Oceangreenの思索

主に、古神道、チベット仏教、心理学等に基づく日本精神文化の分析…だったはずなんだけど!

マートの中で呼吸せよ

2010-03-02 | こころ
ヌンはアトゥムに言った。
おまえの娘マートの中で呼吸せよ。
彼女をおまえの鼻の中に取り込んで、心臓が生きるようにせよ。
彼女がおまえから離れることがないようにせよ。
おまえの娘マートが、
生命という名をもつおまえの息子シュー(シュウ)とともにいるようにせよ。

リュシ・ラミ“エジプトの神秘”平凡社

***

ヌンは、すべての根源である混沌。
そしてアトゥムは、ヌンの中から自らを生み出した“造物主”です。

(わたしは、この神が征服者の持ち込んだ強いもの勝ちの神であり、
本来の北エジプトでは、代わりにアポピスが敬われていたのでは、
と思っていますが。)

マートは、インドのリタにあたる“天則”であり、
シュウは虚空とそこに生じる風の神で、ここでは呼吸を示します。

(以前、インドのブラフマーにあたるものがマート、と書いてしまいましたが、
どうやらそれは間違いで、シュウがブラフマーなのですね。)

アトゥムが自らの心臓を欲したとき、
ヌンはアトゥムに、上記のように語りました。

“心臓が生きる”という事が、文字通り心臓を動かすことなのか、
それとも、幸魂を正しくすることなのか、分かりません。

ただ、古代エジプトでは、考える機関は頭ではなく、
心臓だと考えられていたそうです。

わたしも、頭ではなく心臓(というか心臓のチャクラ=みぞおち)が
思考の主体である
と言って、人を困らせていますが(笑)

つまり、この場合の“心臓が生きる”とは、
主体としての心臓のチャクラを働かせることだと、
わたしは解釈します。

***

呼吸法を伴う止観は密教にもあると思いますが、
仏は眼前に観想するのだと思います。

あるいは、自らと一体になっていると観想すると。

エジプトの場合は、
自らがマートの中にいると考えるのですね。
常にマートを離れることがないと。

マートは、自らの内と外にいるのだそうです。
これは“二人のマート”と表現されます。

***

インドのマートにあたるリタは、ウシャスと密接な関係にあります。
すなわち、マートもまた、霊質なのでしょう。

それは水のようで、波打ち、遍在し、また伝達し、
意識されずに肉体を構成する水分のように、既に精神の一部でもある。

それが枯れると精神が枯れ、
それによって精神が生きる。

同じものが、例えば太陽の粒子や炎のように、
現実に恵みをもたらす相であるとき、ウシャスとなるのだと思います。

ウシャスは、アメンより発するもの、
すなわち生命の息吹を燃料として、エネルギーに変換し、
現実界に差別なく、あまねく与えることが特徴となります。

けれどマートには法則があり、受ける心がそれに沿わなければ
マートは与えることができない。

それは、火花がなければ火が生じず、木や酸素がなければ火が燃えない、
というのと同じようなことで、

マート自身にも
どうしようもない事なのだと思います。

***

マートはまた“意識”であるとも表現されています。
けれどこれは、現代的な意味での“意識”ではないでしょう。

それは、チベット仏教でいう“根源意識”であって、
自らの内にも外にもあり、
形状記憶合金のように、経験を記憶している。

そして、マ=身魂、ア=天、ト=戸であり、
身魂が先に立つ“体主霊従”を封じる、という意味の名を持ちます。

この“マート”にあたるような概念を、日本の神々の系譜に、
今のところ、見つけることができません。

それは、体主霊従のにあって
封じられたのでしょうか?

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