湘南徒然草

湘南に生まれ、育ち、この土地を愛し、家庭を持ち、子育てに追われ、重税に耐える一人の男の呟き。

ニクソンショックとオイルショックは連動していた

2021-08-31 13:07:50 | Weblog
今年はニクソンショックから50周年だそうです
早いものです
当時、私はまだ中学生でしたけれど
それまで1ドル360円という固定相場は、よく知っていましたし
ドルの「兌換性」の意味も知っていました
この後、何が起きるのかは分かりませんでしたが
大きな経済的社会的変化であることは理解できました

その後、当時の大蔵大臣だった竹下登が
「兌換性」の意味すら知らなかったということを
本人が恥ずかしげも無く話しているのを見て、驚きあきれました
正直は結構ですが、昔話として、気楽に話しているのを見て
竹下登本人と、そんな人間でも大蔵大臣になれる日本の政治システムに
私が、大きな疑問と軽蔑心を抱きました

最近の新聞や雑誌には、いくつか特集記事が出ていました
それらを集めて調べたわけではありませんが
ニクソンショックとオイルショックの関連性について論じたものを見受けません
当時の大蔵官僚であった藤井裕久氏の回想にもありません
私はこれに不思議な感じを受けます
オイルショックもまた、あの時代の大きな衝撃でした
急激な石油価格の高騰により狂乱物価が起き
高校生の私にも、ノートの値段が3倍になるというような
直接的な、大きな影響があったのです

私には、ニクソンショックとオイルショックは一続きの現象です
当時は、さすがにそこまで頭が回りませんでしたが、今なら分かります
米ドルが金との交換をやめたので、米ドルを大量に貯め込んだ石油輸出国は腹を立て
原油価格の大幅な値上げに踏み切ったわけです
その前に、ドゴール大統領のフランスが、軍用機を使い
大量の金をアメリカから運び去ったことが
ニクソンショックの切っ掛けであったと、この度、田村秀夫氏のエッセイで知りました

時が過ぎ、冷静になれば普通に理解できることが
いまだに、人々の共通理解になっていないことを、私は痛感します
今、世間が大騒ぎしていることの真相を
人々は、いつ理解するでしょうか・・・
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ビル火災事故に伴う責任について

2021-08-30 20:25:06 | Weblog
ちょうど20年前の9月1日
新宿で、悲しい事故がありました
事故というより、火災というべきかもしれません
歌舞伎町の雑居ビルから出火し、44人が亡くなりました
私としても、不動産管理業に携わる者として、忘れられない火災です

火災の原因は放火とみられています
しかし、犯人は分からず、原因さえ特定されていません
ビルの実質的オーナーに対し
東京地裁は執行猶予付き有罪判決を言い渡しています

この雑居ビルは、火災発生前に
東京消防庁から数々の消防法違反を指摘されていました
しかし改善されることなく、大半が放置状態でした
消防法が守られていれば、このような大惨事にはならなかったのです

私が気になるのは、ビルオーナーが罰せられたことです
オーナーが自分の持ち物を避難通路に置いていたのでしょうか?
もし、そうでないなら、この判決は間違いです

いくらビルオーナーとはいえ
自分のビルの通路に置いてあるからと言って
他人の持ち物を勝手に処分することは出来ません
オーナーに出来ることは
せいぜい、放置物に紙を貼り、撤去を要請することくらいです
それでも、どうにもならないと、手の打ちようがありません

もし、オーナーの責任を問うなら
オーナーに強制権を与えるべきです
しかも、無警告に放置物を撤去する権限です
警告が即実行されなければ、その間に火災が発生する危険があるからです
また、オーナーがすぐに行動しない場合は
消防署が強制執行すべきです
パトカーが違反車を見つ次第停車を命じるのと同じことです

この事件の法的な問題を整理すれば、最大の加害者は放火犯です
被害を大きくした件については、通路にモノを置いた人間も加害者です
その通路の管理はオーナーの権限に属します
フロアーの賃借人といえども、通路を物置代わりにする権利は無いからです
仮に、オーナーが承諾を与えていたとしても、消防法違反なのです
友達からスピード違反してもいいと言われてクルマを借りても
実際にスピード違反をすれば、運転者の責任です

実は、一番の加害者は消防署なのかもしれません
違反状態が明らかになった時点で、即、強制執行すればよかったのです
それをしなかったから、悲惨な火災が起き、多くの人命が失われたのです
スピード違反のクルマを発見すれば、警察は停止させます
もし、スピード違反のクルマを、警察が警告するだけで、そのまま走らせて
そのクルマが事故を起こしたら、警察の責任はどうなりますか?

どうしてもオーナーに責任を負わせたいなら
オーナーに絶対の権限を与えなければいけません
そして、仮に、それが出来たとしても
責任の第一は、やはり、そこにモノを置いた人間なのです
オーナーといえども、四六時中監視しているわけにはいかないからです
さらに、必ず消防署の責任も問うようにすべきです

ただし、消防法を厳しくすることには、私は反対です
現状でも、厳しいからこそ
消防法を守ってさえいれば、悲惨な火災事故のほとんどは防げるのです
むしろ、時代遅れの消防法のために
消火活動をしやすくする建物を作らねばならず
結果として、セキュリティーに問題のある建物になってしまうことがあるのです
現代の悲惨な火災多くは放火なのですよ・・・




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徐福は計画的日本移住だった・・・歴史の考察

2021-08-29 17:21:43 | Weblog
徐福は、秦の始皇帝の命により
不老不死の霊薬を求めて日本に渡ったが、戻らなかった
・・・と、歴史書には記されていますが
本当は、計画的日本移住だったと、私は思います

徐福は3000人の童男童女を連れて行ったと伝えられています
そのことが、このミッションが、薬探しの旅などではなく
計画的な移住植民計画であったことを示しています
財宝財産、百工、五穀の種を持参したというのですから、間違いありません

さらに、後の時代の中国の史書には
その後の徐福のエピソードとして、日本に住み着いたことも記されています
つまり、徐福は、始皇帝の命令で、計画的に日本移民を実行し
その後も、中国本土と連絡を取り続けたということです

なぜ、始皇帝は徐福に、そのような命令を出したのでしょう?
おそらく、自分達一族の安住の地を、日本に開きたかったのでしょう
日本が良いところであることは、当時の中国で、すでに知られていました
移住を決意する以上、かなりの情報を得ていたはずです

そして
日本側にも、受け入れ体制があった可能性が考えられます
日本側に連絡無く、このような多人数で来日したら
戦闘に巻き込まれる危険性があります
そうであるならば、兵士とともに、軍団で来日したはずです

徐福は山東省の人です
シナ大陸の東端で、日本に関する情報を十分得ていたはずです
そして、おそらく、始皇帝の一族だったでしょう
始皇帝が、アカの他人に、その様な命令を出す理由がありませんし
徐福が戻らなくとも、始皇帝が激怒したり
追求の使者を送り込んだ形跡はありません

そして、やはり
始皇帝も徐福も、ユダヤ人だったのでしょう
田中英道先生によれば

「光は東方より」

の信仰によって
彼らは、東へ東へと移住してきたというのです
当然ながら、シナ大陸であれば山東ということになります

そして、その地のユダヤ人達は
はるか海の向こうの日本を知り、その情報を集めながら
いつの日にか、日本に移住しようと
チャンスを待ち望んでいたのです



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徐福以来続いたユダヤ人の来日・・・歴史の考察

2021-08-28 17:51:19 | Weblog
私は、田中英道先生の著書により
前方後円墳から出土した埴輪にユダヤ人を象ったものがあり
古代の日本に渡来して帰化した人々は
従来考えられていた、中国人や朝鮮人ではなく
ユダヤ人であったという説を知りました

大変興味深く、古墳時代への興味が湧きました
しかしながら、私の知識が乏しく
そこから先に、なかなか進めないでいます
ただ、それでも考え続けている内に
前方後円墳自体が大陸の影響のある工事であり
それを伝えた人々がユダヤ人であると考えるようになりました

そのユダヤ人達は、いつ、日本に来たのでしょう?
古い記録では、秦の始皇帝が日本に送り込んだ徐福がいます
日本各地に徐福の伝説の残る地があり
その中には秦時代の貨幣もあるということですから
徐福が来日したことは間違い無いでしょう

しかも、多くの人を引き連れて来日し
中国には戻らなかったのですから、徐福は日本に帰化したのです
連れてきた人々は各地に定住したことでしょう
徐福伝説が各地に残るのは
徐福だけではなく、彼の連れてきた人々が
日本各地に広がり、定住したという事情もあるはずです

徐福が日本に来たのは弥生時代です
当時は、まだ日本には、前方後円墳は無いと思います
したがって、日本に前方後円墳の工事の指導をしたユダヤ人達は
もっと後の時代に来日した人々です
徐福来日の数百年後になるでしょうか・・・

古代日本で活躍した帰化人といえば、秦氏がいます
秦氏は、秦の始皇帝の子孫と伝えられています
始皇帝はユダヤ人であったという説がありますから
もしかしたら、徐福以来ずっと
シナ大陸から日本に、ユダヤ人が来日し続けていたのかもしれません
そして、その人々が、何らかの理由により
日本人に、前方後円墳の建設を提案したのです
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ユダヤ人埴輪は兵馬俑だった・・・歴史の考察

2021-08-27 18:47:16 | Weblog
日本の前方後円墳を誰が作ったか?
ユダヤ人埴輪があるのだからユダヤ人であろう
・・・というのは、素直な想像です

しかし、ユダヤ人が、自分達をわざわざ埴輪にして
古墳に埋める意味が、いまひとつ分かりません
古墳の施主が、ユダヤ人埴輪を作って埋めよと命じたと考えるべきでしょう
その施主はユダヤ人だったのでしょうか?
私には、どうも、そのようには思えないのです

ユダヤ人達は、施主であるより、工事請負人や監督であり
彼らの指導の下、実際の工事の労働者は現地の人々だったはずです
施主は現地の首長だったと考えるべきです
関西で始まった前方後円墳ブームは関東に伝搬し
ユダヤ人技術者は関東で厚遇されたのです
だから、関東の前方後円墳からはユダヤ人埴輪が多く出土するのです

ところで、埴輪とは何でしょう?
私は兵馬俑であると考えます
始皇帝の兵馬俑は有名です
同じモノを、前方後円墳にも埋設したのです

関東に招かれたユダヤ人達は
自分達の墳墓のスタイルに近いモノを作りたかったのです
そこで現地の首長に兵馬俑を提案したところ
現地の首長から、それなら、あなた方の姿を象ったモノにして欲しいと頼まれたのです
関東の首長達にしてみれば
わざわざ関東まで来て自分達に指導してくれる
ユダヤ人達は、自慢であり、誇りであり、感謝の気持ちもあったからです

ユダヤ人埴輪のほとんどは戦士像です
その他に馬の埴輪もあります
これは、まったく中国の兵馬俑と同じです
前方後円墳が中国大陸からの渡来人によって作られた証拠となります

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縄文人は意を決して弥生人となった・・・歴史の考察

2021-08-26 19:31:10 | Weblog

日本が縄文時代から弥生時代に移る最大の要因は気候変動です
縄文時代は温暖な気候で、現在より海水面が高く
現在海岸に面した平地の多くは水面下でした

それが、寒冷化とともに、陸地が広がり
海辺から丘陵地に向かい、水田に適した低湿地が出現したのです
寒冷化により、食料調達の困難が生じていた縄文人にとって
本格的な稲作導入による食糧増産は救いの道でした
当然ながら、古墳群のある大阪平野も縄文時代は海の底でした
日本中の海沿いの低地の、ほぼ全てがそうだったのです

ただ、狩猟採取民が、いきなり農耕民族にはなれません
縄文時代には、すでに栽培植物がありました
彼らは純然たる狩猟採集民ではなく、農耕民的な性格も持っていたのです
したがって、条件が整えば
より本格的な農耕民になることに抵抗は少なかったはずです

彼らは、耕作地を広げ、環濠集落を形成しました
これが、弥生時代の始まりです
すでに稲作を知っていた縄文人は、意識的に水田面積を拡大したはずです
したがって、この変化は急激に進んだのです

縄文人達が”意識的に”変化を望んだというのは私の見解です
なぜなら、外部からの影響が考えられない状況で
短期間に、あれほどの大きな変化は理解できないからです
強く意を決しなければならないほど、食糧事情が切迫していたのです

私は、その証拠が、滅亡した南米のタスマニア人ではないかと考えています
タスマニア人には、雪でカマクラや雪だるまを作る文化がありました
すでに寒冷化が進んだ時期の縄文人が
意を決して、村を挙げて南米に移住した・・・というのが私の説です
もし赤道越えに数世代以上を要していたら
日本の雪国の習俗は忘れられたはずだからです

ただし、環濠集落の弥生時代から古墳時代への変化は、大きな飛躍です
これは、内部で独自に起きた革命とは考えにくいので
外部からの影響とみるべきだと思います
まず、あのような巨大な幾何学的土地造成という文化が
それまでの日本にはありません
それに、専門的な戦士という存在も、やはり、ありません
あくまで大陸の影響とみるべきなのです



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巨大古墳を作る土木技術が計画都市としての奈良や京都を作った・・・歴史の考察

2021-08-25 17:29:53 | Weblog

飛鳥時代とか奈良時代と呼ばれる時代は、いかなる意味があったのでしょうか?
飛鳥や奈良に都が置かれたから、そう呼ばれるわけですが
この時代には、より本質的な意味と性格があります
首都が人工的な計画都市だったことです

前方後円墳は、水田の大規模開発にともない
初めから計画的に作られた要塞であるというのが私の説です
実際には、大規模な水田開発に伴う人口増加と専門的な戦闘集団によって
周辺部族からの攻撃を受けることはほとんど無く、要塞としての意味が形骸化し
開発時の王や、その一族の墓となったわけです

大規模な水田開発には高度な土木技術が必要です
水田は、平らに見えても、必ず勾配があり、給排水が出来るようになっています
大規模開発であればあるほど、精密な測量や綿密な計画が必要です
それが出来る技術者集団がいなければ、大規模水田開発は不可能なのです

大阪湾に近い平地部分には巨大な前方後円墳が多数存在します
これら古墳群を作った技術者集団なら、難波宮を作ることなど造作もなかったはずです
この時代の本質を解く鍵は高度な土木技術なのです
やがて、舞台は奈良京都へ移り、平城京平安京となったわけです
そこが千年を超える天皇の都となったわけですから
日本国の基礎を作ったことにもなり
古墳時代から、天皇が日本の中心に位置していたことの証拠でもあります

ところで、その高度な土木技術の持ち主は誰だったでしょう?
それが大陸から渡来したユダヤ人達だったのです!
千葉や茨城辺りにいた当時の人々は
自分達のために大規模な水田を開発してくれたユダヤ人達に感謝を込め
彼らを象った埴輪を前方後円墳に埋設したのです
それには、感謝だけではなく、守り神として意味もあったのでしょう・・・



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前方後円墳は当初は要塞だった・・・歴史の考察

2021-08-24 19:12:00 | Weblog

古墳時代について、日本史では謎が多いそうです
こちらは、無知なものですから、何がどう謎なのか分かりません
ただ、私は、昔から、前方後円墳については疑問がありました

どう考えても不合理だと思うのは
水田として貴重な平地に、あんな馬鹿でかい墓を作ることの不合理性です
どうせ墓を作るなら
農耕に適さない山の上にでも作ればいいではありませんか!

しかも
あんな馬鹿でかいものを
どう見ても、作るのに何年もかかるわけです
自分が生きているうちに作り始めなければ
埋葬に間に合わないではありませんか!

さらに
あんな馬鹿でかいものを、田圃の中に作るのは
作業用の道や作業スペースまで用意しなければならず
それを元に戻すだけでも大変で
しかも、その間、何年も農業生産に支障を来すのです
一般民衆が、そんな馬鹿な政策を受け入れるでしょうか?

ところが
これら疑問が全て氷解する答えが
突如、私の頭にひらめいたのです!
深夜、前方後円墳の形を思い浮かべていると、気がつきました
土を盛り上げて山を作り、周囲に堀を巡らす・・・要塞ではないか!

あれは、もともと要塞だったのです
外敵が攻めてきた時に戦うための要塞です
墓にする前は、物見櫓や食料層倉庫が作られていたはずです
日本で、高く土を盛り上げ、周囲に堀を巡らすのは城です
前方後円墳は、弥生時代の環濠集落の大規模化と、要塞化だったのです

稲作農業の時代に入りますと
保存食料を狙って敵に襲撃される危険が出てきます
それで、物見櫓や濠を備えた環濠集落が発生したのです
櫓と言う言葉に「矢倉」という字を当てれば、より意味が明確になります

前方後円墳を作った人々は高度な土木技術を持っていました
一体、彼らはいつ、その技術を身に付けたのでしょう?
明らかに、環濠集落とは、目的は同じでも、文化と技術の断絶があります・・・

実は前方後円墳が多いのは千葉県や茨城県なのです
そして、この地域の前方後円墳からは
ユダヤ人を象った埴輪が出土するのです
前方後円墳とユダヤ人との間に、深い関係があると観るべきです

あの時代、高度な土木技術を持ったユダヤ人が日本に来て
前方後円墳を作ったと考えたら、どうでしょう?
彼らは、その技術を使って、大規模な水田開発をし
初めから、要塞として、前方後円墳を計画的作ったのです
それがやがて、その新田開発をした時の首長の墓となったのです
その水田の守り神として、埋葬されたのでしょう

前方後円墳から出土するユダヤ人埴輪の多くは戦士埴輪です
まさに、そこが要塞として作られた来歴を示しています
最初にこの形式の要塞を作った頃は、要塞としての意味はあったと思います
ところが、耕作地の拡大ととも人口が増え
しかも、進んだ戦闘技術も持つユダヤ人戦士団を持つ村に
戦いを挑む周辺部族はいなくなり、むしろ、交易等により共存が進みました
前方後円墳の要塞としての性格は形骸化していきました

新田開発をする度に前方後円墳を作ることは儀式化し
その時代の首長が亡くなるとそこに埋葬するという習慣が定着しました
この時代に、日本の農耕社会は飛躍的に発展したのです
そのことが、飛鳥時代、奈良時代への、時代の扉を開いたのでした





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法要の道具として”上縁四突起側面反復文様土器”があった・・・歴史の考察

2021-08-23 19:13:47 | Weblog

火焔土器の話を続けます
火焔土器の上縁には四つの突起があります
この突起は、四つとも同じ形です
側面の文様も、この四つの突起に合わせて
同じ文様が土器側面に沿って4回繰り返されます

岡本太郎は火焔土器の自由奔放な表現を現代芸術に通じる表現と言いました
実際には、自由奔放に見えても、厳しい形式に則っているわけです
ターンテーブルにのせて回転させ、横から眺めれば
1回転の内に、同じ文様が4回繰り返されるわけです
土器を固定し、周囲を1周回っても同じことです

そこで、私は火焔土器のことを

”上縁四突起側面反復文様土器”

と名付けたいのですが、問題があります
そうした形式を持つ同時代の土器が他にもあるからです
山梨県や北関東から出土する深鉢式土器と呼ばれるものに
火焔土器と共通する、この形式のものがあるのです
ただし、大きさと形状はかなり異なりますが
同じ意味と用途があったと推定できます

縄文土器が生命を象徴する造形なら
当然ながら、側面の文様には、その意味があるはずです
縄文時代中期、本州中部山岳地帯に共通する文化があったのです
反復文様から想像される生命観といえば「輪廻転生」です
人は死しても、また生まれ変わるという思想です
それが縄文人の生命観だったのです

では四つの炎は何を意味しているのでしょう
これは埋葬までの間、遺体を野生動物の襲撃から守る4つの炎を意味します
遺体の回りに4つの火を焚いて、夜通し絶やさず、見張りをし
野生動物を寄せ付けないためです
おそらく、死臭を消すため香も焚いたことでしょう
これが現代まで残る”通夜”の原型です

私は”上縁四突起側面反復文様土器”は模擬葬儀に使われたと考えます
縄文人の生命観を表し、埋葬の儀式をなぞるのです
当代の名工に時間をかけて作らせていますから
当然ながら、葬儀には間に合いません
早くとも四十九日法要、遅ければ一周忌法要に使ったのでしょう
4つの突起は紐が通せるようになっています
ここに紐を通し、土中に下ろしたのです

縄文人は、遺体を横にし、折りたたんで埋葬しました
遺体を筵のようなもに挟んで四隅に縄を通して墓穴に下ろしたのでしょう
法要の時に、その模擬行為をして、土器を地中に納めたのです
縄文人にとって、4という数字は葬儀を象徴する数字であり、死を連想させる数字でした
その文化が現代まで残り、日本人は4という数字を忌み嫌うのです

ただし、四方とか四季というように
自然と大地の原理を象徴する数字も4です
縄文人にとっては、4は特別な数字でもあったのです

付け加えるならば
法要をするのは、周辺の地域から葬儀に集まるのに時間がかかるためです
遺体の腐敗を避けるため、村人だけで埋葬を済ませ
後で大々的な法要をする必要があったからです

上延四突起側面反復文様土器を使って法要を営まれる人は、どういう人だったか?
普通の村人ではなく、国王級の人だったのです
だからこそ、当代の名工が腕によりをかけた作品を残したのです
そういう文化が縄文中期本州中央部山岳地帯にあったのです

さらに付け加えるなら
側面を回転しながら反復文様を眺めるのは法要参列者です
日本の伝統的葬儀では”葬式回り”と言って、参列者が棺の回りを回ります
その疑似行為を、法要参加者は、この土器の周囲をまわることで、していたのです



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火焔土器は生命を象徴する造形であり「水紋火焔土器」と呼ぶのは相応しい・・・歴史の考察

2021-08-22 15:07:12 | Weblog

縄文土器の中でも特に有名な火焔土器について
私は独自の解釈を持っています
以前にも、このブログで発表しています
それに付け加えたいことがあるので
今回、また、火焔土器について論じます

まず、その形です
炎に見えるから火焔土器と呼ばれているわけですが
私の尊敬する東北大学名教授の田中英道先生は
火焔ではなく水紋であると主張されています
そう言われてみれば、火焔よりも水紋に見えてきます

先生の主張の根拠は形だけでなく、出土地域も考慮しています
信濃川流域から出土している事実を指摘しているのです
私は現地を知りませんが
山岳地帯で、谷川の水の流れを日常的に観られる地域でしょう
そうであれば、水紋を造形するのは自然です

ただ、そうは言っても
火焔土器の全体像から受ける印象は水紋ではなく火焔です
水も噴水のように噴き上げることはありますが
普通は、上から下に流れるものです
下から上に吹き上げ広がるのは火焔です

そこで私は、これは炎と水を合成した造形であると考えました
火焔土器でもなく水紋土器でもなく、あえて言えば「水紋火焔土器」なのです
なんだか、ただの折衷案の様な感じですが違います
私には、そう考える根拠があるのです

ここで生命について考えてみます
人間の体は、多くの水分で成り立っています
人間の肉体を構成する物質の内、最大の要素が水です
生命体の多くは、人体に限らず、水が重要な構成要素です
つまり、生命は水で出来ているのです

大部分の生物は、動物植物を問わず、水と有機物で出来ています
水を蒸発させた後の生物は、有機物だけが残ります
縄文人達は、保存食品を作る過程で、そのことは良く承知していたはずです
そして有機物は、火を付けると燃えて消えてしまいます
炭酸ガスや煙になって空中に消えてしまうのです

つまり
生命は水と火で出来ているのです
それは、縄文人にとって、経験的真実だったのです
すなわち、火と水を象徴する造形こそ生命を象徴する造形だったのです
火焔土器は生命を象徴する造形であり
その形象から名を付けるとするならば「水紋火焔土器」とするのが正しいのです

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