和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

古典の教養。

2020-10-12 | 本棚並べ
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)を
本棚からとりだす。謡曲を語るドナルド・キーンさんの言葉を、
あらためて読みたかったのでした。

「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。

謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。
私は読むたびに感激する。

私ひとりがそう思うのではない、コロンビア大学で教え始めて
から少なくとも7回か8回、学生とともに『松風』を読んだが、
感激しない学生は、いままでに一人もいない。
異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。
・・・・」(p57)

今回、私が読み直したかったのは、キーン氏を教えた
大学の角田柳作先生の登場する箇所でした。

「その講義は、角田先生が代行していた。さらに思想史を
教えるかたわら、仏教文学も取り上げ、『往生要集』を講読していた。
私たちは、多忙をきわめる先生にせがんで、そのうえに
『源氏物語』の須磨と明石の巻、謡曲『松風』と『卒塔婆小町』、
『徒然草』、さらに江戸期に入って『好色五人女』や
『奥の細道』を習った。

明治20年代の日本で教育を受けた角田先生は、その時代の
日本インテリの常として、家庭で注釈のない『源氏』を読んで
十分に楽しさを感じるほどの基礎的な古典の教養があったから、
私たちのむりな要求にも応じることができたわけである。ただ、
週に二十数時間もの授業は、下調べの努力もいることだし、
さすがの先生にとっても相当な重荷だった。

あとからわかったのだが、戦後のあの時代に、先生が
コロンビア大学で八面六臂の活躍をしたのは、先生に
とってかえって非常にいいことだった。祖国の敗北で
憂鬱になっていた先生にとって、多忙であることのほうが、
ひまなのよりよほどよかったのである。・・・・・・」


「教えられる側から言っても、角田先生のような広い教養の
持ち主に習ったのは、非常によかった。たとえば『松風』を、
謡曲専門の学者に学ぶよりは、はるかに面白かった。
いまの若い学者は、きっとそのような方法を、時代おくれときめ
つけるだろうが、勉強のしかたがいまの人とは全然違ったのである。

ただテキストの文章が印刷してあるだけの有朋堂文庫を開いて、
私たちは苦労したが、角田先生にとってはそれが他愛もなく読めた。
先生は、注釈のついた古典文学の本に、むしろ全然関心がなかった。
なんのために注釈があるかわからないくらいで、わかりきったことを
なぜ苦しむのかという態度で、私たちを見ていた。

何時間かけて調べても、どうしてもわからない表現がある。
やむをえず先生に教えを乞うと、『きみ、こうだよ』と、
笑いながら説明してくれた。私たちがなぜもう少し頭を使わないか、
不思議でならないらしかった。『源氏』から『五人女』まで
そんな調子で、おかげで講読は先へ先へと進んだ。

角田先生という人は、それほどまで古典と親密に付き合う
ことのできる、明治の学者だったのである。
師に人を得た日本文学の講義は面白かった。・・・・」
(p50~52)


ドナルド・キーンは、1922年生まれ。
それではと、集英社の「わたしの古典」シリーズを
現代語訳されている女性陣の年齢はどうかと調べてみました。

生方たつゑ、1905年生まれ
円地文子、1905年生まれ
山本藤枝、1910年生まれ
池田みち子、1910年生まれ
阿部光子、1912年生まれ
大原富枝、1912年生まれ

これから、ドナルド・キーン氏と同じ
1920年代の生まれの方を紹介。

清川妙、1921年生まれ
もろさわようこ、1925年生まれ
杉本苑子、1925年生まれ
永井路子、1925年生まれ
尾崎左永子、1927年生まれ
安西篤子、1927年生まれ
田辺聖子、1928年生まれ
馬場あき子、1928年生まれ
竹西寛子、1929年生まれ
三枝和子、1929年生まれ
大庭みな子、1930年生まれ

うん。あとはいいでしょう(笑)。
この方々を教えられた古文の先生方、
血肉化した古典の教養のありがたさ。





コメント
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