澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

中山成彬国土交通大臣の「暴言」

2008年09月30日 09時26分48秒 | 政治
「にがうり栽培」を趣味とする私としては、政治の話は無粋だと思い、ある時期から触れないできた。

ところが、中山成彬国土交通大臣の「暴言」問題を聞いて、やはり一言触れておかなければと思った。

中山元国土交通大臣は、宮崎県出身で65歳。鹿児島ラ・サール高校を経て、東大法学部に入学、大蔵省に入省という、華麗な経歴を持っている。奥様が中山恭子さんと聞けば、さらに華やかさが加わる。

中山氏は、「成田空港反対派はゴネ得」「日本は単一民族」という2種類の「暴言」については謝罪したが、「日教組は日本のガン」という主張は撤回しなかった。
私は、この毅然たる態度を高く評価する。多少なりとも、実情を知る一人として、彼の発言は間違っていないと思う。

「日教組」が牛耳る学校では、すべての問題が「当局」(すなわち校長)との「交渉事項」とされる。「日の丸」「君が代」はもとより、本庁からの調査依頼などでさえ、”労働強化”ではないかと言い出す者が出て、職員会議の「議決事項」となるのだ。そこでは、陳腐な「多数決原理」がまかりとおり、組合の意向に添った「神聖な」一票が、浮世離れした結論を導き出す。
校長を「権力の手先」と見なし、自らは「憲法」「平和」を守る「民主主義者」だと自認するのが、こういう職場に巣くう組合活動家の常套手段だ。
だが、こんなことばかり繰り返す現場では、当然、生徒の学力の向上などありえない。その点を組合活動家は、「差別を許さない」「選別は差別だ」などと論点をすり替えるのだ。

では、「日教組」を潰せば日本の教育はよくなるのか? 中山氏が触れない問題として、教委幹部・校長等の資質の問題がある。各県の国立大学教育学部(旧師範学校)出身者を頂点とする、教育界支配の構造は、先の大分県教委の問題で露わになった。言ってみれば、教委も校長も組合もグルなのだ。とっくの昔から「教員はコネがなければ採用されない」と言われていたのに、何を今さら…いう感も否めない。
教委及び校長の人事が腐りきっていたのでは、「日教組」退治でもないだろう。

たかだか地方国立大学教育学部卒(大分大学教育学部)の人物が、県教委、校長の主要ポストを牛耳るという世界のなんといういじましさ! だが、この構図は、高級官僚の世界と相似形ではないのか。

中山氏の発言は間違ってはいない。でも、ちょっと訊きたいのは、ご子息、ご令嬢をどこの学校に進ませたのかということ。
もちろん、有名私立学校から、東京大学に進ませたのでしょうね…。(ご子息は官僚になったという噂もありますが。)

公立の中・高校などハナから行かせるはずもないでしょうから…。

台湾旅行のポイントはここ!

2008年09月29日 13時09分45秒 | 台湾
2度目の台湾旅行で気付いたこと。

まず、電源について。デジカメやシェーバーなど、日本製品の電圧は、100Vに設定されているため、外国では変圧器がないと充電できない。しかし、台湾の電圧は、110V。コンセントの端子は三ツ口だが、下の二つに差し込めば、そのまま充電できる。今回の旅行で確認したが、これは便利だった。


(台湾ビールの後ろにある充電器に注目!)

次に故宮博物院。展示方法も新しくなり、目を見はるような展示品ばかり。この解説を日本語で聞くことができるのだが、専用レシーバーを借りるには、100元(およそ330日本円)とともに、身分証明書が必要となる。パスポートはホテルに預けるケースが多いので、私も困ってしまったが、日本の運転免許証でOKだった。もちろん、管理がしっかりしているので、預けても何ら心配はない。故宮博物院に行く時は、身分証明書をお忘れなく!!


(ぜひ、パスポートか身分証明書を持参して!)

花蓮へも出かけたが、空港の建物は新しくなり、以前ののんびりした感じは薄らいでいた。花蓮は軍用空港でもあるので、撮影禁止。


(花蓮市街上空を飛ぶ台湾空軍戦闘機)


次に台北の「二二八公園」。中華民国総統府の通りを隔てた側に位置するこの公園は、台湾理解の原点でもある。国共内戦に敗れ、中国から逃亡してきた国民党政府は、「二二八」事件を引き起こし、多くの優秀な台湾人(内省人)を虐殺した。この事件について語ることは長らくタブーになっていたが、李登輝氏が総統に就任するに至って、事実を究明しようとする機運が高まった。この公園は、それを記念して建てられたものだ。

台湾が今なお親日的であるのも、この「二二八」事件が大いに関係している。日本が破れ、国民党が台湾にやって来た時、「イヌが去って、豚がやって来た」というのが、台湾人の実感だったという。「イヌ」(=日本人)も迷惑な存在だが、法(規範)を守る精神はあった。ところが、大陸からやって来た中国人(=豚)は、無法の限りを尽くして、台湾人の資産を食いつぶし、台湾人を弾圧したのだった。

今は平和そうで、子ども達が遊ぶこの公園には、台湾人の万感の思いが込められている。


(二二八和平公園の入り口)


(二二八和平公園にある石碑)

最後に交通機関について。MRT(地下鉄)はとても便利だった。全く問題なく、台北市内のあらゆる場所に行くことが出来る。MRT「淡水線」の「淡水」まで足を伸ばしたが、市場の活気と、夕陽の美しさが心に残った。MRTで要注意なのは、飲食厳禁ということ。
バス、タクシーについても、みな親切で、料金のごまかしなどは全くなかった。
この旅行の一週間前、中国の大連、瀋陽にも行ったのだが、街を気ままに歩くことなどとても出来そうになかった。

自由気ままに動き回ることが出来る台湾旅行。こんな旅行が出来る国もそう多くはないはずだ。


(MRT淡水駅で)



(淡水の夕陽)











満鉄超特急「あじあ号」の今は…

2008年09月28日 21時29分46秒 | 中国
旧満鉄(南満州鉄道)が誇った超特急SL「あじあ号」が、中国・大連にたった1輌だけ保存されている。
戦前、瀋陽(奉天)-大連間400kmを4時間で走った、文字通りの超特急機関車だった。現在、同区間を走る中国の特急列車でもわずかに「あじあ号」の速度には及ばない。

その「あじあ号」は、大連駅近くの古めかしい倉庫に保管されていた。倉庫の窓ガラスがところどころ割れていて、中は薄暗い。これまで、どういう扱いを受けてきたのか、ただちに察知した。


(「あじあ号」の前部)


(「あじあ号」の頭部)



ご覧の通り、「あじあ号」の車体は相当痛んでいる。はしごで機関室に入ると、内部はさらに悲惨な状態だった。


(ボイラー室)



(機関室内部の計器)


この「あじあ号」は、「満州」の大平原を高速で走るために設計されたSLだった。そのため、車輪は際だって大きく、日本を走る蒸気機関車とは比較にならないほどの馬力を持っていた。客車は冷暖房完備で、最上級の食堂車もつけられていた。


(「あじあ号」の車輪)


この「あじあ号」を走らせていたのが「満鉄」だが、旧「満鉄本社」は、「大連満鉄旧跡陳列館」として保存されている。公開されたのは2004年で、「アジア号」や「203高地」とともに、中国側がこれらの「史跡」を観光資源として考え始めたことを示している。





(「大連満鉄旧跡陳列館」のパンフレット表紙)


この陳列館は、広大な満鉄本社の一部にあり、満鉄総裁の机と椅子、歴代総裁の写真、鉄道関係の工具類、什器類などが展示されている。写真の展示もかなりあるが、「日本軍国主義」を非難する内容に終始していた。この部分にカメラを向けようとすると、撮影禁止と言い渡された。
建物の外には、お定まりの「記念碑」が建てられていて、ここにも「日本軍国主義」の罪状が書かれていた。


(満鉄本社の一部)


(歴代満鉄総裁の写真)


(満鉄本社前の記念碑)


上掲のパンフレットには、日本語で次のように書かれている。
「”満鉄旧跡陳列館”の設立、その目的は、我々が歴史を鑑とし未来に臨み、共に平和・友好の新たなページを切り拓くことにある」

文字どおりに受け取れば、何ら異論はない。しかしながら、中国側の意図は別のところにあるという疑念もぬぐいきれない。「靖国問題」に対する中国側の反応を見れば分かるのだが、中国は「歴史認識」の問題を対日交渉のカードとして使用している。一旦事あれば、「歴史認識」カードを突きつけることで、日本側を萎縮させ、利益を得ようとするやり口だ。

「植民地支配」は、当然のごとく肯定は出来ない。だが、「満州国」において「満鉄」が果たした社会開発の実績を一顧だにせず、「日本軍国主義」として全否定するのはいかがなものか。現実に台湾では、日本の植民地統治が果たした役割を、冷静に分析しようとする傾向が顕著で、一方的に日本を非難する論調は少ない。

今のままでは、日本人観光客が中国の「旧跡」を訪れるたびに、父母、祖父母の「犯罪」を懺悔しなければならないという「しくみ」が作られている。これは本当に「友好」のためなのか、フェアなやり方なのか、もう一度考えるべきだと思った。










中共に抗議する「法輪功」信者

2008年09月27日 03時18分16秒 | 台湾
台北と言えば、故宮博物院。展示方法も改善されて、さらに興味をそそる内容となった。
じっくり見れば、すぐ1日経ってしまうことだろう。

その故宮博物院の門をくぐった広場に10数人の人々が、垂れ幕をかざして座り込んでいた。そばに近づくと、中共※による「法輪功」弾圧に抗議する人々だった。
周知のとおり「法輪功」は、違法な新興宗教であるとして、中国本土で取り締まりの対象となっている。
この法輪功の信者が故宮博物院の敷地内にいることは、台湾当局が公然とその活動を支援していることを意味する。これは注目すべきことである。


(故宮博物院の中庭で抗議の座り込みをする人たち)



大陸での弾圧に抗議する法輪功の人たち(背後の建物は故宮博物院)




中共当局は、宗教の復活に神経をとがらせている。確かに、中国の経済発展には目を見はるものがあるが、地域間、階級間の経済格差はさらに凄まじい状態にある。その民衆の心の隙間に染みいるのが宗教だ。だが、2週間前に訪れた大連、瀋陽の目抜き通りでは、寺などの宗教施設を一切見つけることは出来なかった。

台湾には、人々の活動の中心に数多くの寺、廟があり、多くの庶民が参拝している。
一方、中国大陸では中共による大躍進、人民公社、文化大革命などの暴政で、農村などの先祖伝来の墓が破壊されてしまった。宗教的な祭祀まで奪った中共(中国共産党)の政策は、伝統的な習俗、人間関係までも破壊してしまい、現在のような弱肉強食で、殺伐、荒涼とした中国社会をもたらしたと言われている。


現在、国際関係においては、窮地に立たされている台湾だが、「信仰の自由」「自由選挙」など、大陸では考えられない「自由」があふれている。長期的に見れば、法輪功のような宗教が、中共(中国共産党)の一党独裁に風穴を開ける可能性は否定できない。そのとき、台湾と大陸の力関係は、再び逆転するかも知れない。

宗教は決して「阿片」などではなく、人々の心のよりどころなのだ。


※ちなみに「中共」という単語は、パソコンの辞書では見当たらない。
 大陸と台湾の力関係が逆転して以来、「中共」は中華人民共和国に対する蔑称だとして、削除されたのだ。だが、「中共」=中国共産党という意味であれば、何ら差し支えのないはずなのに、辞書からも「追放」された。日本ではこういう小賢しい作為が行われているのだ。これは、台湾に対する侮辱でもある。




 
抗議の垂れ幕(大陸の簡体字が使われていることに注目!)



   








台北のグルメ

2008年09月26日 13時49分08秒 | 台湾
台北ではいろいろな食べ物にトライしたが、どれも美味しかった。
前の週に行った、大連・瀋陽(中国)の食事とは、比べものにならない。蟹ひとつとっても、台北の蟹は空前絶後のおいしさだったが、大連のは単なるぼったくりだった。

食べ物の恨みは、恐ろしい。私はさらに、親台湾派となった。



  (淡水名物の”魚丸”スープと饅頭)

  (士林夜市の海鮮レストランで食べた絶品の”処女蟹”)

  (九分のかき氷)


  (人気担ツー麺店のメニュー)


  (「三越」の中のベトナム料理店)










台北のカップル

2008年09月25日 17時39分04秒 | 台湾
台北のカップルは、明るく、ごく自然な振る舞いが特徴的。
  (九分に遊びに来ていたカップル)


  (九分のカップル)


   (淡水の公園にて)

    (淡水の公園で見かけた女性)


    (淡水にて)



 最後は、究極のカップル!
 免税店で売っていた「蒋介石」と「毛沢東」




「悲情城市」「多桑(父さん)」に見る台湾の悲運

2008年09月24日 23時34分17秒 | 音楽・映画
かつて李登輝氏は「台湾に生まれた悲運」について語ったことがある。1945年、日本が敗戦すると、日本人だと教え込まれていた台湾人は、突然、国民党支配下の中華民国国民とされた。日本式の教育を受け、日本人的な思考方法を身につけた台湾人(本省人)は、大陸から逃亡してきた外省人と折り合えるはずもなかった。その結果、「二・二八事件」の惨劇が生じたのだった。

今回、私たちは映画「悲情城市」の舞台となった九分(”ふん”は、人偏プラス分が正式の漢字)を訪れた。1989年制作されたこの映画は、1945年を境に激変した、典型的な台湾人家族の運命を描いている。

   (「悲情城市」のDVD)


この九分では、偶然、タイムスリップしたのかと錯覚するような老婆に会った。参道の土産物屋を抜け、人がまばらになった坂の上から、その老婆はつえをつきながら降りてきた…。

(九分の老婆)


台湾映画と言えば、もうひとつ印象深い映画がある。「多桑(父さん)」という映画だ。「多桑」は、台湾語で「父さん」と発音する。もちろん、その意味は、日本語と同じ「父さん」である。映画の中の「父さん」は、日本が統治していた頃の古い台湾を懐かしんでいるような人だった。その息子は、父親の気持ちが全く理解できない。父親が東京に行き、皇居を見てから死にたいと言っていたのを、ついに実現させてやることが出来なかった。すれ違いの父子の愛情が、切々と伝わってくるような映画だった。
今回、この映画のDVDを見つけることが出来なかったのは心残りだ。


最近、さほど時をおかずして、中国と台湾の両方を訪れたのだが、両者の違いは歴然としていた。急速に経済発展する大連、瀋陽では、古い建物はほとんどすべて壊され、香港風の都会と変貌していた。街はまるで西部劇の舞台のようで、カネを稼いだ者が勝ち…という雰囲気が漂っていた。一方、台北には、落ち着きと品位が感じられた。何と言っても安心して街を歩けるし、日本人に対して突き刺すような目線を感じることもない。


  (九分「悲情城市」の撮影場所)

かつて日本であった台湾。中国のように「日本軍国主義」を非難するわけでもなく、今なお親日的なこの国を、日本は見捨てようとしている。一体「悲情城市」「多桑」のような映画をどこの国が製作するだろうか。「歴史のひだ」を知り尽くし、「台湾に生まれた悲運」を知るからこそ、作れるのだと思う。その繊細な心情をもっと理解すべきだろう。

李登輝氏のような偉大な人物を生みだした台湾。過ぎ去った古い日本の良さを思い出させてくれる国だ。


  (「悲情城市」の撮影場所)

台湾における日本の建造物

2008年09月24日 14時57分56秒 | 台湾
台北、花蓮に行ってきた。2度目の訪台だったが、最初は李登輝総統の時代だから、もう10年近くなるだろうか。総統府前の路上で、台湾の老人からカメラのシャッターを押して欲しいと言われたのを今でもはっきりと覚えている。
今回は日本統治時代に作られた数多くの建物を撮影してきた。



  (中華民国総統府=旧台湾総督府)


   (台湾大学医学院付属病院
                                      =旧台北帝国大学医学部付属病院)


  (花蓮市が文化財として保存している旧日本人住居)


 (花蓮市内の公園に展示されている旧日本製のSL)


ここには総統府(旧台湾総督府)、台湾大学医学院付属病院(旧台北帝国大学医学部付属病院)、旧日本人住居(花蓮市街)、旧日本のSL(花蓮市内の公園)の4枚をUPした。

この前の週に訪れた大連・瀋陽では、旧南満州鉄道(満鉄)が誇った超特急・アジア号が汚い倉庫に放置され、同時に旧満鉄本社の建物の前には「日本軍国主義」を断罪する「記念碑」が建てられていた。大連の旧ヤマト・ホテル、朝鮮銀行、横浜正金銀行は、さすがに保存されてはいたものの、その隣にはわざと景観をぶちこわすかのように、新しい巨大なビルが建てられていた。(写真下)
 
台湾・花蓮市では、一般の日本人が暮らしていた住居が、市の文化財として指定されていた。もちろん、総督府も台北帝大病院も今なお丁寧に使用されている。(上の写真)

この違いは、何なのか? 日本の敗戦後、台湾民衆は中国国民党の支配下におかれ、「二・二八事件」という悲惨な事件に見舞われた。それ故に、日本の植民地統治をそれほど恨んでいないという説が一般的だ。
だが、大連の街で体験したような、料金のごまかしやサービスの悪さは、台北では全くなかった。花蓮のガイド兼運転手さんなどは、こちらが涙が出るくらいに親切だった。

馬英九政権になってから、台湾は急速に中国に近づこうとしている。日本の良さを知る世代も次第に少なくなっている。それでもなお、こんなに親しみを感じさせる国はないのだ。
たまたま、台北滞在中に李登輝氏が沖縄を訪れたニュースを見た。帰国してみると、「主要な」マスコミはこの訪問をほとんど無視していることが分かった。中国におもね、台湾を見捨てようとするマスコミ、こんなこざかしい連中に「平和」や「憲法」など理屈をこねる資格はあるのだろうかと思った。




(中国・大連市内の旧横浜正金銀行。その裏に建てられた高層ビルは、夜間、全体が巨大な青色のイルミネーションと化す)


(中国大連市の旧満鉄本社社屋の一部)


旅順「二〇三高地」を訪れて

2008年09月17日 03時34分09秒 | 中国

格安ツアーで「旅順・二〇三高地」「満鉄アジア号」が見られるツアーがあるというので、出かけてみた。


旅順の「二〇三高地」は、何の変哲もない丘だった。頂上が海抜203メートルであることから、その名が付けられたという。丘に登ると旅順口が一望できて、軍事上の要塞であったことが了解できる。


頂上には、「二〇三高地紹介」として、日本語で次のように記されている。


「二〇三高地は1904年日露戦争当時の主要戦場のひとつであった。日露両軍はこの高地を争奪するため、殺し合っていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は1万人以上死傷した。戦後、旧日本軍第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため、砲弾の破片から10.3mの高さの砲弾のような形の塔を鋳造し、自らが「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した証拠と恥辱性となっている。」


従来の中国側の「日露戦争」認識は、日本とロシアという帝国主義間の戦争であり、旅順口をめぐる攻防では中国人民が犠牲になった、ということだったはず。
しかしながら、上記の説明文では、一方的に「日本軍国主義」を断罪する内容となっている。これも江沢民以来の「反日教育」の「成果」なのだろうか。


「二〇三高地」は、今や日本人とロシア人の観光客を見込んで、物見遊山の場所となろうとしている。そこに上記のような表示があるのだが、訪れた日本人のうち、どれだけの人がその不当性を認識するのだろうか。
私は「右翼」などではないのだが、「日露戦争」に関して、日本が一方的にその非を問われることなどありえないと考える。現にトルコでは、ロシアを破った乃木将軍は、日本人の英雄として教えられているという。


平和ボケで歴史感覚を喪失した日本人が中国に行くと、①一方的に日本の犯罪を懺悔する、②中国人の独善性に反発し居丈高になる、という二つのパターンしかないのではないか、と思えてくるのだが、どうだろうか。

「南京大虐殺」とも関連して、厄介だが、極めて重要な問題であると思われた。


華麗なるマントヴァーニの世界

2008年09月17日 00時53分54秒 | 音楽・映画



9月15日、通販会社「ユーキャン」から「華麗なるマントヴァーニの世界」と題したCD集がリリースされた。

http://www.u-canshop.jp/mantovani/index.html?adid=105

10枚組CDの構成は、次のとおり。
DISC 1 「魅惑のカスケーディング・ストリングス」
DISC 2 「スクリーン・ミュージック&ミュージカル Ⅰ」
DISC 3 「スクリーン・ミュージック&ミュージカル Ⅱ」
DISC 4 「青春のヒットポップス」
DISC 5 「ポップ・クラシカル・ムード Ⅰ」
DISC 6 「ポップ・クラシカル・ムード Ⅱ」
DISC 7 「想い出のポピュラー・ワルツ」
DISC 8 「ラテン&タンゴ集」
DISC 9 「ワールド・ミュージック集」
DISC 10 「不滅のスタンダード・ヒッツ」

上記のタイトルで、全200曲が収録されている。特筆すべきは、「ウナ・セラ・ディ東京」など「世界初」のCD化とされる曲が多いこと。
付属のブックレットは、136頁あり、マントヴァーニのご子息の寄稿、 マントヴァーニの伝記「Mantovani- A lifetime in music」※の著者コリン・マッケンジーが、マントヴァーニのライフ・ストーリーと楽曲解説を担当している。




http://www.amazon.co.jp/Mantovani-Colin-Mackenzie/dp/1905226195/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1220982391&sr=1-2


これまで、マントヴァーニの音楽は「イージーリスニング」「ムード音楽」にくくられているため、まともな客観的な音楽評価を受けることは少なかった。だが、今回初めて、その全体像がクローズアップされたと言えよう。

http://www.u-canshop.jp/cd/index.html?link_id=cd1

値段はちょっと高めだが、「ブックレット」の完成度を考えると、ファンとしては購入しておきたいところだ。



満鉄「アジア号」を見に行く

2008年09月15日 00時27分36秒 | 中国

大連に保存されているという、旧・南満州鉄道(満鉄)超特急「アジア号」を見に出かけた。


「アジア号」は、戦前、日本の鉄道技術を結集した、SLの最高傑作だったが、日本の敗戦に伴い、中国政府に接収され、これまで公開されることはなかった。
ところが近年、中国が急速に経済発展するにつれて、中国政府もこれまでのかたくなな態度を改め、「アジア号」や満鉄本社の建物の公開に踏み切ったのだ。


「公開」されたとはいえ、保存状態は極めて劣悪。大連駅の近くにあるボロボロの倉庫の中に、埃まみれで遺されていた。巨大な4輪の車輪が、時速120kmを出したという昔日の雄姿を思い出させる。


現在、中国の特急列車は、大連→瀋陽間(400km)を4時間で走るが、これは「アジア号」よりも遅い。往年の「アジア号」は、全車に冷暖房を完備し、素敵な食堂車も付いていた。鉄道というのは、その国の技術水準を示すので、当時からいかに日本の技術が優れていたか分かるだろう。


だが、満鉄本社の建物に設置された資料館では、中国侵略の象徴として、満鉄を全否定する展示ばかりが見られた。

しかしながら、「満鉄」や「満州国」が果たした社会調査、保健医療、教育など数々の実績が、現在の中国東北部が繁栄する基礎となったことは忘れてはならない。

もはや何もかも、「日本が悪かった」と懺悔する時代ではない。
高層ビルが乱立し、未来都市を思わせる大連で、改めてそう思った。




 

 


海ゆかば

2008年09月07日 13時52分34秒 | 音楽・映画

ある公立高校の卒業式で、一部の教師と生徒が「君が代」斉唱を拒否したが、式の退場行進のバックには「威風堂々」(エルガー作曲)を使ったという実話を紹介したことがある。これは風聞などではなく、私自身がその現場にいて体験した事実だ。


英国の第2の国歌とされる「威風堂々」を生徒自身が選曲し平気で流すのに、「君が代」斉唱は断固拒否する…この珍妙な体験が出発点になって、私は「国歌」「愛国心」について考え始めた。


「海ゆかば」という曲がある。戦時中は「第2の国歌」ともされた曲で、祖国に殉じた兵士達の鎮魂の歌となった。

「海ゆかば みずくかばね 山ゆかば 草むすかばね 大君のへにこそ しなめ かえりみはせじ」

歌詞は、大伴家持の歌から採られ、信時潔が作曲している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0


大戦後は、「日本軍国主義」の歌曲として永く封印され、正当な評価を受けることはなかった。「大君」(おおきみ)は天皇のことであり、「かばね」は屍のことである。天皇制を礼賛しているではないか、という理由である。事実、学徒動員で海軍に徴兵され、多くの戦友を失った、私の父は、決してこの歌を歌うことはなかった。その気持ちは十分分かっていた。だが、ことはそんな単純なのだろうかと私は疑った。大伴家持による歌詞は、少なくとも戦争を鼓舞したり、天皇を賛美するものではない。英国の準国歌「威風堂々」が、「世界中にひらめくユニオンジャック」とか歌っているのとは、むしろ正反対なのだ。

今や、若い人がこのメロディを聴くとすれば、右翼の街宣車のラウドスピーカーを通してだけかも知れない。歴史に対する無知は、さらなる悲劇をもたらしかねない。


2000年、声楽家・藍川由美「”國民歌謡~われらのうた~國民合唱”を歌う」(DENON COCO83299)をリリースした。戦前・戦時中、NHKラジオの「國民歌謡」で採り上げられた曲を集めたCDだが、この中には「椰子の実」「春の唄」「朝」などと並んで「海ゆかば」が収められている。
藍川自身のライナーノーツによれば、「海ゆかば」はこう説明されている。

「…歌詞は万葉集所収の大伴家持の長歌からとられている。この詩にはすでに明治13年に宮内省伶人の東儀季芳が海軍の礼式歌として作曲したものがあったが、昭和18年2月に文部省と大政翼賛会が信時潔(1887-1965)作曲の歌を儀式に用いると決めたため、準国歌的な役割を果たすこととなった。」


藍川自身が歌う「海ゆかば」は、クラシックの小品のような仕上がりである。肩肘を張って勇壮に歌うわけではないので、かえって大伴家持の歌詞が浮き上がってくる。
「海ゆかば」は軍国主義、「君が代」は非民主的などと…聞いたような文句はいくらでも言えるのだが、そういう悪口を言う人間に限って、「大英帝国」を賛美する「威風堂々」を無自覚にも流したりする輩なのだ。


近代以降、ほとんどのアジア諸国は欧米列強の植民地と化した。欧米列強と唯一対抗することが出来た我が国には、植民地の苛烈な収奪からアジア人民を解放するという思想が生まれた。「アジア主義」である。「大東亜共栄圏」の構想は、「アジア主義」の具体的な結実であり、不幸にして勃発した戦争は「太平洋戦争」などではなく「大東亜戦争」であったことは疑いない。

こんなふうに書くと、まるで「右翼」の主張のようだが、そんなことはない。「海ゆかば」を聴くと、戦後日本の歪んだ精神史が浮き彫りになってくるようだ。


 

 

 


「帝国のオーケストラ~第2次世界大戦下のベルリン・フィル」

2008年09月06日 04時59分41秒 | 音楽・映画

「帝国のオーケストラ~第2次世界大戦下のベルリン・フィル」という番組が、9月1日深夜、NHK BS2で放送された。見逃した方も多いのではないかと思い、少し紹介しておきたい。


当該番組は、2007年ドイツで制作、今も健在のベルリン・フィル関係者にインタビューをして、「音楽と政治」の関わりあいを採り上げている。
冒頭、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが指揮するベルリン・フィルがベートーヴェンの「第九」を演奏する。その傍らには、ナチスのシンボルである巨大な「カギ十字」(ハーケンクロイツ)が掲げられている。


ベルリン・フィルは、ヒトラーの寵愛を受けたオーケストラだった。楽団員は兵役は免除され、食糧配給等で様々な特権を付与されていた。楽団員の中には、ユダヤ人も多かったが、ナチスが勢力を拡張する中で、楽団から追われていく。さらに、楽団員の中からは、少数ではあるが積極的にナチスに協力する者も現れた。


当然のことながら、インタビューの中で現存する楽団員や楽団員の遺族は、ベルリン・フィルがヒトラーの庇護を受け、ナチスの宣伝媒体であったことを否定する。「時代性」や「芸術と政治」の関わりの中で、すべてはやむを得ないことだったのだと…。

われわれは、ナチス協力者の疑いをかけられたフルトヴェングラーが、裁判で結局無罪になったことを知っている。それとともに、あの丸山真男も絶賛するように、フルトヴェングラーが比類無き名指揮者であることも知っている。


だが、映像は、時に無惨な真実を映し出す。フルトヴェングラーだけでなく、ハンス・クナッツパーズブッシュやクレメンス・クラウスが、ハーケンクロイツの前で「アーリア人の音楽」を演奏する様は、いかなる弁護の言葉も超えているように思われる。


芸術はパトロン無くしては、存在し得ない。
「芸術家」たちが無意識のうちに「権力」におもねったのは「事実」であるし、否定しようもない。問題は、芸術とはそんなものなのだという「事実」を当人達が自覚していたかどうかだ、と思った。

強大な政治権力の前では、芸術の力などとるに足らないものだ。その「無力感」を知ることが、芸術家にとって必要なことではないのか。
いろいろ考えさせる、素晴らしい番組ではあった。

 







 

 

 


福田首相と星野監督の「父親コンプレックス」

2008年09月02日 03時24分19秒 | Weblog
突然、辞任を発表した福田首相、オリンピックで敗北してもなお、WBC監督に色気を見せる星野監督、両者は全く違うタイプの人間のように見える。
だが、KY(空気が読めない)というのか、周囲の思惑を意に介さないというのか、意外と共通点もあるようだ。


「突然の辞任は無責任ではないのか」という記者の質問に対して福田首相は、「私は自分を客観的に見ることができるんです。貴方とは違うんですよ!」とその記者に言い放った。
そもそも、辞任の時期が適切だったと自画自賛する会見なのだから、「この人の神経はどうなっているのか?」と思う人がいても不思議ではない。
「すべて他人事のよう」「つまらないことを自画自賛」という態度だけは、終始一貫していたようだ。


一方の星野監督、北京では神妙だったが、帰国後はNHK番組のバックアップを得て、軌道修正を始めた。今やWBC監督に色気を見せ始めている。
この星野がいかに「裸の王様」であるかは、もはや誰の目にも明かだろう。


心理学的に考察するならば、両者には共通性がある。それは「父親コンプレックス」という点だ。


周知のとおり、福田首相の父親である福田赳夫は、東大法学部→大蔵省主計局長という超エリートであった。息子である福田康夫は、早稲田大学→某石油会社という経歴しかない。
「偉大な」父親の前では、「クズ」のような存在だ。父親に自分を対置できるのは、「大局」を見るのではなくて、「細部」にこだわるという点でしかない。このコンプレックス故に、福田は「私は自分を客観的に見ることができる」と言い放ったのだろう。


一方、星野監督は、父親を早く亡くし、自らが「父親像」を形成し、演じなければならなかった。
過度にも見える「演劇性」「出たがり屋」的性格は、そのためでもある。明治大学野球部の「島岡イズム」が、さらに星野の「親分肌」に拍車をかけた。
常に実力以上の自分を誇示したがるという「幼児性」が、星野の真骨頂なのであって、それ以上の人間ではない。これも歪んだ彼の生育歴がもたらしたものだ。


ともかく、この二人、一見無関係に見えても、実は「相似形」なのだ。

首都直下地震で「帰宅困難者支援」の大ウソ

2008年09月01日 09時25分31秒 | 社会

今日は防災の日

東京都は「首都直下型地震」に備えて、昨日、防災訓練を行ったようだ。自衛隊はもとより、台湾、韓国からもレスキュー隊が参加したという。

だが、東京都の防災対策は、思いのほかずさんなもののようだ。


昭文社という地図関係の出版社からは、災害時の「帰宅支援マップ」という本が出ていて、結構な売れ行きだそうだ。ウィークデイの日中、首都直下型地震が起きた場合、職場から帰宅できない人が、数百万人に及ぶとされている。その「帰宅困難者」に徒歩の帰宅ルートや公共施設の所在を示すのが、この本の目的である。

http://www.mapple.co.jp/publ/kitakushien2.html

 

都政に詳しい知人の話では、この本の中に多くの都立学校が「帰宅困難者支援施設」として表示されているそうだ。△△街道沿いには都立○○高校があると表示されているので、これを見た「帰宅困難者」は、当然、なにがしかの「支援」が受けられると思い、その場所に向かうことだろう。
しかしながら、肝心の都立学校には、何の備蓄品や人的対応の用意もないのだそうだ。これは驚くべきことだ。
学校を所管する東京都教育庁は、この実態を見て見ぬふりをしていて、現場に責任を押しつけていると聞く。


大分県の教員採用汚職に見られるように、地方行政組織の中でも、教育委員会は最も閉鎖的で、職員の資質も劣るというのが常識だ。首長(知事)からはワンクッションある「行政委員会」制度を隠れ蓑に、何か問題が起きれば、すべて学校現場に責任を押しつけ、自らの責任を問うことはないのだから、まともな組織になりうるはずもない。


地震等の非常時に関しては、東京都全体で対応しなければならない。だが教育庁は、「帰宅困難者支援施設」に都立学校が指定されているにもかかわらず、何の対策も施していないのだ。


東京直下地震が起きて、帰宅困難者が都立学校に殺到し、悲惨な事故でも起きた時、都教育庁幹部は、誰に責任をなすりつけるつもりなのか。
石原知事は、都政の末端の「局」である教育庁で、こういういい加減さがまかり通っていることを知っているのだろうか。


都教育委員会は、身内の防災行政の足を引っ張るようなことまでしているのだ。
「帰宅困難者」の皆さんには、くれぐれも都の防災対策を鵜呑みにしないように、ご注意申し上げたい。