澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

朝鮮高校に寄り添うTBS・金平茂紀の「報道特集」

2016年01月30日 19時01分11秒 | マスメディア

 さきほど、放送されたTBS系「報道特集」には心底驚いた。「甘利」辞任のニュースのあと、ラグビーの話題なのかと思ったら、北朝鮮系の東京朝鮮中高学校(高等部)が花園大会出場したのにかこつけて、全編30分もの間、朝鮮学校、在日朝鮮人の立場を代弁するかのような番組だった。

 昨日、防衛相が「破壊措置命令」を発動して、市ヶ谷の防衛省敷地内に迎撃ミサイル「PAC3」が配備された。いわば非常時の防衛態勢が取られている中で、朝鮮学校や在日朝鮮人の立場を代弁しているとしか思えない「特集」を公然と放送するのだから、TBSは北朝鮮擁護の”確信犯”と言われても仕方ないだろう。公共電波を使うTV報道に求められる中立性を逸脱する偏向報道であることは疑いない。

 この番組を取り仕切るのは金平茂紀。「筑紫哲也News23」の時代から、TBSの報道現場を牛耳り、いまやTBSの執行役員にまで上り詰めている。

 偏向報道モンスター・金平茂紀

 伝え聞くところによれば、この金平茂紀は、在日朝鮮人(現在は、日本国籍を取得)だったという。日本の教育制度は公平だから、在日外国人だからという理由で、国立大学の入試が不利になることはない。金平は「秀才」だったのだろう、東京大学文学部卒という学歴を手にしている。官僚的(学歴優先)であるとともに、「進歩派」を気取るというTBSの組織風土が、金平を今のモンスターにまで育て上げたと言っていいだろう。

 北朝鮮のミサイルが日本全土を射程に置き、防衛相が「破壊措置命令」を出しているさなかに、北朝鮮式の「民族教育」を受けている朝鮮高校の生徒たちを理解せよ、立場の違いは相互理解で解決と宣う、この番組。たとえ「お花畑」の妄言だとしても、TPO(時と場合)をわきまえる分別さえないのだろうか。

 金平茂紀に言っておきたいのは、ネトウヨでも右翼でもない、ただのオッサンの私でさえ、この番組には激しい憤りを覚えたという事実だ。何も言わない「大衆」を愚民扱いして、世論誘導で騙せると思う、金平のこの傲慢。在日という出自の彼は、何としてでも日本人をナショナリズムに目覚めさせないという「使命」を実践しているのだろうが、「大衆」をいつまでも騙し通せるはずはない。
 今日の放送は、何人もの日本人に「真っ当なナショナリズム」の必要性を痛感させたはずだ。

 

 

 

 

 


「天皇フィリピン訪問」の違和感

2016年01月27日 07時47分35秒 | マスメディア

 天皇陛下ご夫妻がフィリピンをご訪問中。

 NHKニュースは、「天皇陛下は、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました」としたうえで、「私どもは、このことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と伝えている。
 一方、「週刊朝日」で
保坂正康(評論家)は、フィリピン戦線の歴史を説明したうえで「天皇と皇后が、今なおそのことを考え続けて追悼と慰霊を続けていることに、私たちは改めて思いを深める必要がある」と結んでいる。(いずれも下記参照)

 天皇による追悼と慰霊について「私たちは改めて思いを深める必要がある」とお説教されても、私などは困惑してしまうだけだが、この保阪氏の言葉は、立場によって解釈も多様だろうと思う。天皇陛下の平和に対する思いに感動する人から、昭和天皇の戦争責任を追及する立場からは、大いなる違和感を感じる人もいるはずだ。

 今上天皇は、父親である昭和天皇が歴史上果たした役割・責任をどれほど自覚しているのだろうか。そこがわからなければ、慰霊のお言葉もそのとおりには伝わらない。要は、昭和天皇の戦争責任が不問にされたことによって、日本人全体が「触れてはいけないタブー」を抱え込んでしまった。戦後ある時期から、日本人は、思いもかけない経済的繁栄と引き換えに、この菊のタブーに触れることを避けるようになった。少なくとも、木戸幸一や中曽根康弘という二人の首相経験者が言ったように、「東京裁判後、天皇が退位」していたならば、それなりの戦争責任をとったことになり、今回のような違和感は感じなかったのだろう。

 天皇訪問を伝えるフィリピンのニュースは、「天皇(Emperor)との会談では、慰安婦(comfort women)問題は採り上げられなかった。これは政府間の問題だから」とわざわざ付け加えていた。さすがにフィリピンは「Sex Slaves」とは言わなかったが…。このように今回の天皇訪問は、手放しで天皇の「お心」を賞賛するだけの日本の報道だけでは分からない、多くの問題を抱えているように思われる。

 もうひとつ、これはたまたまの偶然だと思いたいが、「安保法制」の騒ぎの直後に、天皇が過去の戦争、特にマニラ市街戦を採りあげて、慰霊し、謝罪するかのような発言は、たとえそれが「政治的発言」ではないにしても、日本のマスメディアによって「安保法制」反対の材料として使われかねない危惧を覚える。もしそうなれば、これはまさに「政治的な」発言となってしまうのだ。

 「軍部の独走」が無謀な戦争を引き起こし、「敗戦国」となったとされる日本。だが、その「軍部」の最高責任者である大元帥は、昭和天皇だった。その息子が同じ天皇(Emperor)として「マニラ市街戦」を語るのは、見方によっては、フィリピン人に対してあまりに無神経であり、「高め目線」ではないか。戦争責任という根源的な問題を避けて、見て見ぬふりをしてきたこの70年間…。なんでまた、いま、こんなことを…と思うのは、私だけか。

 


天皇、皇后両陛下、54年ぶりのフィリピン訪問 戦没者を悼む現地の日程は

天皇陛下は、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました」としたうえで、「私どもは、このことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と話されました。

天皇陛下 フィリピン訪問出発前におことば NHKニュースより 2016/10/50)
 
 

■両陛下、フィリピン訪問の日程

訪問は、皇太子ご夫妻時代の1962年以来、54年ぶりとなる。国交正常化60年を迎えて友好親善を目的に、国賓として招待されたが、太平洋戦争の激戦地への慰霊の旅となる。

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皇太子夫妻時代のフィリピン訪問で、マニラに到着された天皇、皇后両陛下。右はマカパガル大統領(当時)夫妻=1962年11月05日(c)時事通信社

両陛下は27日にフィリピン人の戦没者を悼む「無名戦士の墓」を訪れ、夜にアキノ大統領主催の晩餐会に出席する。29日は日本人戦没者を悼む「比島戦没者の碑」に供花し、30日に帰国する予定だ。主な日程は以下の通り。

26日午前 政府専用機で羽田空港発
   午後 マニラ着。青年海外協力隊員と懇談
27日午前 マラカニアン宮殿で歓迎式典。アキノ大統領と会見。リサール記念碑に供花
   午後 英雄墓地で供花。フィリピン側戦没者を慰霊
    夜 大統領主催の晩さん会
28日午前 フィリピン人元留学生、日系人、在留邦人らと懇談
   午後 フィリピン人看護師候補者らが学ぶ語学研修センター訪問
    夜 日本大使夫妻主催レセプション
29日午前 カリラヤへ。日本政府建立の「比島戦没者の碑」で供花
   午後 ロスバニョス着。国際稲研究所を視察後、マニラへ
30日午前 政府専用機でマニラ発
   午後 羽田空港着
(2016/01/26-05:41)

時事ドットコム:両陛下の主な日程(現地時間)より 2016/01/24 19:01 )
 
 

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天皇、皇后両陛下を歓迎するために掲げられた横断幕=2016年1月25日、フィリピン・マニラ (c)時事通信社

■太平洋戦争の激戦地となったフィリピン

フィリピンには、ルソン島やレイテ島など太平洋戦争で日米が激しい戦闘を行った場所が多くある。毎日新聞によれば、同国での日本人戦没者は51万8000人。戦闘に巻き込まれて亡くなったフィリピン人は100万人を超えるとされる。

1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の直後にアメリカの植民地だったフィリピンを攻撃し、翌年1月に首都マニラを占領。フィリピンを軍政下に置いた。米軍は44年10月に上陸作戦を開始。フィリピン人抗日ゲリラの抵抗もあり、日本軍は壊滅状態となった。51万8000人の日本人が亡くなり、フィリピン人の死者は100万人を超えるとされる。52年から戦後賠償の交渉が始まり、56年に賠償協定が発効。国交を回復した。

皇室:両陛下、きょうフィリピン訪問 友好、未来へつなげ 戦死の父、足跡追い 現地で進学支援 - 毎日新聞より 2016/01/26)

 

 

フィリピン決戦の悲劇 天皇、皇后両陛下が戦没者慰霊へ

 天皇、皇后両陛下が1月26~30日にフィリピンを訪問し、先の大戦で犠牲になった日比両国の戦没者を慰霊する。50万人の日本兵、100万人のフィリピン人が亡くなったとされる「比島決戦」とは何だったのか。ノンフィクション作家の保阪正康氏がその真相に迫った。

*  *  *
 太平洋戦争はおよそ3年8カ月続いたが、その間日本軍将兵の戦死者はどれほどになるのか。明確な数字はだされていない。なにしろ終戦直後に、日本の軍事・政治指導者たちは史料や文書を焼いてしまったからだ。

 自らの責任を回避するために、一切の記録を無にしてしまうという行為は、歴史に対する背信行為といっていいであろう。太平洋戦争の解明に手間どるのは、こうした暴挙のためといっていい。

 それでも厚生省(現・厚生労働省)が各種の調査を行って「地域別戦没日本人数」をまとめ、昭和51(1976)年にひとまずの数字を公表している。フィリピン(比島)戦では実に51万8千人が戦死している。個別の地域ではもっとも多い(中国本土、旧満州などを加えて「中国戦線」とみれば70万人となり、フィリピンより多い)。

 これだけの日本軍将兵が戦死したわけだから、中国・東南アジア各国で犠牲になった民間人は1千万単位になるというのも容易にうなずける。とくに比島戦では10カ月の戦いで100万人近くの犠牲者が出たといわれている。戦後のある時期はフィリピンの対日感情が極端なまでに悪化していたことはよく知られている。

 一口に比島戦といっても、この戦いは二つの局面から成り立っている。一つは昭和16(1941)年12月8日の開戦と同時に、日本は比島の攻略作戦を進めた。この中心にいたのは第14軍(司令官は本間雅晴)で、ルソン島やミンダナオ島などを空襲する一方で、主力部隊はマニラを目ざし、17年1月2日にはこの地を制圧している。

 米極東軍司令官のD・マッカーサーとその幕僚たちは、マニラからオーストラリアに脱出し、そこで指揮をとっている。

 開戦当初、日本軍は破竹の勢いで進み、バターン半島で抵抗を続ける米国を中心とする連合軍を破り、4月にはコレヒドール島で連合国との間で無条件降伏の文書を交わしている。この折、司令官の本間は捕虜の数を2万5千人と想定していたが、実際には7万6千人(J・トーランドの『大日本帝国の興亡』)で、捕虜収容所までの100キロを歩くいわゆる「死の行進」によって2万人近くが餓死・病死したとされている。

 もうひとつの比島戦は、この最初の戦いから2年半後の昭和19年10月20日に、米軍の地上部隊10万人余がレイテ島のタクロバンに上陸した。日本の政府が天王山と位置づけた戦闘でもあった。

 レイテ島に米海軍の輸送艦や支援の艦船など700隻が姿を見せて日本軍に物量の差を見せつけた。この際、マッカーサーは、「フィリピンの人たちよ、私は今帰ってきた」と放送している。

 当時の日本は実際には戦争を続ける国力を失っていた。米軍はこの年7月から8月にはマリアナ諸島を次々と制圧して、日本本土への爆撃も容易になっていた。日本軍は辛うじて態勢を立て直し、「捷号作戦」で対抗しようと考えていた。捷1号作戦とはまさに比島方面の防御にあった。しかしそうした作戦には物量が伴っておらず、計画だけが空回りしていた。そこで考えられたのが、神風特別攻撃隊に代表される特攻作戦だったのである。

 米軍のレイテ上陸直前に、大本営はこの捷1号作戦を発動した。これを受けて日本海軍は10月22日からレイテ沖海戦を企図して動き始めた。劣勢だった日本海軍は、囮(おとり)役の艦隊が米機動部隊の攻撃を受けている間に主要艦船がレイテ湾に突入し、米軍の残存艦艇や地上部隊を叩くという案を採用した。こうした判断は、10月10日からの台湾沖航空戦で、日本軍の800機が米海軍の空母11隻を撃沈、8隻を大破し、多数の艦艇を沈めたとの「戦果」に基づいていた。しかしこれはまったくの誤報で、米艦艇は無傷だったのである。

 比島防衛戦は、こうした錯誤のもとで戦われたがゆえに悲劇的であった。レイテ沖海戦は台湾沖航空戦での米軍の残存部隊がレイテ湾に逃げ込んできたとの想定のもとで行われ、無残な形で敗れている。

 当初、大本営はルソン島での決戦を考えていて、レイテ島には1個師(約2万人)しか置いていなかった。レイテ島に上陸した米軍地上部隊は敗残部隊だからと、レイテに急きょ増派してその部隊を壊滅することを考えたのである。ところが海からの増派部隊は米軍機に叩かれ、やっと7万5千人の将兵が辿りついた。しかし武器弾薬もなく、食糧も不足してすぐに苦戦する状態になっている。

 レイテ島の戦いは大岡昇平の『レイテ戦記』に詳しい。兵士たちは戦闘よりも次々と餓死・病死している。輸送船が沈められたこともあり、レイテ戦での日本軍の戦死者は10万人近くに及んでいる。

 米軍の精鋭部隊は、次いでミンドロ島に上陸、そしてルソン島を目ざしている。第14軍の司令官に就任した山下奉文と参謀長の武藤章は、ルソン決戦を目ざし、自活自戦・永久抗戦の態勢を確立して決戦という案を考えた。昭和20年1月9日、米軍は20万人ほどの大軍でルソン島に上陸している。このとき日本軍には「尚武」「振武」「建武」の三つの集団があり、その兵力は29万人に達していた。兵員は米軍を上回っていたにせよ、その装備は比較にならないほど劣悪な状態であった。武藤の回想録『比島から巣鴨へ』は、この上陸時にも「我が勇敢なる漁撈隊(爆弾を載せた小舟艇で肉薄攻撃する特別部隊)は九日夜襲撃したらしい。敵船団は一斉に点燈して右往左往しているとの報告もあった」と書かれている。

 このころ米軍機は、ナパーム弾を用いるようになり、日本軍兵士は陣地にあって逃げまどうのみで、戦闘の体をなさない状態になっていった。

 戦闘はしだいにマニラに及んだ。山下は市街戦を避けるために、マニラをオープン・シティ(非武装都市)にしようと司令部をマニラからルソン島北部のバギオに移している。

 だが一部のマニラ防衛部隊は、この命令とは別に米軍との間で市街戦を行っている。市内のビルを奪いあうような戦いで、マニラはまたたくまに瓦礫の山と化している。20日間に及ぶ市街戦で、10万人以上の市民が犠牲になったとされている。2月下旬には、マニラにとどまっていた2万人近くの日本兵が全滅した。

 日本軍兵士は、自活自戦・永久抗戦の命令のもとに、ジャングルに逃げ込んで戦闘の意思を示した。最終的にはルソン島のもっとも高い山であるプログ山一帯の山岳地帯に入っている。食糧自活のために兵士たちは農作業を行っている。その食糧をめぐって日本軍兵士たちの争いも起こった。

 昭和20年8月15日、第14軍司令部のもとにも日本敗戦の報が届いている。山から降りた山下は9月3日に降伏文書に署名した。

 比島戦は戦死者が多かっただけでなく、日本軍の戦争の戦い方がもっとも象徴的にあらわれていた。50万人を超す兵士一人一人の死は、戦闘死・特攻死・病死・餓死・溺死などさまざまであり、その死の意味は重い。

 天皇と皇后が、今なおそのことを考え続けて追悼と慰霊を続けていることに、私たちは改めて思いを深める必要がある。(敬称略)

※週刊朝日  2016年2月5日号


「満洲とは何だったのか」(中見立夫ほか著)

2016年01月24日 08時00分02秒 | 

 「満洲とは何だったのか」(中見立夫編 藤原書店 2004年)を読む。


「満洲とは何だったのか」(中見立夫ほか 藤原書店 写真は新版 2006年)

 八章に渡り、外国人の寄稿も含めた40篇もの論文集なので、全体に統一感がないのは否めない。がしかし、「歴史のなかの”満洲”像」(中見立夫)「”満洲”という地をめぐる歴史」(小峰和夫)などの主要論文を読むと、戦後タブー視されてきた「満洲」のイメージが再認識できる。

 幼い頃の記憶だが、女の子が毬(まり)つきをして遊ぶとき、「満洲の真ん中でかすかに聞こえる豚の声…」という唄をよく歌っていたのを思い出す。意味も知らずに歌っていたに違いないのだが、このように戦後のある時期までは「満洲」は身近にあったと言えるだろう。のちに「王道楽土の交響楽」(岩野裕一著)を読んで知ったのだが、中共(中国共産党)が「満洲国」の歴史をすべて封印し、「偽満洲国」として断罪する歴史観が行き渡ってしまい、「満洲」そのものへの関心さえタブー視されることになった。朝比奈隆が満洲に残した足跡でさえも、今なお公文書では公開されていない。

 もう10年近く前になるが、ツアー旅行で大連、瀋陽に行き、旧満鉄本社、満鉄アジア号を見に行った。そのときも、歴史展示として「日本帝国主義の罪状」がさかんに強調されていた。錆はてたアジア号は、寒風が入り込む、廃屋のような場所に日本人観光客向けに「展示」されていた。


「満洲帝国要図」(上掲書より引用)

 「満洲で日本人はいいこともたくさんした」と宮脇淳子女史の「世界史の中の満洲帝国と日本」には書かれている。南満州鉄道(満鉄)が社会の近代化に果たした役割は否定することはできないのに、中共が「満洲国」を「偽満洲国」として断罪し、その歴史を封印した。これは実は、中共が独自で成し遂げたという「中国革命」の神話を守るためでもあった。大戦終了時、中国大陸で最も近代化が進んだ「先進地域」は「満洲國」だったこと。国共内戦における中共の勝利は、ソ連が満洲経由で中共軍を軍事支援した結果に他ならないこと。だからこそ「中国革命」の神話を作り出し、政権の正統性を主張する中共にとって、満洲そのものが「不都合な真実」であったに違いない。

 さて、肝心の本書の論文だが、見覚えのある名前なので、「”満洲国”の女性作家、梅娘を読む」(岸陽子)、「満洲をめぐる国際関係」(三輪公忠)が目に留まった。

 前者の岸陽子は、中國礼賛学者として有名だった、故・安藤彦太郎の後妻だった人で、中国文学者。夫のような政治性は微塵も出さないものの、梅娘(メイニャン)という女性作家を中心に満洲国の状況を描くという行為が、決して中共に対する批判にならないという点で、かえって親中国派の馬脚を現していると言えるのかもしれない。人権、平和、女性の権利などを普遍的な価値として、満洲国の政治文化状況を批判しておきながら、中共の謀略活動、非人道的行為には何ら言及しないのだから、まさに「進歩的文化人」の典型ではある。

 もうひとつ、三輪公忠の論文にはまたまたあきれ果てた。次をよむだけで、その理由はわかるはずだ。「シベリア出兵時の日米対立から石原莞爾の世界最終戦への布石としての満洲事変」(p.373)の部分だ。

満州事変は、ソ連の軍事的脅威に対する「防衛戦争」の性格を持つものと理解されているが、ハリマンの世界一周鉄道計画に代表されるアメリカ企業家精神と、それを後押しするアメリカ政府のグローバリズムと、日本の地域的利害の衝突としては、満洲からロシアの勢力が後退した後の空白を埋めるのみか、日本を追い落とすほどにアメリカの「努力」を注入しようとしたこの時に、その遠因の一つがしっかりと根を下ろした。」

 この意味が分かる人がいたら、ぜひご教示願いたいと思うほどだ。遺憾ながら、こんな人に教わった学生さんはお気の毒だし、愛弟子もロクな大学の先生にもなれなかったに違いない。本当にうんざりした。

 まあ、この二編は例外的と言っていいだろうが…。満洲のイメージを多角的につかむには、興味深い本だと思った。
 




 

 
 
 

 

 


台湾政治を変えるか、「時代力量」とChthonicの林昶佐

2016年01月20日 21時08分34秒 | 台湾

   おととしの紅白歌合戦だったか、サザンオールスターズの桑田佳祐がチャップリンの独裁者(つまりヒトラー)を真似たのか、ちょび髭姿で歌った。それが安倍首相を独裁者と揶揄しているのではないかと問題になった。桑田が真顔で「平和」を説けば説くほど、滑稽なむなしさを感じる人は多かったはず。所詮、ロック・ミュージシャンの「思想」など、児戯に等しい浅薄なものだと。
 
 先日の台湾総統選・立法院選挙で、新政党「時代力量」から立候補して当選した林昶佐は、ヘビーメタル・バンド「Chthonic(ソニック)」のリードボーカル、Freddyとして有名だ。彼の代表作であるアルバム「高砂軍」の中の一曲「玉砕」(Broken Jade)では、昭和天皇の「玉音放送」が曲中に使われていることからわかるように、Chthonicはサザンのようなチンピラバンドではない。皇軍兵士として太平洋戦争に参加した台湾原住民を採りあげ、「祖国」とは何かをファンに問いかけた。「日本」を題材に使ってはいるものの、それは「親日」「反日」という次元では全くない。「台湾独立」という、その政治主張は明確そのものだ。


Chthonic(ソニック)の林昶佐(左)と葉湘怡(Doris Yeh) ドリス(葉)は「自由チベット」とペイントし、背後には「チベット国」の国旗がある。この二人は、夫婦。

 台湾総統(大統領)および立法院(国会)議員選挙をつぶさに視察した宮家邦彦氏(元外務官僚)は、日本のマスメディアが「高め目線」から台湾の選挙を報道していることに疑問を呈している。国民が自由に選挙権を行使できるようになってからわずか20年余りの台湾を、「なかなかやるじゃないか」という高め目線で見るのは間違いだというのだ。そのひとつは、女性の進出がはるかに顕著だという事実。総統選挙の総統・副総統のペアは、三大政党とも男女の組み合わせだったし、立法院議員113人のうち40人は女性だ。また、「台湾は中国の一部ではない」「台湾は台湾」という台湾人意識の中で生まれた「時代力量」のような政党に、若者たちが積極的に関与しているという事実。これらは、政治意識、政治参加の度合いにおいて、台湾は日本よりむしろ進んでいるのではないか、という指摘だった。

 彼我の違いの最たる例が、サザンとChthonicだろうか。
 Chthonicの次の映像が、そのことを如実に示しているようだ。
 

  



 

 

 


2016台湾総統選  蔡英文と林昶佐(Chthonic)

2016年01月16日 23時57分03秒 | 台湾

 台湾総統選挙は、民進党の蔡英文主席が国民党の朱立倫候補をダブルスコアの大差で破り当選を決めた。 

 

 私は「ニコニコ動画」で蔡英文氏の勝利宣言を見たが、なかなか感動的だった。台湾の自由民主選挙は、この20年ほどの歴史しかない。民意を反映した総統(大統領)としては、李登輝、陳水扁、馬英九に次ぐ四人目の総統となる。

 同じく行われた立法院選挙には、ヘビーメタル・バンド「Chthonic(ソニック)」のリードボーカルである林昶佐/Freddy Limが新政党「時代力量」から立候補して当選した。
 彼の代表作であるアルバム「高砂軍」では、昭和天皇の「玉音放送」が曲中に使われている。

 

  何故、玉音放送が使われているのか? 友人の一人は、このバンドは「反日」なのかと訝っていた。だが、実際にこのPV(ビデオ)を見れば、天皇の玉音放送など付け足しにすぎないことが分かる。祖国のために命をささげた特攻兵士(日本人や高砂族の兵士)に対する尊敬(リスペクト)が主眼なのだ。特攻機が敵艦に突入し、そのあと昇天しフェニックス(不死鳥)に変貌していく。それは林昶佐にとっては、必然的に「台湾人の台湾」「台湾独立」への思いに繋がっている。

 蔡英文総統の登場により、日台関係はさらに強固になると言われる。だがしかし、台湾が「親日国」であるという、そもそもの理由を知る必要があるだろう。どこぞが「反日国」、こちらは「親日国」などという、手前勝手なご都合主義にどれほどの意味があるのだろうか。国民党軍に三万人もの無抵抗の台湾人が虐殺された「二二八事件」(1947年)のことさえ、われわれは学校教育の場でほとんど教えられていない。われわれはあまりに近現代史を知らなすぎるのだ…。

 林昶佐と蔡英文

【2016総統選挙】総統選挙各候補得票数と立法委員比例選挙政党得票
                   台湾の声 2016.1.17 0:15 現在

 総統選挙得票数

蔡英文ペア:6,894,744票 56.1234%

朱立倫ペア:3,813,365票 31.0409%

宋楚瑜ペア:1,576,861票 12.8357%

2012年の総統選挙で馬英九ペアが6,891,139票の得票で当選したので、馬英九に投票した人々が689と呼ばれていたが、今回の蔡英文ペアの得票も約689万票であった。

立法委員比例選挙政党得票

民主進步党:   5,370,953票 44.0598%

中国国民党:   3,280,949票 26.9148%

親民党:      794,838票  6.5203%

時代力量:     744,315票  6.1059%

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新党:        510,074票  4.1843%

緑党社会民主党聯盟:308,106票  2.5275%

台湾団結聯盟:    305,675票  2.5076%


台湾・総統選 国民党、敗北は「必然」の指摘も 存在意義が問われかねない状態に

産経新聞 1月16日(土)21時21分配信

 【台北=田中靖人】中国国民党は総統選で敗北が確実となっただけでなく、立法委員選でも大幅に議席を減らす見通しだ。「百年老党」を誇る国民党は、存在意義が問われかねない状態に追い込まれた。

 国民党の「鉄票区」とされる台北市の第1選挙区。現地メディアによると、民主化で立法院が全面改選される1992年以前からのベテラン立法委員(61)は民進党の新人女性(41)に敗れた。昨年3月に国民党から分裂した民国党も候補者を立て、組織票は流出。選対幹部は「馬英九政権への不満に党内抗争への反感もあり、民進党政権下で戦ったときより厳しい」と話した。

 国民党は有力者が出馬を見送った結果、泡(ほう)沫(まつ)視されていた洪秀柱立法院副院長が候補者となった。だが、洪氏が中国との統一を目指すかのような発言で支持率を落とすと、党内からの反発を受け投票の3カ月前に朱立倫主席に差し替えた。

 政治大学選挙研究センターの兪振華准教授は、党内対立の背景に、洪氏ら戦後中国から来た外省人系と、台湾出身の本省人系との対立があると指摘する。本省人系の政党である民進党は有権者の「台湾人意識」の高まりを受けて優勢だが、国民党は「現在では利益でつながっただけの政党で核心となる理念がなく、長期的にみて不利になるのは必然だ」と話す。

 このため、「中国人意識」を持つ外省人系は洪氏や国民党から派生し統一色の強い「新党」などを支持。経済的利益を期待して馬英九政権を支持した人々も離れた。兪氏は「国民党は新たな理念を探さなければ分裂するだろう」と指摘している。


青山繁晴の画竜点睛を欠く歴史観

2016年01月15日 09時01分08秒 | マスメディア

 青山繁晴氏(㊑独立総合研究所所長)を「ネトウヨの神様」と呼ぶ人もいるらしい。だが、この人の発言は、一般のTV、ラジオでは忌避されてきた問題に果敢に踏み込むので、「ネトウヨ」だけでなく、私のようなオッサンでも大いに触発されることが多い。



 昨日(1月14日)放送の「虎の門ニュース」(下記の映像参照)では、青山繁晴氏が2016年の展望を語った。連合国が支配してきた戦後体制が瓦解する年であるとして、「敗戦国」たる日本は、新たな一歩を踏み出すべきだと主張する。
 そのこと自体には、全く異論はない。だがしかし、青山氏の歴史観には意図的な欠落がある。番組の冒頭で「今年は皇紀二千六百七十六年」といみじくも言ったように、青山氏は天皇制については全く無批判、手放しで受け入れている。「敗戦国」の屈辱を拭い去るには、天皇制の総括と、昭和天皇の戦争責任が議論されなければならないのに、そこは完全スルーなのだから、何をかいわんやだ。

 かのホリエモン(堀江貴文)は、大胆にも「天皇と大新聞だけが戦争責任をとっていない」と発言した。
 小森陽一・東大教授は自著「天皇の玉音放送」の中で、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下があってもなお、「三種の神器」をどう守るかで頭がいっぱいだったという昭和天皇と、これを諌めることもできなかった側近の姿を批判的に描いている。また、昭和天皇の側近だった木戸幸一でさえ、その日記の中で「東京裁判後、陛下は自発的に退位されるだろう」と記した。
 
 数々の史料、記録が、昭和天皇の戦争責任を示唆しているのに、天皇は日本そのものだとすり替える青山氏。左翼でもなんでもない、普通のオッサンの私でも、青山氏の歴史観には到底ついていけない気がする。万が一、こんな「青山史観」が多数派になったら、この国はどこに暴走するのかと空恐ろしくなる。

 こう書いてしまうと、左翼のオッサンの繰り言みたいだが、決してそうではない。偽らざる本心なのでありますが…。 

 


北朝鮮水爆実験~ナショナリズムを封印するマスメディアの傲慢

2016年01月13日 01時46分38秒 | マスメディア

 北朝鮮が「水爆実験」を行ったことで、一時的に大騒ぎしたマスメディアだが、のど元過ぎればなんとか。今朝、ネット放送でケント・ギルバートが「北朝鮮の核問題は、SMAP解散などより一万倍も重要。なのに、大手マスメディアはこの問題に触れなくなった」と指摘していた。

 何年か前、拉致被害者救出の「国民集会」が東京で開かれ、一万人以上の参加者があったというのに、TV局は何も報道しなかった。その理由について、TBSは「ナショナリストの集会だったから」だと釈明したという。尖閣問題で在京中国大使館を取り囲んだ市民デモのときも、TV各社は全く報道しなかった。そのときは「日の丸が掲げられていたから」という理由だった。

 このことからわかるのは、大手マスメディアは「ナショナリズムを煽らない」のが社是になっているということだ。特に中韓両国に対しては、真っ当な反論さえ、「ナショナリズムを煽る」という理由を掲げて、手控えるらしい。
 ナショナリズムの定義は多義的なので、ここでは詮索しないが、最近読んだ本の中に興味深い、次のような記述を見つけた。  

 「権力を持った強いものには抵抗せず、保身のためには止めどもなく「へつらい」、「媚態」を示し、相手の好意を得ようとする、阿諛迎合する主体性の無い姿が現われる。そのくせ、自分が権力を持ち強いときには、弱者を苛め抜く。いじめが弱者へ、下へ下へと転化されていく天皇制の心理である。一貫した倫理的態度と節度がない体制追随主義である。」(佐藤公彦「中国の反外国主義とナショナリズム」p.321)

 これは、日中戦争にのめりこむ日本人の性格、心理を分析した文章だが、今でも基本的にはさほど変わっていないのかもしれない。だが、マスメディアのエリートさまたちが、こういった「高め目線」からわれら「愚民」のナショナリズムを煽らないとする資格はあるのだろうかと憤る。「権力を持った強いものには抵抗せず、保身のためには止めどもなく「へつらい」、「媚態」を示し、相手の好意を得ようとする」のは、あなた方の自画像そのものではないのかと。

 NHKが「北朝鮮の水爆実験をどう思うか」と世論調査したところ、半数が「脅威に思う」と応えたという。だが、調査はそこまで止まり。マスメディアが真にその役割を果たそうとするのなら、「それでは、日本も核武装すべきだと思いますか?」と質問しなければならないのだ。

 
 

 

 


モンゴル語専攻という選択肢

2016年01月04日 14時01分07秒 | 社会

 一昨年、ある大学でモンゴル近現代史の授業を聴講して以来、いろいろモンゴル関係の本を読んだり、映像を探し出してみたりしてきた。昨年5月22日、「プライムニュース」(BSフジ)にモンゴル大統領が出演したとき、視聴者メールを送ったら、大統領が私の質問に回答してくださったという幸運もあって、モンゴルをにわかに身近に感じるようになった。

 私たちの世代は、東京と大阪の外国語大学にモンゴル語学科があることを知っていても、受験しようと考えた人は少なかったと思う。F教授の自己紹介には次のようなことが書かれている。

「いまではモンゴルはだれでも自由にいける普通のくにですが、わたしがモンゴル語を勉強しはじめた1970年には、モンゴルと日本のあいだに国交さえなく、日本をおとずれるモンゴル人は1年におそらく10人もいなかったとおもいます。このような非実用的な言語を専攻する学科が、東京と大阪のふたつの国立の外国語大学におかれていたのは、もちろん日本の1945年以前のいわゆる「満蒙政策」と関係があるわけですが、いまからかんがえると、ずいぶん不思議な気がします。」

 1972年に日本とモンゴル(当時、モンゴル人民共和国)との国交が回復されても、1990年、モンゴルの社会主義体制が崩壊するまで、両国間には制限された交流しかなかった。そもそも、モンゴル語を母国語とするモンゴル人は、モンゴル国外モンゴル)に200万人、中国の内モンゴル自治区に400万人、ロシアのブリアート共和国に20万人、計600万人程度しかいないのだから、モンゴル語の有用性が疑問視された時期が続いたとしても不思議ではなかっただろう。

 F教授が言う「非実用的な言語」=モンゴル語=を廃止せず、戦後ずっと二大学に設置し続けた政府の文教政策は、無駄でも、的外れでもなかった。戦前戦後を通じても、モンゴル語を専攻した学生は、三千人ほどに過ぎない。だがその中から、司馬遼太郎田中克彦(言語学者)など、数多くの著名人、大学者が生まれている。日本の「モンゴル学」は、今も昔も世界の最高水準にある。日本人は漢文を読めるし、英語もできる。それにモンゴル語とロシア語が加われば、欧米の研究者はなかなか太刀打ちできない。つまりモンゴル学において、日本人には優位性があるということだろう。

 また、China中心主義(シノセントリズム=中華思想)に毒された歴史観を見直す意味でも、モンゴルの存在は重要だ。岡田英弘(モンゴル史)が指摘するように、「世界史はモンゴル帝国から始まった」(下記に添付した映像を参照)のだから。
 
 私などは、時すでに遅しなのだが、若い人たちのなかから、ぜひモンゴル語やモンゴル史を学ぶ人が出てきてほしい。人が手を付けない分野こそ、将来性があると思うのだが。