Blogout

音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

心地よい孤独を楽しむ  - Wassr -

2009年03月31日 23時04分23秒 | others
 私事だが、先日ある方から相談があった。その方はとあるSNSで、もう何年もネット上のコミュニケーションを楽しんできた人なのだが、ここ1,2年、マイミクが書いた日記にお義理でコメントをつける、コミュニティ内の反目、察し合うことを強要されるような雰囲気、日記のネタ探し、足跡の確認などなど、SNS内の人間関係にホトホト疲れしてまった....らしい。前にも書いたけれど、私はパソコン通信のころから、ネット・コミュニティの離散集合をたくさん目の当たりにしてきたせいもあり、もはやネット・メディアにあまり過剰な期待を寄せることもないので、この手のストレスはほとんど感じないのだが(根がずぼらな性格というのあるが-笑)、こういう人は「つまんないなら、辞めればいいじゃん」という風にはどうも割り切れないらしい(そらーそーか、普通)。

 そこで私がその方に提案したのが、「Twitter」や「Wassr」というメディアである。この手のメディアが日本に上陸したのは2年ほど前だったと思うが、SNSのように身内を囲い込むのではなく、自分がネット内に発した「ひとり言」を誰かと緩く共有しようというもので、「ベタベタした人間関係には疲れたけど、さりとて誰かはとつながっていたい」願望をかなえてくれる....確か、そんなふれこみだったことを思い出し、すすめてみたのである。
 で、人に無責任にすすめるのもなんなので、とりあえずここ一週間ほど、「Twitter」と「Wassr」をあれこれ探索しているところである。実際に私がやった感じでは、「Twitter」の方はあまり漠として、中心がないようなコミュニケーションはちと手応えがなさ過ぎる気がしたが、「Wassr」の方はほとんど違和感なく入り込めた。

 ここにはmixiでいう、コミュニティのようなチャンネルというものもあるし、会員制のような場も設定できるから、パソ通だのmixiだのやってきた人は、すんなりと入り込める。ただし、ここは「濃いコミュニケーション」をする場所ではないから、たいていは何か書き込んでも、イイネというアイコンがつくくらいのものである。最初は「こんなアンコン付いたからって、なんなのよ」みたいな感じがしたものだが、慣れてくるとこれがけっこう楽しいのだ。
 ちなみに、私のブログはごらんの通り、長い、しつこい、くどい(ついでに誤字脱字が多い-笑)のがモットーなのだが、こういう場所では、いかに短くセンス良い「ヒトコト」を書くかが肝心なので、私のようにあれもこれもと書きたい人は、一生懸命切り詰めてもすぐに5行とかになってしまう(笑)。せめて三行くらいで済むように目下修行中であるが、この刈り込みがけっこう楽しかったりもする。

 ちなみに、SNSに疲れ果てたくだんの方も、なんとなくWassrに落ち着きかけているようだ。どんなこと書いてるのか、私には知るよしもないし、また探す気もない。ただ、メールには「心地よい孤独を楽しんでます」とあった。うーん、うまいこというな(笑)。私も試用のつもりで、あちこちでヒトコトいって、たまには「イイネ」もらっているうちに、おもしろくなってしまい、調子にのって、チャンネルもひとつ作ってしまった。ははは、オレの方がハマってる。という訳で、私も心地よい孤独を楽しんでいる、ここ数日である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番/ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハン

2009年03月30日 23時27分20秒 | ブラームス
 NHKのBSのクラシック系に「ハイビジョン・クラシック倶楽部」という番組がある。平日の朝6時とか午後1時とか、主に室内楽をメインに据えて、けっこう渋めのアーティストの演奏会をオンエアしているのだが、さすがにそれら全部は録画する気はないものの、たまに興味ある曲がプログラムにかかるとと、録画することにしている。先日、その中から「清水直子と仲間たち/アウラータ・クインテット」を観てみた。曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第1番から第1楽章, 第2楽章, 第4楽章である。私は清水直子とかアウラータ・クインテットなど初めて聞く人だが調べてみたところ、ベルリン・フィルその他のえり抜きのメンツによるエリート集団だそうで、けっこうな大物だったのだが、もちろん今回のお目当ては演奏者ではなく、ブラームスのピアノ四重奏曲第1番である。

 ブラームスのピアノ四重奏曲は全部で3曲あるが、弦楽六重奏曲だとかピアノ五重奏曲、ピアノ、クラリネットといった作品に比べると、編成が地味すぎるのか、大のブラームス党である私ではあるがこれらについてはほとんど馴染みがない。ただしこの第1番だけは、シェーンベルクの管弦楽編曲版に馴染んでいたせいで例外だ。その時の演奏はデビュー直後のサイモン・ラトルがバーミンガムを振ったものだったが、シェーンベルクの編曲があまりといえばあまりなくらいにブラームス的世界を再現していたせいだろう、私はまるでブラームスの交響曲がひとつ増えたようにすら感じ、けっこう愛聴したたものだった。そうなれば、その原曲の演奏というのも聴きたくなるのが人情だが、あまり記憶がはっきりしないのだが、当時のカタログにはピアノ四重奏曲第1番は多分なかったんじゃないだろうか、私は原曲の演奏を聴くことなくこれまで過ごしてきたのだった。なので、第3楽章が抜けているとはいえ、この曲を映像付きで鑑賞できるのはありがたいと、録画しておいたという訳である。

 演奏だが、室内楽の演奏会など20年くらい前にアルバン・ベルク弦楽四重奏団以来だから、もう初めて観るようなものである。演奏家のアップで観ると、さすがに室内楽は指揮者がいないせいだろう、各演奏家が非常に緊張していて、一音一音が真剣勝負なのがビビッドに伝わってきて、ロックだとかジャズにはない張りつめたようなムードがなんともい言えずにいい。曲の方はあれほど聴き込んだ割に、あまりにブラームス的な第1楽章はともかく、他の楽章はほとんど覚えていなかったが、こうした小さい編成で聴いても聴いても実に素晴らしい曲である。壮麗な第1楽章の第二主題とかなんど聴いても感動する。第2楽章のメインの主題で弦のトレモロが次々にリレーションしていく、目の詰んだこまやかさなども絵付きでみると実によくわかる。まだ、第4楽章のジプシー風なムードの中、激情的に盛り上がっていくが、管弦楽版ではほとんどブラームス的な世界を越えたスケールでそれが展開されていたが、原曲ではあくまでもスリムでシャープな面持ちで突き進んでいく様も悪くない....というか素晴らしい。テーマが三現するあたりのクインテット一丸になったホットさなど実にエキサイティングだ。

 そんな訳で、この曲についても勢いついでということで、今度はしばらく前に購入したブリリアントのブラームス室内楽全集の封を切って、同曲をファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンのクインテットで演奏したものを聴いている(写真はこちらのもの)。私はこの団体の詳細について、さっぱりわからないのだけれど、今聴いたばかりのアウラータ・クインテットのモダンで推進力豊かな演奏に比べると、ずいぶんおっとりしたソフトな趣だ。おそらく若手の演奏だと思われるが、ブラームス的なベタベタしたところ、重厚感にはあまり拘らず、やけにスースー演奏している感じだが、録音は完備したものだし、角のとれたやわらかめの音調が、いかにも上品な室内楽といった風情があって、ブラームスをシューベルト寄りに解釈したというところか。個人的にはアウラータ・クインテットの方が好みのような気もするが、まぁ、これはこれで悪くない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海賊ブラッドとスクリーンの豪傑たち/various artists

2009年03月29日 17時55分42秒 | サウンドトラック
 ナクソスから出た映画音楽のコンピレーション、収録されているのはミクロス・ローザの「The King's Thief(55年)」、ヴィクター・ヤングの 「血闘(52年)」 コルンゴルトの「海賊ブラッド(35年)」、マックス・スタイナーの「三銃士(35年)」の4本。原題は「Captain Blood and other Swashbucklers」、Swashbucklersというのは「暴れん坊」みたいな意味らしいので、こんなタイトルに意訳してみたが、多分「スクリーン狭しと暴れまくるヒーローがする登場する映画」ばかりを集めたコンピレーションということなのだと思う。この手の映画音楽コンピレーションは日本にもあるが、アメリカではけっこう盛んなようで、私自身もハリウッド暗黒映画、エピック映画、シャーロック・ホームズ、エイリアン三部作、バック・トゥ・ザ・フューチャー三部作、歴代スーパーマン、しばらく前にレヴュウしたハマー・ホラーなどなどけっこう所有している。

 さて、収録曲だが、ミクロス・ローザの「The King's Thief」は7分半の小組曲で、冒頭から金管が咆哮するいかにも英雄冒険譚らしいムードで始まる(録音はナクソスなので、抉るようなシャープさはないが、まずまずのHiFi録音)。ローザは初期は「白い恐怖」あたりのニューロティック&メロディアス路線、後期は「ベンハー」に代表されるダイナミックなエピック映画路線という、ふたつのイメージがあるけれど、この作品はそのどちらにも属さない、妙に明るい快活なムードが珍しいかもしれない。組曲中2つ目のバロック調のセクションの伸びやかな開放感、3つ目に収録されたラブ・テーマ風の美しさなど印象に残った。

 2曲目の「血闘」はヴィクター・ヤング作曲だが、この人は映画音楽の大家の割にはサントラの復刻、あるいはスコア演奏などでも不遇気味なので、この作品はけっこう貴重かもしれない。私も映画内では彼の音楽をきっといろいろ聴いているはずだが、こうして聴くのとほぼ初めてである。この作品の音楽は、映画の性格上仕方ないかもしれないが、ほぼコルンゴルトの後塵を拝した、典型的なハリウッド・スタイルである。元々クラシックのヴァイオリニストだったというから、ストリングスを全面に出したやや甘目の音楽なのが特徴になっていると思う。きっと恋愛映画などでは本領が発揮したのだろうと思う。

 コルンゴルトの「海賊ブラッド」は、彼のハリウッドのデビュー作である。前述の「決闘」のほとんど始祖ともいえる作品だと思う。ここでは計6曲、約20分の組曲が収録されているが、この作品の全曲版はサントラでもスコア盤でもみたことが、とりあえずこれだけ収録されていれば、ほぼおいしいところは楽しめるのではないか。
 メイン・タイトルは説明を要しないといってもいい、金管が咆哮する典型的なコルンゴルト節だ。2曲目のハイライト部分はリヒャルト・シュトラウス直系のオーケストレーションでもって、ウィーン風な甘さが出た、これまたコルンゴルトらしい夢見るように美しい音楽になっている。3曲目は瀟洒なウィンナ・ワルツ風な小品。4曲目は「ヘリアーネの奇跡」を思い出せる幻想的な音楽。ラストの2曲は眩いばかりのオーケストレーションでつくられたダイナミックな活劇音楽である。

 最後の「三銃士」はマックス・スタイナー。この人はなんといっても、「風と共に去りぬ」の音楽が有名だから、いかにもハリウッド通俗映画の大家といったイメージだが、コルンゴルトほど破格ではないとしても、この人も名付け親はリヒャルト・シュトラウス、ブラームスに薫陶を受け、15歳で入ったウィーン国立音楽大学ではマーラーから教えを受けながら、約1年でその修了したというから、ウィーンではかなりのアカデミックな神童だったことは間違いない。
 この音楽は1935年に作曲されたようだし、コルンゴルトの影響はほとんどなかったのだろう、これまでの3曲と比べられると、メロディックで旋律主体のたおやかさがあり、オーケストレーションもある意味地味というか、オーソドックスさにあふれている。2曲目の「愛のテーマ」あたりはスタイナーらしさ全開の旋律だが、こうして聴いてみると、スタイナーの少しばかり翳りのある甘さってのも、実はウィーン的なものだったことがよくわかる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティエリー・ラング・クインテット/リフレクションズ2

2009年03月28日 23時06分27秒 | JAZZ-Piano Trio
 ずいぶん長いこと放置してあったアルバム。なにしろ、ラングの「リフレクションズ1」を取り上げたが一昨年の6月だから、ずいぶんと間が開いてしまった。様々なフォーマットにラングが取り組むこの「リフレクション」シリーズだが、前作は一応自らの基盤を確認するかのごとくピアノ・トリオで収録されたが、こちらはテナー・サックスとトランペットを加えたクインテット編成で演奏されている。2年近くもほったらかしにしてあったのは、きっと「ECM的な透明感がラングの持ち味だとすると、2本のラッパを加えた音楽はどうなんだろう?」などと訝しげな気持ちがあったからだと思う。ヨーロッパ的なピアノ・トリオというのは、けっこう明確にイメージできるが、管楽器の入ったヨーロッパ・ジャズというのは、どうも確固たるイメージが結びつかないのだ。

 さて、実際聴いてみると、なんのことはない、例のティエレー・ラング・ワールドであった。確かにサックスやトランペットが入っているせいもあるし、いわゆるジャズ・スタンダードなども取り上げているところからも、一聴するとモード前後の王道ジャズみたいな聴こえ方もあるのだが、このゆったりとしたのびやかな音楽の流れ、ホットだとか熱狂だとかいう言葉とは、ほとんど無縁な音楽の温度感の低さのようなものは、やはりラング特有なものだ。1曲目の「コラール」にただよう静謐なムードにゆったりとしたグルーブ感は彼らしい世界としかいいようがないし、ミュート・トランペットに始まるアルバム2曲目の「レ・プチ・ジュ」などイントロこそマイルス風(というよりティーブ・レイシー的というべきか)だが、サックス・ソロをフィーチャーした本編の方は優雅なワルツのリズムとクラシカルといいたいようなラングの伴奏が、独特の軽みやひんやりとした感触を感じさせて、「あぁ、ヨーロッパのジャズを聴いてるな」という気分にさせる。

 また、ブルース・ナンバーである3曲目「アン・プチ・ブルー」も、「死刑台のエレベーター」を彷彿とさせるハードボイルドさがあっていいし、新主流派+ブラジル風味みたいな曲も数曲あり、これもけっこう楽しめる。なお、4曲目の「テンダー・アウェィキング」、6曲目の「ワカ・フォー・フォーチ」、8曲目の「モンマルトル」あたりは、メランコリックでちょっと湿ったいつもラング・スタイルを味あわせてくれる作品だ。
 という訳で、特に心配するまでもないラングらしい作品だったのだが、考えてみればサックスやトランペットが入って、なおかつ音楽全体がラングらしいとしかいいようがない感触になっているのは、よぼと緻密に編曲したような音楽ならそれもありだと思うが、こういうインプロ主体の音楽でこうなるということは、けっこう凄いことなのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BLOOD SWEAT & TEARS / New City

2009年03月27日 23時21分45秒 | ROCK-POP
 デビッド・クレイトン・トーマスが5年振りに復活した75年の作品(通算第8作)。ご存じのとおりクレイトン・トーマスは第2作から第4作目までBSTのアルバムで、バンドの看板ヴォーカリストとして圧倒的存在感を発揮したし、作曲なども担当していたから、「BSTってのはオレなんだよ」とか思い上がってしまったのかもしれない。BSTを脱退するとソロ・アーティストとして、順風満帆、大成の道を歩むのだろうとばかり思っていたら、私はほとんど聴いたことがないのだが(クラウス・オガーマンがアレンジした曲などもあるようだ)、何作か出たソロ・アルバムはどうも本体BST以上に苦戦したらしく、1975年にめでたくクレイトン・トーマスはBSTに復帰した。やっと調子を掴んできたところでバンドから追い出されたジェリー・フッシャーは悲惨だが....。

 アルバムは1曲目「Ride Captain Ride」は、ジャズ・ロックでも、前作のようなソウル路線でもなく、ちょっとBSTというにはいささかレイドバックして、ちょっとアーシーなアメリカン・ロック風の音で始まるのだが、クレイトン・トーマスのヴォーカルが入ると、それだけでBSTという気がしてしまう存在感はやはり凄い。途中でフュージョン風なエレピ・ソロがさりげなく繰り出されるあたりはニヤリとさせる部分だ。2曲目の「Life」は多少前作の雰囲気を残したファンキーな作品だが、これまたクレイトン・トーマスが歌っていることでえもいわれぬ重厚感を感じさせていい。また、7曲目の「Applause」は脱退直前4作目のジェントルで知的なBSTが戻っているようなところもある。9曲目の「Got to Get You into My Life」はもちろんビートルズの作品で、この曲は奇しくもビートルズがブラス・ロックに先鞭をつけた作品として知られているが、さすがにBSTはオリジナル通りにブラスをなぞることに抵抗あったのか、いくらかひねったアレンジに仕立て上げなおしている。

 という訳で、このクレイトン・トーマスの復活作、アレンジはまずまず練られているし(全盛期に匹敵するようなものではないが)、適度なポップさも悪くない。途中お遊びみたいな曲が2,3あって、これがアルバム全体の緊張感を弱めているところと、どうもコレ一曲という決定打がないのが残念だが、全体としてみればなかなかの出来である。初期の4作以降の作品としては、前作の「Mirror Image」と並んで佳作の部類だと思う。おそらくメンバーも起死回生の一発が見事不発に終わった前作から、クレイトン・トーマスを呼び戻し、今度こそ逆転サヨナラ満塁ホームランを狙ったことは想像に難くないが、残念ながらこれも不発に終わってしまった。1970年代初頭からBSTは迷走を続けたが、クレイトン・トーマスが戻った時、時代はそろそろニューロックの終わりを迎えはじめていたのだった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エルガー ヴァイオリン協奏曲/ケネディ,ラトル&バーミンガム市SO

2009年03月26日 23時18分38秒 | クラシック(20世紀~)
 三つ目のエルガー。演奏はナイジェル・ケネディ、バックはサイモン・ラトルと当時(97年)の手兵バーミンガム市響である。ナイジェル・ケネディといえば、確か「四季」が何百万枚売ったとか、クラシックのアーティストらしからぬ出で立ちでコンサートに登場したとか、ジャズの方とシームレスな活動しているとか、突如引退して復活したとか、90年頃だったと思うが、英国では話題にことかかない人だったようだ。この演奏は97年の復活後のもので、2度目の録音ということだが、2度も録音しているということは、彼にとっては十八番なのかもしれない。

 演奏は非常に楽しめる。期待して聴いたヒラリー・ハーンとコリン・デイヴィスの演奏は、キョンファとショルティのテンションの高い演奏で、まずはこの曲を知ったせいなのか、ハーンの端正だがやや余所行きな表情、デイヴィスの悠々迫らざるオケの伴奏共々、あの演奏は私にとってちと落ち着き過ぎ、地味過ぎで、全体としてはイマイチな印象だったが、その点、こちらは随所に新鮮さがあり、全編にわたってとても楽しめる演奏だ。なにしろ、録音当時はふたりとも若手だったのが幸いしたのだろう。この長大で晦渋な、ともすれば「英国訛り」のみというか、「わかる人にしか分からない」的な評価をされかねない、この曲を新しい切り口でスタンダード化してやろうとでも思ったのか、とにかく覇気満々な演奏なのがいい。

 まずラトルの指揮振りがおもしろい、インテンポで重厚に進めるのが定石(多分、なんだろうと思う)のこの曲を、第1楽章からテンポを頻繁に動かして第一主題と精力的に進め、第二主題では思い切り歌い、主題のコントラストを明確にして見せる点だとか、ちょっと苦みのある第2楽章をまるで「もうずっと昔から有名だった美しい楽章」の如く、実に流麗に演奏させてしまう手際など、実に素晴らしいものがあると思う。第3楽章も「こんなにハイライト向かって直線的に盛り上がる楽章だったっけなぁ」と思わせるくらいにクライマックスをはっきりとさせた演奏になっている。つまりは、この曲を「当たり前にスタンダードな協奏曲」として演奏しているのだ。

 ケネディのヴァイオリンはまずピアニッシモからフォルテまでレンジの広さ、そしてそのダイナミズムが印象的だ。ゴリゴリ弾くところは豪快で精力的だが、一転して弱音部では実に繊細で甘い表情を見せるのだが、そのバランス感覚が「コレだ」という説得力がある。第1楽章の多彩な表情もさることながら、聴きどころは第2楽章だろうか。ケネディにかかると、前述のラトルの指揮とも相まって、まるでコルンゴルトの協奏曲を聴いているかのようなロマンティックな美しさ感じさせるから妙だ。第3楽章の超絶技巧な部分など、実にホットな演奏で協奏曲的なカタルシスを感じさせる。という訳で、これまで聴いた3種類の演奏では文句なく、これが一番好きだ。いゃぁ、いい演奏に出会いました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴァイオリンとピアノのための作品集/リサ・バティアシヴィリ

2009年03月25日 23時09分02秒 | ブラームス
 ショスタコの協奏曲でその豪快かつ完璧な演奏に瞠目させられたグルジアの女流ヴァイオリニスト、リサ・バティアシヴィリ(このアルバムの表記はリサでなくエリザベス)。注文してあった3枚のCDはとっくに届いているのだが、とりあえず一番古い「ヴァイオリンとピアノのための作品集」を聴いてみた。フィチャーされているのは、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番、バッハの無伴奏パルティータ第1番、シューベルトの「ピアノとヴァイオリンの為の「華麗なロンド」 」の3曲。バッハとシューベルトの曲はまったく馴染みはないので、まずはブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番を聴いてみる(とはいってもトップに収録されているのだが)。この曲は20代の頃にけっこう聴き込んだ記憶がある。確かクリスチャン・フェラスの演奏した廉価盤で、当時、「あ~あ、単調な曲だなぁ」とか思いながら、けっこう辛抱強く聴いていたのが懐かしい。

 もうクリスチャン・フェラスの演奏の記憶などほとんど記憶に残っていないので、フェラスの演奏に比べて、バティアシヴィリはどうだとか全然書けないのだが、「雨の日の歌」というニックネームが付く、そこはかとないメランコリーと瞑想的気分が全編を覆ったこの渋い曲を、実に伸びやかに弾いている。ブラームス的なしっとりしたロマンティシズムや控えめな歌心といったところにも不足はなく、特に第1楽章の「孤独だが自由だ」的な独特の満ち足りた気分にふと悲しげな気分がよぎる、もうブラームスらしいとしかいいようがないあの感覚を、なんだか久々に聴いて堪能してしまった(聴きながら、プラームスのヴァイオリン・ソナタの3曲中では、これが一番好きだったことも思い出した)。やや太めでがっしりした音色、ちまちました細部の描写にこだわらずおおらかさに弾ききっているところなど、多分、彼女の個性なのだろう。よく覚えていないが、フェラスの演奏の方がよほど甘く歌謡的な演奏だったように思う。

 2曲目のバッハは無伴奏ということもあり、N響とのショスタコ演奏のカデンツァの部分をいやおうなく思い出させたりするが、もちろんこっちが元でショスタコはカデンツァはバッハへのオマージュである。バッハの無伴奏のヴァイオリン曲ってのは、実は初めて聴くのだが、もっと壮絶な緊張感があるような曲だと思っていたが、作られた時代が時代だけに、特に語法的な難解さがある訳でもないし、バロック期の音楽特有の静謐感のようなものは妙に心地よかったりした。シューベルトのは「華麗なロンド」とタイトルされている通り、かなり構えの大きな15分近い大作。序奏だけで3分半もあり、本編もベートーベン風な覇気と、シューベルトらしいメロディアスさがあれこれ交錯しているのが、おもしろい作品だが、バティアシヴィリも実に快調に弾いている(ように思う)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コルンゴルト シンフォニエッタ/アルブレヒト&ベルリンRSO

2009年03月23日 23時12分40秒 | マーラー+新ウィーン
 このところヴァイオリン協奏曲を聴きまくっているコルンゴルトの、これも純音楽畑の作品。ただしこちらはハリウッドへ渡る前のもので、しかも彼の作品歴の中ではごく初期(作品番号5)、なんと15歳の時の作品である。何度書いている通り、当時、「モーツァルト以来の神童」として知られていた彼は、この時点でウィーンの一流作曲家の仲間入りをしていて、この作品など初期の活動のハイライトのひとつといえるものらしく、当時、ニキシュだの、ワインガルトナー、R.シュトラウスが振ったというから、凄いものである。正式な作品名は「大管弦楽のための小交響曲(シンフォニエッタ)」で、大オーケストラで、演奏時間が45分もかかる作品が「小さい交響曲」というのも、ちょっと矛盾したような感じもするが、恐らくこれは規模の話ではなく、作品に盛り込まれた気分のようなものが、いわゆる交響曲のようなシリアスなものではなく、もう少し気軽なもの....という意味なのだろうと思う。

 なるほど、曲は全編にわたって、ウィーンの田園風景のような、なだらかな起伏に終始している。金管が轟くように咆哮したり、オーケストラが嵐のようにうごめいたりするようなところはあまりなく(ない訳ではないが)、さながらブラームスのセレナードを20世紀初頭にリファインしたような音楽....とでもいいたいような、いってしまえば「のんびりした音楽」になっている。
 第1楽章の冒頭はまるでオペレッタか、後年手がけることになるハリウッド映画のロマンスもののオープニング・タイトルのような音楽に始まり、主となる部分はワルツみたいなリズムで実に優雅に進んでいくが(第二主題あたりは特にそう)、このあたりは実にコルンゴルトらしい甘美な音楽になっている。しかも、随所にオーケストラのモダンな響きが散りばめられていて、全体としては古臭くて、それでいて新しいような感覚があり、まさにコルンゴルトの音楽の面目躍如たるものだ。もう15歳でこれだった訳だ。

 第2楽章はスケルツォ、全曲中、もっともダイナミックな音楽である。後年の「ロビンフッドの冒険」や「シー・ホーク」を思わせる壮麗さがあり、これまた彼らしい響きに満ち満ちているのだが、それは長く続かず、すぐさま田園風なトリオになって、第1楽章の気分にもどり(主題も循環しているようだ)。この振幅の交替によりスケール大きな楽章に仕立て上げている感じ。
 第3楽章は子守歌のような緩徐楽章である。20世紀初頭の楽曲らしく、多少印象派のようなオーケストレーションでもって、幻想的なムードを導入しているのが、この楽章の特徴だろう。また、ここでも第1楽章メインの主題を循環させたり、様々な音楽的要素を散りばめつつ進行していくが、その情報量たるや並のものではない。まさにひとつの文化が終わろうとしている時のみに出現するあらゆるものが統合された音楽だ。

 全曲中もっとも長い(15分くらいかかる)最終楽章は、文字通りフィナーレで、メインの主題を変形した断片に始まり、やや表現主義な不穏なムードにはじまるのが印象的だが、実はそれは味付け程度で、主部はコルンゴルトらしいオプティミズム満開の明るい音楽でもって、あちこち寄り道しつつ、次第に壮大な盛り上がり、ブルックナー風なコラールでハイライトを作っていくという筋書きである。
 という訳で、このCDを購入したのはもう10年以上前のことだが、これまでダラダラと聴き流してばかりいて、じっくりと聴いてみたのは、実はこれが初めてなのだが、とても良い曲であった。それにしてもこんな巧緻極まりない曲を15歳で作ってしまうというのは、やはり恐るべき神童という他はない。ツェムリンスキーもR.シュトラウスも戦慄を感じるのもさもありなん。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

The History of Blue Note / various artists

2009年03月22日 19時29分41秒 | JAZZ
 現在、iTunesStoreでヒットしているジャズ・コンピレーション。私は知人の人に教えてもらって知ったのだが、ブルーノート・レーベル70周年を記念してのもので、ネット配信限定商品としてされたものらしい。構成はごく初期のモノラル音源から、セルニアス・モンク、ソニー・クラーク、アート・ブレイキー、ケニー・バレル、リー・モーガン、ハービー・ハンコックといった黄金時代のメンツから最近ノラ・ジョーンズまで70曲(70周年にひっかけてるのか?)がクロノジカルに収録されている。収録時間は7時間を超えるから、CDにすると6枚組くらいになるだろうか?。ともかくこれで1,500円というのだから、そのお買い得感に思わずポチっと押してしまったという次第である。

 さて、内容だがまさにネット配信向けのものとしかいいようがない。当方ジャズも多少は聴くので、このアルバムに収められた曲が収録されたオリジナル・アルバムは、「クール・ストラッティン」「ミッドナイト・ギター」「処女航海」などなど、思いつく限りでも既に少なからず所有していたりするし、他ならぬわがiTunesにもライブラリ化され終わったりもしているのだが、70曲からの音源をまとめているとなれば話は別だ。そもそもCD6枚組とかいったら、曲へのアクセスが煩瑣だし、仮に収録曲全てをオリジナル・アルバムで持っていたとしても、それらをライブリ化するのはかなり気合がいる作業だろうから、ネット配信向けの商品としては最適な企画だと思う。iTunesStoreでヒットしてるのも、さもありなんである。

 おまけにこれはジャズ・サンプラーとして理想的である。ロック、ポップ系の音楽なら1曲4分とかだから、CD1枚70分でもサンプラーとして十分機能するが、ジャズとかクラシックになると1曲が長いので、CD1枚のサンプラーというのは、楽曲ひとつをフル収録すると、曲が少なすぎてカタログとしてヴァリエーションが寂しいし、途中でフェイドアウトとかしてしまうと、そもそも聴く気がおこらないしで、クラシックやジャズのサンプラーは中途半端なものが多かったように思うのだが、これなら精神衛生上満足感もあるし(笑)、コンピレーションとしての価値もあろうものである。もっともあの曲が入ってない的な不満は、当然出てくるだろうが....(マイルスとキャノンボールの「枯葉」が入ってないとかね-笑)。

 ついでに書くとこのアルバム、DRMフリー、iTunes plusの商品なので、コピーや再生などが基本的に制限がなく、iPodなどへの運用がラクチン、ビットレートは256kbpsで収録されているから、自宅でそれなりのシステムで再生しても、CDに多少劣る程度の音質が期待できるというのもいい(※)。という訳で、繰り返しになるが、良い企画のアルバムである。若い世代にとって音楽のネット配信というのは、別に不自然でもなんでもないだろうが、現在のCDの主たる購買層である中高年といえばなかなかそうもいくまい。そんなオッサン向けにこういう商品が沢山でてくると、音楽のネット配信というのも、世代を超えていよいよ加速度的に普及してくるのではないか。なんてまだ一曲も聴いてないうちに書いてしまった....って、未だ聴いてなかったんかい(笑)。



※ ネットで配信されたソースは回転メディアを通さずコピーされているから、正真正銘、ストレートにデジタル転送したデータともいえる訳で、その分、音質的にも期待できるという人もいるようだ。
コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エルガー ヴァイオリン協奏曲/ハーン,デイヴィス&LSO (SACD)

2009年03月21日 00時50分53秒 | クラシック(20世紀~)
 一昨日に書いて以来、しつこくエルガーの協奏曲を聴いている。昨日今日だけでもかれこれ7,8回は聴いていると思うが(通勤や移動中のWalkmanってのも多いのだが)、大分馴染んではきた。とはいっても、これでよーやく各楽章の主題、形式がおおよそ識別できた....という程度である。小説でいったら、荒筋がおおむね了解でき、登場人物の何人かに親しみを感じてきたというところで、登場人物のセリフの良さに感服したり、筋書きの巧みさに感服する....例えばブラームスのように「その良さをしみじみと味わう」みたいなところまでは行ってない、前回も書いたようにエルガーという人の作風は、とてもブラームス的なところがあるので、ブラームスのように楽しめそうなのに、なかなかそうならないというのは切ないところだ。まぁ、こういう人の音楽って、そもそも短期間でどうこうしようと思わずに、長いこと付き合うべき音楽なんであろうことは分かっているだけれど、つい焦ってしまう、悪いことである。

 クラシック、特に古典派からロマン派くらいまでの音楽を聴く時、どうしても行き当たるのが形式という問題だ。例えばソナタ形式(楽章)、これはたいてい序奏があり、第一主題があって、それとは対照的な第二主題が提示されると、そこからこのふたつの主題をあれこれこねくり回して展開させていく文字通り展開部があって、それがたいてい大きく盛り上がったところで、第一主題と第二主題が再現される....みたいな構成をとっている。なぜ作曲家がこういう形式をいちいち採用するのかということは長くなるので省くけれど、少なくともリスナーにとって、形式というのは、長い曲を聴く上である種のガイドラインにはなることは確かだと思う。まぁ、少なくとも私にとってはそうだ。
 「音楽には理屈も形式もいらない、心で聴くものだ」みたいにいう人もいるけれど、その言い分は建前としては正論だとしても、例えばこの曲のようにどの楽章も15分以上あるのような大規模な曲の場合、白紙の心で魂にうったえかけるような表現、心に琴線に触れるような旋律やハーモニーを、やみくも探して聴いてみたところで、途中でくじけてしまうのが関の山ではないだろうか。

 なんだか話が妙に説教臭い方向になってきたが(某巨大匿名掲示板風にいうと「オマエ、誰と戦ってんだ?」ってところか-笑)、話を戻すとこの曲の第1楽章は約18分という長大なものだけれど、さきほどのソナタ形式を構成するパーツという風に考えてみるれば、主題の提示部(オケだけ)は2分半、再提示(ここでヴァイオリンも入る)が6分、展開部が2分半、再現部が7分 という風に、各パートがだいたいロックやポップだの一曲分に相当するくらいの長さに分解というか、音楽のメリハリとして考えることができる。で、この曲の場合、まず第1主題がふたつに分かれていて長大、おかげで第2主題がとても地味になってしまっていて、あんまり鮮やかに対照していない。後半の展開部と再現部の区別が全然つかない(笑)、再現部とは名ばかりで、ほとんど展開部の続きといった感じで主題を延々とこねくりまわしている感がある....などの理由で、各パートをなかなか判別できなくて、聴いていて迷子になってしまう訳だ。また、この楽章はハイライトに向かってストレートに盛り上がっていくようなものではなく、いたるところで立ち止まって、瞑想するような趣になっていて、そのあたりも迷子になりやすいところだと思う。

 などと、本当はヒラリー・ハーンが巨匠コリン・デイヴィスとロンドン響をバックを得て、2003年に収録された同曲の演奏について、その感想を書こうとしたのだけれど、話があらぬ方向にいってしまって全然出てこないまま終わってしまいそうなので、少しだけ書いておく。この演奏、キョンファとショルティが組んだものに比べ、ソロ、オケともに落ち着き払っている。ハーンは全く激することなく、しかし終始緊張感を持ちつつも、彼女らしい低い温度感と細部に至るまで明晰なプレイでこの曲を弾ききっている。またデイヴィスとロンドン響の方だが、「エルガーというものはこういうものだ」といわんばかりの、やや暗く、くすんだ響きでもって、この大作を壮麗に演奏していて充実感満点である(リアルなオケの量感はSACDならではのクウォリティだし)。ただ、正直いうと、現段階ではキョンファとショルティの演奏にあった、白か黒か的なメリハリ、昂ぶるるようなテンションのようなものが、この曲に慣れ親しむにはけっこう頃合いかも?などと思わないこともない。つまり、目下、同曲を修行中の身としてはハーンとデイヴィスの演奏はちと渋すぎる感じがした....といったところだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TOMMY FLANAGAN / Sunset and the Mockingbird

2009年03月20日 19時45分42秒 | JAZZ-Piano Trio
 トミー・フラナガンの最晩年のライブ、確か彼自身の67歳(1997年)のバースデイ・コンサートで(最後にはオーディエンスによってフラナガンへのバースデイ・ソングが歌われる)、かのヴィレッジ・バンガードで収録されたものだったハズだ。フラナガンといえば、この時期、既にヴァップ期の生き証人として存在そのものがヴィンテージ化してたように思うが、それに呼応するかのように沢山のCDがつくられていたように記憶する。私がもっているのは「Sea Changes」「Lady Be Good for Ella」とこのアルバムだけだが、この時期のフラナガンの作品が他にどんなものがあるか、私は寡聞にしてよく知らないのだが、どれも良質な作品である。「Sea Changes」は名作「Overseas」の再演的アルバム、「Lady Be Good for Ella」はエラ追悼にちなんで、彼女の愛唱曲をピアノ・トリオで演奏、そしてこれがバースデイ・コンサートという、それぞれ違った趣でつくられていて、さながら彼の全活動をレトロスペクティブするかのようですらある。

 とりわけて、このアルバムはバースデイ・コンサートということもあって、当時のフラナガンが一番良く現れている作品ではないか。フラナガンという人は歌判は巧いし、数々の名盤のクレジットをみても、どちらかといば脇で渋く光る類の名演が多い人だから、そもそもアーティスティックなエゴを発散するタイプではないのだろう。なので、リクエストに応じてどういう風にでも立ち回えしまえるのだろうが、このアルバムは奥方のプロデュースだし、彼としてもリラックスして「やりたいことをやった」というか、なにはともあれインティメートな演奏だと思うからである。
 まぁ、そんな意図でつくられたアルバムなせいだろう、曲目は同世代のジャズ仲間がつくったジャズ・スタンダードばかりが選ばれているようで、私のようなジャズ初心者にはそのほとんどが未知な曲ではあるが、フラナガンの滋味あふれるピアノを楽しむにはかえって有名曲でない方が、かつての「Moodsville #9」同様、フラナガン的世界がビビッドに感じられて楽しめる(ちなみに、ベースはピーター・ワシントン、ドラムスはルイス・ナッシュである)。

 収録曲の中では4曲目の「I Waited for You」が素晴らしい。まず冒頭のソロで演奏されるパートの、ほのかに明るくそれでいて少し瞑想的なムードが良いし、続いてトリオに入ってからもピアノをよく歌わせつつ、ジャズ的なメリハリとリラクゼーションがほどよくバランスしているところがいい。6曲目の「Sunset and the Mockingbird」も、同様にスローでよく歌ったロマンティックな作品で、途中ブルージーになるところなど、その職人芸に思わず聴き惚れてしまう。ちなみに続くメドレーの前半「The Balanced Scales」はソロ演奏である(というか「The Cup Bearers」への長いイントロと考えるべきなのかも)。また、こうしたスローな作品にサンドイッチされて演奏されるアップテンポな作品はどれも長尺な演奏で、「Overseas」みたいなテンションはないけれど、快調にスウィングしていて、こちらももちろん楽しめる。
 という訳で、このところクラシックばかり、耳をそばだてて-少し緊張して-聴いていたせいで、ちと気分転換にこれを聴いてみたら、なかなか楽しめたの取り上げてみました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

iTunesサーバ その4

2009年03月19日 23時37分23秒 | PC+AUDIO
 9月になんとなく(ほんとうになんとなくだった-笑)始めたiTunesサーバーだが、先週で6ヶ月を経過した。1,000枚くらいまで、ほいほいとライブリ化してしまったものの、さすがに年を越してからは仕事が忙しくなったり、体調が悪かったりと、そうそう作業も進んでいないのだが、それでも現在のライブラリはアルバムだと約1,500枚、曲だと16,000曲くらいにはなった(容量的には約180GB)。これでも私が所有している全CDの15%くらいなものだろうが、それでも日常的な音楽的欲求には、これでそこそこ用が足りるようになってきたのは確かで、それと併せるようにCDというメディアが、なんとなく色あせて感じる昨今でもある。

 最近は気が向くと、そのジャンルなり、アーティストなりを集中的にライブリ化するという感じで、正月には歴代のニューイヤー・コンサートやシュトラウス関連のCDを精力的にやったりしたが、1987年から今年までのニュー・イヤー・コンサートがずらりとリスト化されたのは壮観であった。実際、「シュトラウスの「くるまば草」って、ニューイヤーだと、誰が振ってたっけな?」とか思って、検索かけると、すぐさまリストアップされ(このあたりのiTunesのインターフェイスの使い易さはなかなかのものだ)、気軽に聴き比べができたりするのは便利の極みである。
 なにしろ寄る歳にはなんとやらで(笑)、記憶力激減退中の昨今、交響曲あたりなら、自分の脳内データベースでもなんとかなるが、シュトラウスの膨大なワルツ群といったらそうもいかない。おかげで、今年の正月はその便利さをずいぶんと享受した。またその後のことだが、「トリスタンとイゾルデ」関連のCDを一気にライブラリ化して、第二幕の「愛の場面」に自在にアクセスして、オケや歌手たちの演奏を存分に聴き比べしたことも楽しいひとときであった。

 ちなみに1月を前後して、AVアンプやSTBの新調が相次いだので、iTunesサーバーの運用も少しかわっている。今までメインの2chのシステムにはAppleTVが繋がっていて、これをiTunesのクライアントにしていたのだが、これをAirMacExpressに変更して、余ったAppleTVはHDMI接続で5.1chのAVシステムの方に回した。AppleTVではYouTubeその他、動画を観ることも多いので、どう考えてもこう分けた方が筋が通っているし、合理的である。
 そんな訳で、iTunesライブラリは自分のリスナー生活に確実に浸食してきているのだが、ちょっと気になるのが、iTunesというソフトが管理できるライブラリの上限は、楽曲もしくは容量にして、一体どのくらいなのだろう?ということ。一応、NASの容量は500GBだから、まだまだ余裕なのだが、調子にのって、ライブラリ化続けて300GBくらいまでいったところで、「もう限界です」とかいわれたら?....とか、たまに心配になる(笑)。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エルガー ヴァイオリン協奏曲/キョンファ,ショルティ&LPO

2009年03月18日 23時02分23秒 | クラシック(20世紀~)
 ショスタコ、コルンゴールドに続いて、ここ数日挑戦中なのがエルガーのヴァイオリン協奏曲である。エルガーという作曲家は英国出身ということもあって、一応ブリティッシュ・ロックでもって音楽に開眼した当方にとっては、詳しい事情は省くがとても興味ある存在だ。しかも、エルガーという人は保守的な英国らしく、20世紀に入っても当時の最新モードである12音だの無調だのというモダンな方法論は採用せず、ひたすら品格のある重厚な作風で、節度をわきまえたブラームス的な情緒にベースにしたような作風となればなおさらである(ちなみに英国の作曲家はこの手の保守系が多く、デューリアスやヴォーン・ウィアムスなどもそうした作風だったと思う)。

 そんな訳で、私は20代の頃、彼の代表作である「エニグマ変奏曲」を、確かスコフスキーとオーマンディの演奏で聴いてすっかり気に入ってしまい、それでは....とばかりに、彼の交響曲の方にも挑戦したのが、「エニグマ変奏曲」の親しみやすさに比べると、これが実に難物だったのだ。ブラームス風な堅牢な構成に、あまりに感情を抑圧しすぎて、よくよく聴かないと感得できないロマン派的ムードなどなど、とにかく渋い、あまりに渋い曲だったのである。確か記憶によれば、私は交響曲の一番をずいぶん聴き込んで、「あぁ、もう少しだ、あと何回か聴けば、きっと気に入る....」くらいまでいったと思う。だが、どうしてそうなったのか、よく覚えていないのだが、そこで終わってしまったのだった。以来、エルガーといえば、「エニグマはいいけど、あとはちょっとねー」みたいなイメージになってしまったのである。

 以来、実に久々のエルガーである。しかも曲は晦渋かつ長大をもって知られるヴァイオリン協奏曲である。ヴァイオリン協奏曲史上、演奏時間が50分に迫ろうかという作品というと、これ以外には数えるほどしかないという程の巨大さ、また、エルガー自身がヴァイオリニスト出身だったせいもあって、これを弾ききるテクニックもすさまじく高い(ネットで調べたら「空前の難曲」という形容をみかけた)....ということで、私が20代の頃はこの曲はあまりレコードやCDもなく、作品そのものエルガーの事大主義的な面が裏目に出た空疎な仕上がり....のようにも形容されていた作品なのである。演奏はチョン・キョンファのヴァイオリン、ショルティとLPOが伴奏を務めるものを聴いてみた。多分、70年代にはこの曲のスタンダードな演奏だったと思う。

 目下、あまりあれこれ考えずに自宅やWalkmanで繰り返して聴いているところで、たぶん十数回くらいは聴いたのではないかと思うが、案の定、実に晦渋である。ショスタコのようなトリッキーなおもしろさ、抉るように沈痛な表情がある訳ではないし、コルンゴールドみたいな甘さももちろんない。とにかく全体をがっちりと構成してあるのはわかりるのだが、聴きはじめて、「今、どこだっけ?」と、すぐに迷子になってしまう。まずテーマがすすっと頭にはいってこない、構成で例えばソナタ形式に展開部だとか、再現部みたいな区別が容易に判別できない。下手をすると、快速調な第一楽章なんだか、緩徐楽章である第二楽章なのかもわからなくなってしまうといった具合だ。

 つまり、もう笑うしかないくらいお手上げという感じなのだが、それでも人間努力はいつか実るものだ(努力なんてもんじゃねーか、ただ聴いてるだけだもんな-笑)。ここ数回くらい、ようやく-仄かにだが-テーマだの、曲のメリハリだのが見えてきたような気もするし、ヴァイオリンで超絶的なテクニックを駆使している部分なんてところも楽しめそうな気分がしてきたのは収穫である。この曲、ヒラリー・ハーンのSACDも購入してあることだし、もう少しがんばって聴きこんで、なんとか物にしてみたいと思う。これが好きになれば、きっと交響曲だの、チェロ協奏曲、セレナードなんてところもイケるようになるかもしれないし....。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/五嶋、アバド&BPO

2009年03月17日 00時08分36秒 | クラシック(20世紀~)
 五嶋みどりは、14歳の時、タングルウッドで演奏後にかのバーンスタインがひれ伏したとかいう伝説をつくった日本の誇る女性ヴァイオリニストだが(ヴァイオリンを弾く驚異の神童伝説はその後に登場したサラ・チャンも凄いものだったらしいが)、天才少女といわれた彼女も、早いもの今ではもう30歳後半になるそうだ。これはそんな彼女が21歳の時に挑んだショスタの協奏曲のライブ・パフォーマンス。バックはアバドとベルリンという鉄壁の布陣で録音されている。この曲もかなりの演奏を聴いたせいで、曲自体もかなり身体に馴染んできたような気がするが、はてさて、日本が誇る世界的なヴァイオリニストの演奏はどんなものだろうか....?と、最初に収録されたチャイコの協奏曲の方はすっとばして、さっそく聴いてみた。

 演奏の方は一聴してかなり早めで実にあっさりとした印象だ。やはり日本人なせいなのか、全体に淡彩、細やかな美しさがあり、濃厚さとかアクといった形容とは対象的な演奏という感じがする。身も蓋もないいい方をすると、サラ・チャンの優等生的な破綻のなさに、ムローヴァのような女性らしい角のとれたしなやかさをプレンドしたような感じだろうか....。
 奇数楽章については、あまり深刻になったり、瞑想に深く沈み込んだりしない、いわば文学性を排除したような演奏で、ヴァイオリンという楽器の持つしなやかなで、滑らかさを全面に出したきわめて美しい演奏だと思う、弱音部の美しさなど特筆ものである。
 偶数楽章については、他の若手の演奏同様、このあまりに技巧的な楽章を華麗なるショー・ピースとして、全く危なげなく颯爽と弾ききっている。この演奏は客席のノイズがけっこう聴こえるし、最後には盛大な拍手も聴こえてくるから、文字通りライブ盤なのだろう(おそらくほとんど編集などもしてないのではないだろうか)、それでこの瑕疵のない出来というのだから、全く恐れ入ってしまう。

 ちなみに伴奏のアバドとベルリンだが、なにしろコンビだからして、ほぼ十全に完備した演奏だとは思うのだが、どうもこの時期のアバドとベルリンの演奏って、マーラーなどもそうだったけど、今ひとつこのコンビならでは売りというか、「コレだっ」という決め手に欠くような気がする(木管が妙に浮き上がって聴こえるのは相変わらずアバドらしいのだが)。
 そのせいだろうか、この演奏の場合、五嶋みどりのけっこうあっさり系な演奏に対し、オケの方もほぼそんな線でフォロウに回っているため、オケとソリストの「調和の美」はいいとしても、協奏曲のもうひとつの側面である、闘争的な迫力、ダイナミズムは、どうもひまひとつのように感じた。ここでのオケが例えばロストロが伴奏した時のような馬車馬のようにどでかい音であるとか、ヤンソンスのみたいな現代的なドライブ感でぐいぐい進むような感じなら、彼女のヴァイオリンももっと引き立ったかと思うのだが....。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

mixiの広告がうざい

2009年03月16日 23時46分39秒 | others
 私は十数年前にパソコン通信というネット・メディアにデビューし、その後、ご多分にもれずインターネットという大海に泳ぎでたクチである。当時パソコン通信していた人が誰でも感じたように、インターネットの広範にアクセスできる利便性、制約の少ない自由さはとても魅力的で、しばらくは夢中になったものだった(一国一城の主になれるのがうれしくて、自分のHPやBBSをつくるとか、みんなやったものだ、そのなれの果てのひとつがこのブログだったりするのだが-笑)。しかし、そのインターネットも慣れるにつれて、自由だが無秩序、情報は豊富だが玉石混淆、誰でも発言できるが、魑魅魍魎が跋扈する....というカオスな状況が明らかになり、最後にはそれに疲れてしまった人達もいた。もちろん、私のことである。

 そこに登場したのかSNSという仕組みだった(日本では今のSNS大手であるmixiが名乗りを上げたのが5年前ということなる)。SNSの機能はそれこそいろいろだが、当時の私が注目したのはSNSの持つ身内を囲い込むシステムである。人の選別するとかいったら傲慢になるけれど、しばらくしてSNSは調度会員制の掲示板のように使えることを知り、私はどかつてのパソコン通信で知り合った人達と、あるコミュニティをつくりそこをまるで隠れ家のように使って、気のおけない話だとか、それこそオフ会の連絡窓口に使ったりとか、その便利さを享受させてもらったりしたものだった....いや、もちろん過去形ではなく、今も便利に使わせてもらってはいるのだが。

 ただ、最近はmixiそのものがケータイ・ユーザーまで取り込んで、いきおい巨大化したせいなのだろう。最近ではもう「友達の輪」だとか「身内の集まり」とは名ばかりで、実はネット人口の一定数に網をかけたのとなんら変わらない状況になってしまっており、それに伴う様々なトラブル、事件が発生していることは既に知られているとおりだ。幸いに私はこういう場所ではおとなしくしているので(笑)、あまり目立ったトラブルには巻き込まれたことはないが、端からウォッチしているだけでも、最近はmixiの方もやけに混沌としてきたよなぁ、とか思ってしまったりする。

 それに併せて....というべきなのかどうか、相関関係はよく分からないところもあるのだけれど、最近mixiのバナー広告やニュースがやけにうざい。やれ残業なしで年収いくらだの、何日で減量ができる、抜け毛が解決、毛穴がどうした、男がもてる秘訣、可愛がられる女のポイント....みたいな、下品な男性雑誌だの下世話な女性週刊誌みたいキャッチの連打で、mixiに訪れる度に正直いってげんなりしてしまう。いや、もちろんこちらは無料で使わせてもらっているのだし、この手のメディアはそもそも広告が収入源なんだろうから、広告見るのが嫌なら使わなければ良い....ということになるんだろうけど、それにしてもこれはちとウザ過ぎだ。Googleのようにもっとクレバーに広告してくれれば、なんとも思わないのだが、ここまで露骨だともはや嫌悪感すら感じてしまう。

 ちなみに私が書いているこのブログは有料オプションを使って、-観ている私自身は-広告をブロックできているのだけれど、mixiにもそういう有料オプションをつくってもらうことはできないもんだろうか。いかんせん、最近だとあのウザ過ぎな広告に付き合うのかと思うと、mixiそのものに足が遠のきがちだし、いっそのこともっと静かで、あまり人がいないSNSとかに移動できたら....とか、考えてしまったりもするのだ。とはいえ、ココで作ってしまった人脈というのもあるから、そう簡単に身動きもとれんし。どうしてもって訳でもないけれど、なんとかならんかねぃ、あのmixiのうざい広告(プニルのコントロールURLでもいじくってみるか-苦笑)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする