八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「弁護者であり真理の霊」 2018年5月20日のペンテコステ礼拝

2018年06月18日 | 2018年度
民数記11章24~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。
  宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

ヨハネによる福音書14章16~17節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。


  ヨハネ福音書13~17章は、いわゆる最後の晩餐と呼ばれている場面で、四つの福音書の中でもっとも詳しく描かれています。13章で食事の様子が記され、残りの14~17章は、弟子たちに対して語られた主イエスの教えになっています。その中で、主イエスはご自分が弟子たちの前から去って行くこと、また聖霊が弟子たちに遣わされる事が告げられています。
  主イエスが去るというのは、この最後の晩餐の後、主イエスが捕らえられ、翌日には十字架にかけられることを意味しています。この時の弟子たちには、そのことは知りようのないことでしたが、それが起こった時、弟子たちが動揺し、恐れ、絶望することを見越し、聖霊が遣わされることをあらかじめ告げられたのです。
  主イエスは聖霊について「弁護者」、「真理の霊」と表現しました。「弁護者」と訳されている言葉は「傍らに立つ人」という意味で、裁判を受けている被告人の傍らに立って弁護する人のことです。口語訳聖書では「助け主」と訳されていました。また、聖霊が「真理の霊」と呼ばれるのは、神の御心を明らかにするからです。14章26節で「聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせる」と説明されているとおりです。
  こうして、主イエスが十字架にかけられることは、はじめから計画されていた神のご計画であること、そして、弟子たちも決して見放されないことを明らかにされたのです。
  聖霊を弁護者、真理の霊と告げる場面は、15章26節にも出てきます。そこでは、弟子たちが受ける迫害について語られており、その時も聖霊が守り導いてくださると約束されています。しかし、主イエスは迫害から逃れる手段を告げてはいません。弟子たちが迫害を受けるのは、彼らが神の側に立っているのに対し、迫害する人々は神に敵対しているからだと説明されています。
  迫害は神の御心を明らかにする時であること、すなわち伝道の機会であることが告げられます。「その時、聖霊が何を語るべきかを示してくださる」と、主イエスが以前から弟子たちに語っておられました。(マルコ13:11、ルカ12:11~12、他)
  神のご計画は、すべての人々を罪とその悲惨から救うことです。そのために神の独り子が遣わされ、十字架において罪の贖いをなさいました。弟子たちとそれに続くキリスト者、すなわちキリストの教会は、その神の恵みの御業を証するために立てられたのです。その教会の働きは、目に見えるところでは人間の業ですが、実は目に見えないところで働く聖霊の業なのです。
  神のご計画により、私たちは救われています。すなわち、私たちの救いのために、主イエスが十字架にかかられ、神のご計画を悟らせるために聖霊が遣わされ、私たちは神を信じる者へと変えられました。そして今、その神の恵みを宣べ伝えよと、私たちを周囲の人々に遣わされているのです。

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