治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

たとえ健常者にならなくても知的障害が治った方がいい理由

2023-03-06 08:52:23 | 日記
さて、すっかり高齢化して勢いを失ったかつてのアンチたちですが
知的障害の重い人の親も多かった。
そしてあたかも花風社が「知的障害のある人が、知的障害のない人になる」と喧伝しているかのように中途半端な理解で言い立てていました。

私はこれをとくに否定する気はありませんでした。
だって中には、知的障害ありといったんは診断され、支援級にいたり、支援校への進学を検討したこともあったのに、結局は有名校に進学する人なども、つまり客観的な福祉外の判定で「お勉強ができる方である」と認められた人も一人や二人ではなかったから。
地道に小さいころから「言葉以前のアプローチ」に取り組んだ結果こうなった。
だから「知的障害である人が知的障害でなくなる」のは嘘ではないのです。

ただ、元々の重さにももちろんよります。
伸びてもまだ知的障害の範疇である、ということは十分ある。
大人になっても一般企業で働くというより、福祉的な環境で暮らしていくだろう、という方はいる。
でもその人たちも、一ミリでも治った方がいい。
私はそういう思いを抱いていました。

そもそも自分の生き方、というか、人生で学んできたこととして「下手な調整はしない方がいい」というのがあります。
もしかしたら調整がうまい人もいるのかもしれませんけど、たとえば球技等でリードしているから残りの時間をゆったりとボール回す、みたいな戦略で成功したことがない私です。
反撃のスキを与えないように、ロスタイムまで攻めまくった方が、私の経験では勝利を確実にできるのです。

ですので一昔前の支援者たちが大真面目に提案したとおり、「前の日に眠らせず検査に連れていって重い数値を出す」とか、一昔前の保護者たちが真面目に言っていたように「重い数値が出た方が何かと支援してもらえる」というのはもう、生き方の違いとしか言えません。
だからそういう人はどうでもよかったのです。枠打ってマスクしてコオロギ食べる人がどうでもいいように。
私は「一ミリでもよくなりたい人」への情報を提供していたのでした。

そして滝山病院の件をNHKで知り
それに対する精神科医東徹先生の言などもツイッターでしみじみと読み、行政・医療それぞれの役割(とその怠り)をギョーカイ人がどう考えているかを観察しました。
翻って自分の仕事を考えると、自分があのような悲劇を避けるために一番できることはやはり『知的障害は治りますか?』方面のことだと思いました。

たとえ治っても知的障害の範囲にとどまるとしても、少しでも治った方がいいです。
自分で選べる人になる。いやなことはいやと言える人になる。
それが自分の尊厳を守ることにつながるからです。
滝山病院みたいなところが必要悪とされるのは、様々な重複障害がある人を受け入れるところが他にないから。
家族がつきあうのをうんざりするような人を捨てる場所が他にないから。
ならば廣木さんちのおーちゃんさんのように、家族が一緒に暮らしたいと思うような人に育ち、才能を発揮して、その才能を周囲が愛でる、みたいな生き方ができれば、そういうところにいかないですむ。少なくとも治す気のない医療と自立支援と言って予算を引き出しながら飼い殺ししか考えていない福祉の養分として生きずにすむのです。
知的障害はとても不便なのですから、その不便さは一ミリでも埋まった方がいいのです。

滝山病院にしか行き場がなかった人の中には「知的障害+透析」の方も多かったようです。
知的障害のない透析の人は普通に障碍者手帳をもらい、それで電車に乗って週に何度か通院すればよい。いや、すごい負担だとは思いますが、それでも仕事と両立も可能だし紹介状もって旅することもできる。
それでもそこに知的障害が重なったら一挙に不便さが増します。

透析に至るにはもちろん遺伝的要因もありますが、それがわかっているのなら、なお一層生活習慣に気を付けたり、そういうことでも将来の滝山病院的などこかへの入院が防げます。
透析を避けるのと、知的障害を一ミリでも治すのは一緒。とにかく不便を避けるために治る。尊厳を保つために治る。
知的障害という不便なハンディキャップがあるからこそ、健常な部分は大事にし、そして伸ばした方がいいわけです。身体の健康維持やそれに伴うモチベーションの維持などはその最たるものでしょう。

「どうせ健常児にならないのならやってもしかたない」「やったら健常児になるというエビデンスをだせ~」とかつてのアンチたちはけち臭いことを言っていました。
健常児にならなくたって、お子さんが尊厳のある一生を確保するためには、一ミリでも先に進んだ方がいい。
医者があきらめさせ、重度というくくりの中で高い報酬を望む福祉サイドと結託して管理を第一とする中で、花風社が「治るが勝ち」と言い続けたのはそういうことなのです。
最初から医療依存・福祉依存の人たちはそれがわからなかった。
でも子の尊厳を大事にする人たちは、「治そう」を選んだという流れでしたね。


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