29日
午前 畑 トウモロコシに烏・アナグマよけのネットを張っていたとき、10時半ごろだったか、ちょいと頭を上げると天空南東・平城宮跡のあたりの青空の一部分が青・紫・赤・黄と虹色に美しく彩られていた。人生で初めてみる光景だった。 よくみると薄い一固まりの雲全体が青空の中に美しく輝いているのである。 急いで畑の近所の奥さん、歴史の道を歩く人にも教えてあげた。 みんな感嘆の声をだしていた。 禎々さんにも知らせてあげたらよかったのにと後から思った次第。
しばらくして段々に薄れていき、消えてしまって、全天青空になってしまった。5・6分ぐらいの出来事でなかったのか。
『続日本紀』大宝4年(704)5月10日の条に「備前国が神馬を献上した。宮中の西楼の上に慶雲があらわれた。そのため詔を下して、全国に大赦を行ない、元号を慶雲元年とした。そして未納の大税、神馬を出した郡のその年の調を免除した。 文武百官に、身分に応じて禄を賜わった。 神馬を献上した備前国守で正5位下の猪名真人石前には位を一階進め、最初に慶雲を発見した式部少丞で従7位上の小野朝臣馬養には、位を3階進め、それぞれに絁(あしぎぬ)10疋、絹糸20絇、麻布30端、鍬40口を賜わった」とある。
元号を代えるほど珍しく、めでたいことで、 平城遷都の6年前の藤原宮でのこと、この年は3月に疫病が流行り、4月末に備中・備後・安芸・阿波の稲の苗が被害を受けたので、それぞれに物資を恵み与えたとある。
これは旧暦の5月10日、丁度いまごろ、今年の口てい疫の流行、寒さと天候不順は、その年と共通するもがあるかも。
それから63年後の天平神護3年8月8日に「参河国が祥瑞の景雲が現れたと言上した。僧600人を集めて、西宮の寝殿において僧達に食事を給した。景雲が現れたからである。この日僧侶の振る舞いは仏門にある者のようでなく、手を拍って歓喜すること俗人とまったく変わらなかった」そして、「8月16日に神護景雲と改元した」とある。
奈良時代に全国で2回だけ、こんな改元に連なるめでたいことを発見した私にも、何かいいことがあればよいが。 まいる
午前 畑 トウモロコシに烏・アナグマよけのネットを張っていたとき、10時半ごろだったか、ちょいと頭を上げると天空南東・平城宮跡のあたりの青空の一部分が青・紫・赤・黄と虹色に美しく彩られていた。人生で初めてみる光景だった。 よくみると薄い一固まりの雲全体が青空の中に美しく輝いているのである。 急いで畑の近所の奥さん、歴史の道を歩く人にも教えてあげた。 みんな感嘆の声をだしていた。 禎々さんにも知らせてあげたらよかったのにと後から思った次第。
しばらくして段々に薄れていき、消えてしまって、全天青空になってしまった。5・6分ぐらいの出来事でなかったのか。
『続日本紀』大宝4年(704)5月10日の条に「備前国が神馬を献上した。宮中の西楼の上に慶雲があらわれた。そのため詔を下して、全国に大赦を行ない、元号を慶雲元年とした。そして未納の大税、神馬を出した郡のその年の調を免除した。 文武百官に、身分に応じて禄を賜わった。 神馬を献上した備前国守で正5位下の猪名真人石前には位を一階進め、最初に慶雲を発見した式部少丞で従7位上の小野朝臣馬養には、位を3階進め、それぞれに絁(あしぎぬ)10疋、絹糸20絇、麻布30端、鍬40口を賜わった」とある。
元号を代えるほど珍しく、めでたいことで、 平城遷都の6年前の藤原宮でのこと、この年は3月に疫病が流行り、4月末に備中・備後・安芸・阿波の稲の苗が被害を受けたので、それぞれに物資を恵み与えたとある。
これは旧暦の5月10日、丁度いまごろ、今年の口てい疫の流行、寒さと天候不順は、その年と共通するもがあるかも。
それから63年後の天平神護3年8月8日に「参河国が祥瑞の景雲が現れたと言上した。僧600人を集めて、西宮の寝殿において僧達に食事を給した。景雲が現れたからである。この日僧侶の振る舞いは仏門にある者のようでなく、手を拍って歓喜すること俗人とまったく変わらなかった」そして、「8月16日に神護景雲と改元した」とある。
奈良時代に全国で2回だけ、こんな改元に連なるめでたいことを発見した私にも、何かいいことがあればよいが。 まいる