティンのセンスを感じさせる。ジョージ・マーティンといえば、このアルバムのドラムがなぜか非常にリンゴ・スター的なノリを感じさせるのだが、これもマーティンの影響だろうか。

 旧B面の5曲はラストの「The Song」を除くと、A面の4曲に比べると若干落ちものの、「エデンの嵐」の諸曲に比べれば数段楽しめる仕上がりだ。という訳でこのアルバム全編に漂う明るさ、ポップさはおそらくジョージ・マーティン(そしてジェフ・エメリック)によって、解釈されたウルトラヴォックスという側面は否めないと思うけれど、なにしろここまで完璧に完成された音楽になってしまっては、バンド自身は何も文句はいえなかっただろう。ともあれ、ニュー・ウェイブからテクノ・ポップと進んでいったこのバンドのひとつの到達点がこのアルバムである。
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ネット流行語大賞2007

2007年12月27日 12時23分17秒 | others
 ちょっと前のネタだが今年の「ネット流行語大賞」のベスト3は、1位は「アサヒる」、2位は「スイーツ(笑)」、そして3位が「ゆとり」だそうだ。まず「アサヒる」だが、これは匿名のネットユーザーいささか意図的に盛り上げ過ぎたところがないでもないが、 確かにいろいろなところでみかけた言葉ではある。ターゲットとされた某報道機関はさぞやお怒りのことと思うが、そもそもはやり玉にあがった報道機関のあまりといえばあまりの偏向振りが招いた結果でもあるので、まぁ、自業自得みたいなところもあったかなぁと思う。あと3位の「ゆとり」だが、これもよく見かけた。私は「わがまま一杯に育てられた結果、あたかも自己中心に振る舞うのが当たり前のように感じている若い世代」の傲慢さを揶揄することばとして捉えていたのだが、ネットで調べてみるともう少し幅広い、曖昧な侮蔑語だったようで、これはちと意外。

 あと、おかしかったのが「スイーツ(笑)」で、私はこれをみるまでこんな言葉を使っている人にも会ったことないし、ネットでも見たことがないような気がしていたのだが、この前の日曜の朝だったか、NHKのラジオでまさにスイーツを連打している女性が出てきてこれかと思ったものだ。ちなみにスイーツ(笑)とは、『特に、マスメディア(おもに女性誌)の女性向けの特集にならうことがおしゃれであると考え、特集を鵜呑みにして気取っている女性を揶揄する言葉。実際はメディアに踊らされているとしか言えない状態であることが多いのだが、当人にはその自覚はない。』とのことだが、このラジオに出てきた主はそのような感じでスイーツを連打していたには「ホントにいるんだねぇ」とばかりに笑ってしまった。ついでに書くと、前記引用元には「スイーツ(笑)と同意義の言葉の例」というのがあって、読んでいくと「自分へのご褒美(笑)」「血液サラサラ(笑)」「ほっこり(笑)」と思わずうなずく言葉が沢山で出て来てニヤニヤしながら読んでいくと、しまいにはこのブログで私がけっこう使ってる言葉なんかもそこにあったりして、更に笑ってしまったのだが。
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スーパー・セッション /Aクーパー,Mブルームフィールド,Sスティルス

2007年12月26日 23時35分07秒 | ROCK-POP
 ニュー・ロックにはいろいろなイノベーションがあったけれど、これもそのひとつの方向性を決めたマイルストーンとでもいうべき作品だ。その方向性とはひとこでいえばセッション・スタイルでやる即興....つまりインプロビゼーション主体のアルバムをロックでも作り、それが成功したということだったと思う。このアルバムの発起人は当時、BSTを脱退したばかりのアル・クーパー、その彼に呼ばれたのは若きブルース・ギタリストの巨匠マイク・ブルームフィールドだった。そして、その彼がセッションの後半にリタイアしたので、その代打としてスティーブン・スティルが入った....などという制作プロセスは、今では立派な「ロック神話」のひとつだろう(というかこの話は私がロックを聴き始めた70年代前半から有名だった)。

 私は子供の頃から自宅に「フィルモアの奇跡」があるという幸福なんだか、不幸なんだかよく分からない環境に育ったので、そちらの方はけっこう聴いた記憶があるのだが、アル・クーパーをフィチャーしたポップな作品はともかく、長い長いブルース・ギターのフィーチャーした作品はまるで垂れ流しのように感じでとても退屈したし、これの何が革新的だったのもさっぱりわからなかった。72年頃といえ既にロックで長いインプロは当たり前になっていたし、なにしろブルース・ギターというのは中学生が聴くには早すぎたのだろう。だから、BSTについては中学生のクセして、かなり入れ込んで聴いていた私ではあるが、「フィルモアの奇跡」に先んじて制作されたスタジオがこれだと知ったときも、あまり関心がわかなくて、実際に聴いたのはずっと下ってCD時代になってからだった。

 初めてこのアルバムを聴いた時、「なんだ、凄ぇいいじゃん、ブルームフィールドのギター最高」ってなもので、とにかくブルームフィールドのギターに圧倒された、また、BSTやソロであまり聴かせてくれないアル・クーパーのオルガンも素晴らしく、なんでもこんなに良いアルバムを今まで聴かなかったのか悔しい思いをしたものだ。まぁ、さすがに自分も20代後半ともなれば、このアルバムの意義だの、革新性だのといった余計なファクターをあまり惑わされずこのアルバムの音楽を素直に楽しめるようになっていたのかもしれないが、ともあれ、このアルバムで展開されるリラクゼーションと緊張感の狭間を行き交う絶妙なバランス、即興性に身を委ねたのびやかな感覚など、とにかく音楽単体か素晴らしく芳醇な味わいを感じたのだった。個人的な印象だが、その良さは「フィルモアの奇跡」より数段上だと思ったほどだ。

 さて、このアルバムだが、数年前に出たリマスター盤である。売りとしては、後日オーバータブされたブラスセクションがカットされた「アルバートのシャッフル」「魔女の季節」、あと未発表曲が2曲が入っていることだろう。私はそもそもアル・クーパーをブラス・ロック・バンドのリーダーとして知ったクチだから、この2曲について「ブラスはジャマ」などとは全く思わず、むしろ「らしい」と思う方だから、ブラス抜きのヴァージョンがそれほどうれしい訳でもないが、確かにブラス抜きの方は音楽のメリハリ、完成度が後退してしまうかわり、素のセッション的な生々しさ、メンバー間の行き交う音楽的感興の妙のようなものがダイレクトに伝わる気もする。特にスティルスをフィーチャーした「魔女の季節」はカッティングやリフ主体のギターというスティルスのキャラのせいか、ブラスがないといささかスカスカな音になってしまっているが、これが逆にほどよい緊張感を感じさせるあたりはヴィンテージ化した音楽の妙といったところかもしれない。また、「アルバートのシャッフル」はまさにブルース・セッション的なライブ感があって、無条件の楽しめた。
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B.HERRMANN / Jane Eyre

2007年12月25日 22時11分50秒 | サウンドトラック
 という訳で、ハーマンが作った「ジェーン・エア」のサントラである。オリジナル・サウンド・トラック盤については、以前レビュウしたので今回はスコア盤を聴いてみた。ナクソスの傍系レーベルであるマルコポーロから1994年に出たもので、同レーベルの裏看板となった感もある「Film Music Classics」のごく初期発売分である。演奏はアドリアノ指揮のスローヴァーク放送響で、おそらくほぼ全曲に近い形で収録されている。先のサントラは30分程度の抜粋、その後にハーマン自身が振ったのは10分程度の組曲版だったから、デジタル録音でこうした全曲盤があるのはありがたい(そろそろヴァレーズ・サラバンデが再録するような気もするが)。

 さて、映像を観ながら聴いたハーマンの音楽の感想だが、あまり傑作とはいえないあの映画をとにもかくにも最後まで観客を惹きつけ続けたのは、やはり出演者の貫禄や熱演振りにあったのは当然だとしても、やはりハーマンの音楽の魅力というのもかなり大きな部分があったように思った。この映画はゴシック・ロマン的なムードや館物特有の謎めいたムードが横溢しているが、その重厚さ、格調高さ、そしてミステリアスさを、一気に高めたのがハーマンの音楽といってもおかしくないと思う。「市民ケーン」でもお馴染みの木管を組み合わせた鬱蒼とした音使いや霧の中で初めてウェルズと遭遇するシーンやふたりが結婚を約束する落雷のシーンなど衝撃的な不協和音を伴っていて特に印象的だ。おそらく当時としてはかなり思い切った音の選び方だったはずだ。また、フォンテーンとウェルズの二人が秘めた癒しがたい恋愛感情を表現しているのが、劇中何度もリピートされるメイン・テーマであり、すぐに手の届くところにいながら、なかなか手の届かず、切ないまでに高まり続ける主人公たちの悲劇的な感情を絶妙に表現している。

 ともあれ、以前のサントラのところでも書いたけれど、ハーマンはこの手のニューロティックな愛の音楽を得意としていて、これは、その後作り出す大傑作「めまい」「マーニー」「愛のメモリー」といった系列の作品群の一番最初に位置する傑作ということでも忘れられない作品だ。映画そのものは何度も観るようなものではないと思うが、やはりこの音楽だけはこれからも何度も聴くことになると思う。ちなみにアドリアノ指揮のスローヴァーク放送響のバフォーマンスだが、基本的に今どきなシェイプしたリズムとあっさりとした表情で最後まで演奏している。映画の雰囲気を味わうならもう少し濃厚な表情をつけるべきだろうが、独立した音楽として楽しむならこれはこれでありだと思う。
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ジェーン・エア

2007年12月24日 20時35分16秒 | MOVIE
 映画に耽溺していた20代の頃、好きな女優といえばヨーロッパではドミニク・サンダとイザベル・アジャーニあたりだが、アメリカだとなんといってもヒッチコック映画のヒロイン達ということになる。個人的にヒッチコック映画の最大のヒロインといえば「めまい」のキム・ノヴァクだが、単体の女優とみるとティッピー・ヘドレイン、そして本編のヒロイン、ジョーン・フォンテーンあたりだろうか。ただし、ジョーン・フォンテーンで最初に観たのは確か「忘れじの面影」という作品で、その後「断崖」、「レベッカ」という順序だったと思う。「レベッカ」でのフォンテーンはまるで日本人かと思うようなはかなげな風情を漂わせ、健気に行動しながらも、時に怯えたり、むせび泣いたりするところに魅了されたものだが、以来、私はすっかり彼女のファンになったのだった。ところが哀しいかなビデオもない時代である。40年代の彼女の作品などよほどのことでもなければ名画座にさえかかることもなく、それから長いこと前記3本以外に私は彼女の作品を観ることがなかったのだった。

 さて、時代は進んで今の話、昨今ではそこらの書店に行くと、大抵版権の切れの作品を500円とかいう捨て売っているDVDを見かけるが、この「ジェーン・エア」もそこでみかけたものである。なんと「レベッカ」を観てから四半世紀を経っている訳で、今更フォンテーンもない....という気もするのだが、この作品、フォンテーンもさることながら、なにしろ音楽がバーナード・ハーマンの初期の名作中の名作という価値もあり、とりあえず観てみた訳である。で、久しぶりに観たフォンテーンだが、作品のタイプが究極のフォンテーン映画「レベッカ」とほぼ同系統の作品ということもあってか、控えめな良家の子女みたいなイメージは相変わらずだし、ぱっと見外人をみている感じがまるでしないのも、昔感じた通りである。映画の途中で「おまえは器量が良くない」みたいなことを学校の先生に言われるシーンがあるのだが、「おまえ、どこに目がついてんだよ」という感じだったし、怯えたり、すすり泣きそうな表情などを観ると、思わず20代の頃の熱狂が甦ってしまいそうになった(ちょっとウェーブのかかった髪型が彼女に似合ってないような気もしたが....)。

 作品的には、演出がB級のロバート・スティーヴンソンだから仕方ないかもしれないが、比較的丁寧に描かれた前半~中盤に比べて、後半は何故かバタバタと駆け足になるところがバランスを壊している。原作が長尺の文芸だから作品95分くらいの作品なのだが、もう10分長くしてもよかったと思う。また、フォンテーンの少女時代を演じたペギー・アン・ガーナーが割と利発で勝ち気な少女なのに比べ、大人になったフォンテーンはイメージ的にも役柄的にもぐっと落ち着いてしまい、これまた少々落差を感じないでもなかった。あと、ペギー・アン・ガーナーといえば、彼女の修道学校での友達役で少女時代のエリザベス・テイラーが登場するし、フォンテーンが家庭教師として教える女の子は往年の名子役マーガレット・オブライエンという訳で、この作品、フォンテーンとオーソン・ウェルズは名子役3人に食われてしまったという感じもする。特に前半のペギー・アン・ガーナーはけなげな熱演で、実はこの映画で一番良かったのむしろ彼女が登場するシーンだったりした。そうそう、ハーマンの音楽は当然のごとく素晴らしかったが、これはまたいずれ....ということで。
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ボストン・ポップス・オン・クリスマス

2007年12月24日 02時47分07秒 | クラシック(20世紀~)
 ライトクラシック系のクリスマス・アルバムはいうまでも沢山あるけれど、ジョン・ウィリアムス指揮ボストン・ポップスによるこのアルバムは、さしずめここ四半世紀のこの手のアルバムの決定版といえるのではないか。フィードラーやマントバーニといったところを聴くとちと古くさく感じるが、かといってフュージョン・スタイルやニュー・エイジといった今時なスタイルよりは、もう少しスクウェアな気分でクリスマス・ミュージックを味わいたい向きには格好のアルバムといえる。収録曲は単独曲が4つ、そして、中心をなすのは3つの-どれも10分前後-の大規模なクリスマス組曲となる。いずれも素晴らしい出来だが、とりわけ3つの組曲が素晴らしい出来だ。

 この3つの組曲だが、最初の「クリスマス・フェスティバル」は有名どころのクリスマス・ソングをボストン・ポップスというオケが演奏する魅力を満喫させる9曲。次の「クリスマス・グレーティング」はタングルウッド祝祭合唱団をフィーチャーしたアルバート・アート作曲のクリスマス・キャロルが6曲、そして3曲目の「ホリディ・チアー」はアメリカで生まれたクリスマス・スタンダードをジャズ・オーケストラ風に演奏した7曲....という具合に特徴をはっきりを描き分けているのがいい。まず「クリスマス・フェスティバル」では、超有名なクリスマス曲をまるでひとつの曲の如く流麗なアレンジでまとめで上げているのが聴き物だ。前半は3曲ではアップテンポで軽快に進み、徐々にテンポを落とし、後半の「牧人ひつじを」~「きよしこの夜」でぐっとテンポを落としてじっくりと歌い上げるあたりがハイライトだ。こういう曲順、構成で聴くと耳タコな「きよしこの夜」もぐっと感動的に聴こえる、さすがルロイ・アンダーソンの編曲というべきか。また、締めくくりは再び華やかさがもどり「ジングルベル」~「神のみ今宵しも」では「スターウォーズ」ばりの賑々しさで盛り上げるあたりジョン・ウィリアムスらしくていい。

 「クリスマス・グレーティング」は前述の通りアルバート・アート作曲のクリスマス・キャロルが6曲演奏されているが、私は寡聞にして「アルバート・アートって誰?」って感じなのだが、曲そのものはどれもお馴染みのものだ。タングルウッド祝祭合唱団をフィーチャーしているが、かなりリズミックに歌っており、合唱団主体とはいえかなりモダンな印象なのは、やはりジョン・ウィリアムスのセンスなのだろうか、最後まで一気に聴き通せる構成もいい。「ホリディ・チアー」は名匠ビリー・メイのアレンジ、メドレーとはいえ、私の好きな「ザ・クリスマス・ソング」と「ハブ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」がそれぞれ前半と中盤のハイライトになっているのはうれしい限り。中盤ではオケもけっこうスウィングしていて楽しい。
 単独曲としては、オープニング「ウイ・ウィッシュ・ユー・ア・メリー・クリスマス」の華やかさ、とてもアイヴズとは思えない「クリスマス・キャロル」の敬虔さもいい。そんな訳で、このアルバム、個人的にはクリスマスのマスト・アイテムである。
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ルイス・バカロフ/イル・ポスティーノ

2007年12月23日 13時02分18秒 | サウンドトラック
 「オーケストレーションはユニークだし、イタリア的なところとエキゾチックなところが妙に入り交じった旋律もおもしろいし、けっこう看過できない存在かなぁ....と思い始めました。とりあえずオスカーを受賞したという「イル・ポスティーノ」でも聴いてみようかな。」と書いたのが、このゴールデンウィーク前のことで、すぐにオークションで購入したはいいが、例によってけっこう時間が経ってしまいました。これはアルゼンチン出身、主にイタリア映画(それもB級作品ばかり)で活躍したルイス・バカロフが、なんと1995年にオスカーを受賞したという作品です。ナポリ沖合の小さな島を舞台にした、青年と詩人の友情を描いた作品らしく、映画のそのものいろいろなオスカーその他、いろいろな賞にノミネートされたりしていますがら、けっこう名作だったようですが、実際、受賞までこぎつけているのはなんといって音楽が多いですから、それだけこの音楽は高く評価されたんでしょう。

 音楽はなんといってもアルバム中、数回リピートされるメインテーマが印象的です。タンゴで使うバンドネオンの鄙びた音色が、壮麗に響き渡る弦と交錯して不思議な調和を見せています。私はこの映画を観ていないので、なんともいえませんが、なにしろ青い海と空が印象的な作品らしいので、こうした風景の元で展開されるドラマを音楽では弦とバンドネオンという構成で表現したんでしょう。なにしろ、冒頭でフェイドインするように入ってくる弦の既視感を誘うような響きと、そこにのっかるバンドネオンの懐かしい音色はそれだけで映像を喚起するような不思議な力があり、そこからイタリアらしい哀しくなるほどに美しい旋律がゆったりと展開していくあたり一聴して魅了されます。゜ちなみに4つヴァージョンですが、メインタイトルの他はピアノ+バンドネオン+ヴァイオリンで構成されたトリオ、バンドネオンのソロ、メインタイトルにチェンバロが加わった短いブリッジのようなもの、そしてたぶんエンドタイトルとなるアコスティック・ギターとバンドネオンのアンサンブルで演奏されたものとなりますが、どれも心が浄化されるような美しさがあり、アカデミー賞もかくやという感じでしょうか。

 その他、印象に残った曲をメモっておくと、2曲目の「自転車ののって」はおそらく主人公を現すテーマで、音楽的には重要なモチーフとして映画の中では何度かリピートされているようで、このディスクでは14曲目「郵便配達の詩」で再現されています。ユーモラスではあるがどこか哀しげなところはいかにもイタリアという感じ。ついでに5曲目「ベアトリーチェ」は、弦とバンドネオンにチェンバロが加わり、なんだか60年代にイタリア映画にタイムスリップしたような趣がある曲、主人公の漂泊する魂を表現したような6曲目「メタフォーレ」、あと4曲目「ポスティーノ・バンビーノ」ではヴィブラフォンを配し、10曲目の「郵便配達の夢」はパンフルートをともなったメイン・タイトルのリピートでとなっています。いや、何度聴いてもいいです、このテーマ。
 という訳で、久々にイタリアらしい映画音楽を聴いたという感じ、こういう伝統がイタリアにまだ残っていたというのはある種驚きでもありますが。ちなみにこの作品、大貫妙子さんあたりきっと大好きなんじゃないかな。
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DAVE KOZ & Friends / A Smooth Jazz Christmas

2007年12月23日 02時43分22秒 | JAZZ-Fusion
 昨年の今頃購入したはいいが、例によって昨年中に消化できず放置してあったもの。デイヴ・コーズという人サックス・プレイヤーは初めて聴く人だが、まぁ、このアルバムの場合、タイトルが全てを物語っているといってもいいだろう。一応、アウトライン的なところを書いておくと、スタジオ・ミュージシャンで構成されたと思われる9人からなるフュージョン・スタイルのバンドがベーシックな演奏し、その上にデイブ・コーズを筆頭に、ピアノにデビッド・ベノワ、ギターにピーター・ホワイト、トランペットにリック・ブラウン、ヴォーカルにケニー・ロギンスとべリンダ・ラッセルのソロや歌がのっかるクリスマス・アルバムというところだろう。けっこう新しいアルバムかと思っていたが、クレジットをみたら2001年の制作だから、それほど新しい作品という訳でもない。

 音楽的にはスムース・ジャズというより、私にはLAフュージョンといった方がしっくりとくる。1曲目は「Smooth Jazz Christmas Overture」という7曲のクリスマス・ソングの有名どころをメドレーで演奏しているが、「Let It Snow」ではコーズをフィーチャーしたまさしくスムース・ジャズ風なアレンジ、続く「Greensleeves」ではアール・クルー風なピーター・ホワイトのアコギのソロを伴った「黒いオルフェ」みたいなアレンジで、更に続く「Angel We Have」では、GRP風なジェントルでポップなデビッド・ベノワが登場といった感じで手を替え品を替えの趣向で楽しませてくれる。私の好きな「The Christmas Song」はアンサンブルによる演奏で各人の見せ場を少しずつフィチャーした仕上がりでこれはなかなか。もう一方の雄、「Have Yourself A Merry Little Christmas」はコーズとホワイトをフィーチャーしたややドゥーワップ風なオールディーズ・タイプの演奏でこれは今一歩という感じ。ちなみに8曲目の「Boogie Woogie Santa Claus」はケニー・ロギンスをフィーチャーしている。相変わらずのヴォーカルだが、けっこう落ち着き払ったところもあり、最近はもうすっかりポピュラー・ヴォーカリストになっちゃっている風情である。

 という訳で、全編に渡って多用なソリストが様々なヴァリエーションでクリスマス・ソングを楽しませてくれる楽しいアルバムなのだが、正直いって個人的な印象はいまひとつといったところか。何故かといえば、どうもこのアルバム全編に漂うLAフュージョン、あるいはウェスト・コースト・ジャズ的オプティミズム全開な明るさ、軽さといったものが、どうも個人的な好みからするとちとは陰りがなさすぎていまひとつ食い足りないという感じがしてしまうからだ。まぁ、そう思うとやはりGRPのクリスマス・アルバムは凄い作品だったと逆に思ったりしてしまうのだが。ちなみにこのアルバムの音楽監督はGRPに所属して、当のクリスマス・アルバムに参加していたデビッド・ベノワなのだが....。
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聖誕舞曲

2007年12月22日 20時44分47秒 | 台湾のあれこれ
 いつだか忘れたけれど、たぶん7,8年前に台湾に行った時に購入してきたカセット・テープである。私が訪台するのは何故か12月上旬になることが多いので、台北のショップにはクリスマス関連の商品が置かれていることが多く、おそらくどこかで見かけて「台湾産のクリスマス・ミュージックってどんな感じ?」ってなノリで、バカ安だったに違いないこのカセットを購入してきたのだろう。今、調べてみたらクリスマス・ミュージックこそこれだけだが、演歌系のテープは10本近くあったから、いろいろ買い込んでいたのである。ちなみに先の訪台の際、CDショップの数があまりに激減していたのは愕然としたことは既に書いた通りだけれど、こういったカセット・テープを媒体とした音楽商品もほぼ完全になくなっていた。当たり前といえば当たり前だが、さすが7年という年月の流れを感じさせた。たぶんショップの激減と時を同じくして、このメディアも駆逐されていったのだろうな(VCDはまだ生き残っているが)。

 さて、このアルバム、タイトルは「聖誕舞曲 -X`Mas Dance Songs-」とあり、この手の投げ売り商品らしく、アーティスト名はない。おそらく台湾のスタジオ・ミュージシャンによるやっつけ仕事で出来上がった商品だと思うが、内容的には大昔の音源らしく、ストリングスを中心としたオーケストラ・サウンドをベースにしつつ、ドラムスがほんのアクセント程度にしかバランスされていないサウンドが、いかにも時代を感じさせるからだ。また、よくわからいが、いくつかの音源をピックアップしているようで、イージーリスニング・オーケストラ風、ビッグバンド風、オールディーズ風、邦画のサントラ風とスタイルはいろいろだ。また、「ドレミの歌」とか「いとしのクレメンタイン」といった、日本だとクリスマス・ソングというにはちと苦しい曲も入っているのは、台湾というお国柄なのだろうか。ともあれ、仕上がりとしては、その泥臭さ、ある種の線の細さのようなものは、調度の日本のスタジオ・オーケストラによる映画音楽集を聴いているように、チープさがあって楽しい。ちなみに、台湾らしいといえば、一曲だけ、アイリッシュトラッド風な雰囲気の中、何故か日本の懐メロの一節が引用される曲があって、これはなかなか脱力物なおもしろさがあった。
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ホワイト・クリスマス/various artists

2007年12月22日 13時29分27秒 | JAZZ
 これもWeekend Classicsのシリーズの一枚。ただし、こちらはクラシック・ソースというよりは、登場するアーティストがマントヴァーニ、ロニー・アルドリッチ、フランク・チャックスフィールドの三者であることからも分かるとおり、イージー・リスニングとして分類されるべきソースを集めている。よくわからないけれど、イギリスではこういうのは広い意味でクラシックに分類されているだろうか。もっともこの三者は、50~60年代にデッカが擁していたアーティストだから、当然そうなるんだろう。あっそっか、ネルソン・リドルはキャピトル、ポール・モーリアはフィリップスで発売されていたけれど、ボストン・ポップスはクラシック扱いだったから、そういう扱いなのかもしれない。まぁ、どうでもいいことだな、そもそも三者の音楽も一律な訳ではないのだし....。

 収録曲はトラッドっぽい曲はあまりなく、クリスマス・スタンダーズと呼びたくなるようなポピュラー・ミュージックばかりが選ばれていて、私の大好きな「ハブ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」「ザ・クリスマス・ソング」もしっかり収められているのはうれしいところ。マントヴァーニは例のカスケーディング・ストリングスがこうしたクリスマス系の音楽によくあっていて、これを購入した20年くらい前の印象だと、いかにも古くさい音に聞こえたものだけれど、時代が巡った今聴くとストリングスの金ぴか感がけっこう新鮮だ。マントヴァーニはイタリア系の人だと思うが、このストリングスはまさにそうしたイタリア人のセンス故のものだと改め感じたりもした。一方、フランク・チャックスフィールドはこの三者の中では一番クラシックっぽく、出てくる音も穏健で当たり障りなく中庸という感じで、2台のピアノをフィーチャーする華麗なスタイルが売りだったロニー・アルドリッチはその調度中間といったところだろう。ちなみに私の好きな2曲はいずれもアルドリッチが演奏している。ともあれ、どれもアメリカ産のイージー・リスニングのような派手ではないが、それなりにメロディックで瀟洒、節度をわきまえた演奏で、このあたり英国らしさを感じないではいらなれない。

 今時、街のデパートに行くと売り場のBGMに流れているのはスムース・ジャズ版のクリスマス・ソングばかりだが、私が子供の頃、つまり昭和40年代のクリスマス・シーズン時のデパートといったら、ジャズ系の音楽というよりこういう音楽が流れてような気がするのだが、どうだったのだろうか。ともあれ、そんな妙に大昔のデパートの売り場にタイムスリップしたような気分にさせてくれる懐かしいアルバムだ。ちなみにマントヴァーニの録音は、さすがデッカ黄金時代の看板アーティストだけあって、今聴いてもデッカのハイファイ感を濃厚に感じさせるリッチな優秀録音だ。
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アンブロジアン・シンガーズ/ノエル

2007年12月22日 00時21分01秒 | クラシック(一般)
 アンブロジアン・シンガーズというのはイギリスはロンドンを本拠におく合唱団である。この分野はとんと疎いのだが、多分世界でも有数の合唱団だと思う。ステレオ期以降のEMIやデッカなどイギリスで制作されたクラシック・アルバム、例えばベートーベンの第9とか、オペラなどではほとんど常連といえるほどよく見かけるし、そもそも××合唱団とかいう堅苦しいネーミングではなく、アンブロジアン・シンガーズという語感が私みたいなロック出身のリスナーには何故かポップな印象があって、なんとなく親しみやすいイメージがあるのだ。もっともアンブロジアン・シンガーズは、英語の表記がElizabethan Singersだから、よくわかんないけれど「エリザベス歌唱隊」とかいう標記だと、そういうイメージはふっとんでしまい、いきなり辛気くさい古式ゆかしい合唱団の香りがしてくる訳だけれど。

 さて、このアルバムは昨夜聴いたカラヤンのクリスマス・アルバムのとなりに置かれていたアルバムで、CD普及期にデッカが同社のもっとも安いクラシック廉価盤CDシリーズとして出していたWeekend Classicsのシリーズの一枚だ。同シリーズはCDケースの内側に赤いトレイを利用していてそれが妙に印象的だったけれど、ベートーベンの5番とかショパンのピアノ協奏曲、メンチャイといったクラシック入門的な選曲でかつ登場するアーティストも地味だったため、私にはほとんど興味の範囲外だったけれど、一部ライトクラシック的なアルバムをフォロウしていて、当時クリスマス・パーティーなどという司会だの企画だのを沢山やっていた私は、そのBGMとしてこういうものも必要があるかもしれないとか思いながら購入してきたのだと思う。もっともこのCDはその後必要になるようなことはなく、20年近く放置されていたのだが、今、実に久しぶりにターンテーブルにのっているという訳だ。

 内容はアンブロジアン・シンガーズをフィーチャーしたノエル系のクリスマス曲をあつめたアルバムになっていて、収録曲は昨夜聴いたカラヤンのアルバムとほぼ同傾向だが、一部、オルガンとピアノがはいる他は、ほとんど合唱と独唱のみでパフォーマンスされていて、イージー・リスニングの領域にけっこう近づいたカラヤンのアルバムとくらべると、もうすこし純クラシックな香りというか、ストイックな威厳とある種のものものしさが感じられる仕上がりとなっていて、通俗的な日本のクリスマス風景にはちとリッチで高級、そして敬虔過ぎて似合わないという気もする。クリスマスに彼女を車にのっけて街中をドライブする時、BGMでこんなのが流れていたら、ストライク過ぎてドン引きされること請け合いである(笑)。
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カラヤン/アヴェ・マリア

2007年12月21日 23時28分09秒 | クラシック(一般)
 昨夜聴いたエディ・ヒギンズ・トリオの「クリスマス・ソングスII」が、ノエル系の作品ばっかりだったことから、ふと思い出して今さっき探して出してきたアルバムである。邦題は「カラヤン/アヴェ・マリア」だが、今の感覚だとオリジナルの「Karajan Presents Christmas」を、そのままつけてくれた方がよほどしっくり来るのではないか。ともあれ、これはカラヤンが指揮したクリスマス・アルバムである。クラシック系のクリスマスゆかりの楽曲を13曲ほど収録しているが、1961年にデッカが制作したアルバムだけあって、オケはベルリンではなく、当時蜜月状態にあったウィーンである。この時期のカラヤンとウィーンが組んだアルバムは「ツァラトゥストラ」「惑星」「ドヴォルザークの8番、ブラームスの3番、あまたのオペラなどなど傑作(ついでにハイファイ録音としても有名)ばかりだが、こんなアルバムも作っていた訳だ。もっとも他のアルバムと違って、表向き聴こえてくる音のメインは、どちらかといえばソプラノのレオタイン・プライスとウィーン楽友教会合唱団であるが....。

 収録曲は「きよしのこの夜」に始まって、「天にはさかえ」「われら3人の東の王」「荒野のはてに」などなど、クリスマス時期になれば誰もが聴くような超有名曲ばかりで、ウィーン・フィルやウィーン楽友教会合唱団、時にはオルガンをバックに、レオタイン・プライスのうっとりするような美声でクリスマス気分を盛り上げるという趣向である。編曲は誰がやったものかわからないが、イージー・リスニング的な通俗味をぎりぎりのところで回避した、かろうじてクラシックの領域にとどまっている微妙なポジションがいかにもカラヤンだと思う。カラヤンはプロムナード・コンサートだとか、間奏曲集、国歌集、マーチ集など、この種のアルバムをいくつも作っているが、やれなかったのか、やらなかったのか、時にこのアルバムのようにイージー・リスニングの領域に近づきつつも、あくまでその一線を越えることなく、結局はクラシックの巨匠というイメージをかたくなに守った。カラヤンの世代からすれば、そうなるのも当然だったのかもしれないが、街角やショップでBGMで流すにはやや厳粛できまじめ過ぎる音楽の佇まいに、カラヤン特有の気取りを感じしまうのは私だけだろうか。
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