笠置駅の前には大きな桜の木があって、その下に元弘の乱を表す人形が展示されています。
1331(元弘元)年9月2日~28日、鎌倉幕府討幕を図って挙兵した後醍醐天皇の軍勢と足利高氏(後の尊氏)らの鎌倉幕府軍の間で戦われた笠置山の戦いの様子です。鎌倉幕府軍は75,000、天皇側の兵は3,000余と戦力の面では圧倒的に不利な状況でしたが、笠置山は天然の要害ということもあって天皇軍は善戦しました。弓で戦う武将は足助重範、巨岩を敵に投げつけようとしているのは般若寺の僧本性房です。
その後、9月28日の夜に風雨の中、幕府側の陶山義高らが山に放火したことによって天皇側は総崩れとなり、笠置山はついに陥落、後醍醐天皇は幕府側に捕えられ、隠岐島へ流されました。
辺り一面に桜の花が散り敷いています。
駅の前にもう一つ、笠置の歴史を表す看板がありました。
絵「笠置春光」が表しているのは、京都大学名誉教授吉田光邦氏による解説では「天武天皇がまだ大海人皇人であったころ、一日このあたりで狩猟した。大鹿を追って山頂の岩をかけのぼれば、下は深い谷である。瞬間、皇人は仏に祈って危機をのがれた。皇人その場のしるしとして笠を置いて帰り、のちに巨岩にミロク像を彫って報謝の意を表した。これは「笠置寺縁起」や「今昔物語」(巻十一)に伝えるところである。」
絵の皇人の馬の下の岩が笠置の名の由来になった笠置石で、仏の岩が弥勒石です。
看板の右下にあるのが「笠置形燈籠」で、平安時代笠置寺参道に建てられていたと伝えられる燈籠を復元したものです。
ちょっと見にくいですが、頂部に擬宝珠をのせた縦長の石の上部に開けられた格子状の窓の中に灯が灯されます。
駅から鄙びた街道の街並みが続いています。相楽郡笠置町、ここも京都府の中です。
白砂川の上に関西本線の鉄橋が掛かっています。
その鉄橋の下をくぐって木津川の河川敷に出ると、桜の木がたくさんある広場で、キャンプ場やグランドゴルフ場になっています。中央の桜の森の奥に笠置駅があります。
街道をさらに歩いて行き、関西本線の次の陸橋の下をくぐり抜けると、
木津川に架かる笠置大橋に出ました。車道と歩道に別れた大きな橋です。
木津川はこの辺りから上流は巨石がごろごろ転がっていて「鹿ヶ淵(シシガフチ)」と言われています。
木津川とは反対側の街道を上がっていくと、道が分かれて笠置山への登山道がありました。
かなりの急坂だったので、ここで回り道して駅に向かって戻りました。
笠置山に登らないで、街道をずっと進んで行くと、柳生の里に続いているようです。
このマップの左半分が柳生の里です。いつか行ってみたいけれど、柳生の里はちょっと遠くて、足の便の悪い隠れ里です。
笠置駅10:50発のJR関西本線亀山行きに乗って東に進みました。
12:05亀山着。
12:24亀山発の快速名古屋行きに乗り継いで、13:07桑名に着きました。