本丸へ
長根神社の前の道から西回りに進むと、公民館があります。
公民館横に虎口と説明版
生島足島神社に小河原右馬助重清の起請文が残っている。長根衆の武将、雅楽助・縫之介・神保氏・茂原氏を引き連れ石倉砦の合戦、長篠の合戦、膳城の戦い、神流川の合戦に参加しているとのこと。武田信玄・勝頼・滝川一益などに仕え戦い続けたことが分かります。
虎口に入って左手にある櫓台、右手には高台の曲輪があり、虎口を挟んでいます。
本丸跡
現在は道路となっていますが、空堀でした。この西には二の丸があったと説明板に記述されていますが、民家であり入れませんでした。
神保城(辛科神社)
神保城地図
辛科神社鳥居
横にある説明版
辛科神社本殿
本門にある武将の額
本殿の裏にある大きな曲輪
空堀
「群馬県古城塁祉の研究 下巻」 山崎一氏著
神保氏は長根衆として上記の通り武田氏・織田氏・北条氏に仕え活躍しました。
後北条氏と安保氏
後北条氏の上野進出は、永禄四年(1561)前後より積極的に行われるようになった。氏康は子氏邦を藤田氏の女婿とし、鉢形・秩父などの武蔵・上野国境の領域経営を行うようになる。後北条氏の上野支配において重要な位置を占める利根川・鳥川・神流川の合流地点に、安保氏が領主支配を行っていた。
北条氏康は、天文二十一年(1552)関東管領上杉憲政を越後に遂い、着々と関東支配の輪を広げていった。そして同年の御獄城合戦で、御獄城を北条氏康が攻略し、以後、後北条氏に支配に入ったと思われる。そして、弘治元年には、検地を行い、領国整備を推進している。
永禄初年(1558)のころになると、後北条氏は安保郷近辺にまで進出してきており、国境地帯の安保氏も小田原の氏康と直接結びついていた。永禄六年(1563)の段階で、安保中務大輔晴泰が武蔵・上野両国に知行を持っていたことが「安保文書」から知られる。永禄十一年(1568)末から翌年正月にかけて、武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真を攻撃した。これに対して氏政は駿河薩垂峠で武田軍を対陣したが、このとき安保氏は、小幡三河守、同族の長根雅楽助をひきつれ、北条氏方として薩垂峠に出陣している。武家家伝より
長根神社の前の道から西回りに進むと、公民館があります。
公民館横に虎口と説明版
生島足島神社に小河原右馬助重清の起請文が残っている。長根衆の武将、雅楽助・縫之介・神保氏・茂原氏を引き連れ石倉砦の合戦、長篠の合戦、膳城の戦い、神流川の合戦に参加しているとのこと。武田信玄・勝頼・滝川一益などに仕え戦い続けたことが分かります。
虎口に入って左手にある櫓台、右手には高台の曲輪があり、虎口を挟んでいます。
本丸跡
現在は道路となっていますが、空堀でした。この西には二の丸があったと説明板に記述されていますが、民家であり入れませんでした。
神保城(辛科神社)
神保城地図
辛科神社鳥居
横にある説明版
辛科神社本殿
本門にある武将の額
本殿の裏にある大きな曲輪
空堀
「群馬県古城塁祉の研究 下巻」 山崎一氏著
神保氏は長根衆として上記の通り武田氏・織田氏・北条氏に仕え活躍しました。
後北条氏と安保氏
後北条氏の上野進出は、永禄四年(1561)前後より積極的に行われるようになった。氏康は子氏邦を藤田氏の女婿とし、鉢形・秩父などの武蔵・上野国境の領域経営を行うようになる。後北条氏の上野支配において重要な位置を占める利根川・鳥川・神流川の合流地点に、安保氏が領主支配を行っていた。
北条氏康は、天文二十一年(1552)関東管領上杉憲政を越後に遂い、着々と関東支配の輪を広げていった。そして同年の御獄城合戦で、御獄城を北条氏康が攻略し、以後、後北条氏に支配に入ったと思われる。そして、弘治元年には、検地を行い、領国整備を推進している。
永禄初年(1558)のころになると、後北条氏は安保郷近辺にまで進出してきており、国境地帯の安保氏も小田原の氏康と直接結びついていた。永禄六年(1563)の段階で、安保中務大輔晴泰が武蔵・上野両国に知行を持っていたことが「安保文書」から知られる。永禄十一年(1568)末から翌年正月にかけて、武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏真を攻撃した。これに対して氏政は駿河薩垂峠で武田軍を対陣したが、このとき安保氏は、小幡三河守、同族の長根雅楽助をひきつれ、北条氏方として薩垂峠に出陣している。武家家伝より