湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

宗教戦争だった「本能寺の変」・・・歴史の考察

2016-06-29 11:16:39 | Weblog
「本能寺の変」とは何であったか?

私の結論は、日本における”宗教戦争”です
日本の伝統宗教と、外来のキリスト教との戦いです
普通、宗教戦争と言えば、長く悲惨な戦いが続くものなのですが
事変の展開は、素早く、そして皮肉な結果となりました

キリスト教の最大の擁護者である織田信長が
そのナンバーツーであり
キリスト教に好意的であった明智光秀に討たれ
その明智光秀も
洗礼を受けたキリシタンである高山右近に致命傷を与えられたのです

戦国時代日本のキリシタンは
いわば、同士討ちによって、亡びたのでした
日本の伝統宗教関係者には、まことに痛快な展開でした
これがすべて吉田兼見や近衛前久の陰謀の成果とは思えません
偶然に助けられた幸運であったと思われます

特に、高山右近の行動は
「本能寺の変」の、その後の展開に、決定的な影響を及ぼしました
もし、高山右近が明智光秀に従ったならば
「中国大返し」で、やっとの思いで山崎までたどり着いた羽柴秀吉は
疲れ切っており、決定的な敗北を喫したでしょう
そうなれば、明智光秀との立場は正反対になっていたのです

高山右近に明智光秀を討てと命じた
宣教師オルガンティーノは、結果として
日本におけるイエズス会とキリスト教の衰退のきっかけを作りました

彼の命令により、高山右近が明智光秀を討ったため
羽柴秀吉は天下をとれました
その秀吉が、やがて「バテレン禁止令」を発するわけです

そして、秀吉の死後
天下を引き継いだ徳川家康は、秀吉のキリスト教禁教策を引き継ぎ
そればかりか、さらに
カトリック諸国との外交関係まで断ってしまいました

どう解釈すればいいのでしょう?
キリスト教の擁護者であった織田信長が倒されて
その一番弟子とも言うべき羽柴秀吉
さらに、徳川家康が、日本の指導者になったにもかかわらす・・・
信長の後継者である、この二人は
なぜ、キリスト教政策だけは師匠とは正反対の立場をとったのか?

結果として「本能寺の変」は
日本における宗教戦争という性格を持ち
しかも、ただ一度の小規模な戦闘で、その帰趨が決まってしまいました
日本の伝統宗教は勝ち、キリスト教は敗退したのでした

戦国時代における日本へのキリスト教布教は
「本能寺の変」から急激に衰退の道を歩み始め、事実上、消滅します
最後のとどめは「天草の乱」でした

西洋による日本植民地化計画も、同時に挫折しました
日本は独立を保ち、太平の世を開き、300年の平和を実現しました
その間、明治になるまで、キリスト教は許されませんでした

昭和の戦争で負け、独立を失い
占領軍による大々的なキリスト教布教がありましたが
やはり、日本人の多くは、キリスト教を受け入れていません・・・


コメント (3)
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