さて、先日アップした死生観について、続きです。
あのあと祖父が亡くなったときのエピソードを思い出しました。
病室に母のきょうだいたちと祖母が立ち会っていて、最後の心臓マッサージが始まりました。
ドクターの腕の動きにのみ反応して動く心電図。
母がきいたそうです。
「先生、先生の腕が止まったら父の心臓も止まるのですか?」
「そうです」とドクター。
「だったらもう結構です」と母。
そして臨終の時を迎えました。
母は「誰も言い出さないんだもの」とか言っていましたが
他の人は言い出せなかっただけ。
今、日本だけコロナが終わっていないのもこれですよねきっと。
言い出せないだけなんです。
(コロナの場合には、それに利権側が乗じている)。
祖父は90年の立派な生涯を送ったのだから
その人の心臓を最後に無理やり動かすのは医療資源の無駄遣いです。
その間に6歳の子とかが担ぎ込まれたら
そっちに医療資源(ドクターの時間と体力)を使うのは当たり前のことでしょう。
それにさあ
命がお医者さんの体力次第とか、依存的すぎる。
もう生き物としては終わっている人に医療資源を割くから
社会保険料負担でこの国の人民は貧しくなったのです。
先日もこの話になり、
なぜきょうだいの中で母だけがそれを言い出せたかな、と考えたとき
実は(母は自覚があるかどうか知りませんが)祖父に一番近かったかなあ、と思いました。
近い人はわかるのです。
本人の望みが。
もちろん延命治療やなんかは夫婦間で話し合うことも多いでしょうが
本当に心の通じている夫婦なら
「この人なら何を望むか」がわかるのではないでしょうか。
そして臨終の際、もっとも尊重されるべきは、家族ではなく本人の意向だというのは当たり前ですよね。
ただ子どもの場合には話が違うと思います。
あきらめられないのがわかるし
当たり前の親心だと思います。
でも大人同士なら
本人の希望が最優先だし
本当に親しい間柄なら
本人の希望は言葉にしなくても伝わっていると思うのですけどね。
だって生き方そのものを見ればわかるから。
あのあと祖父が亡くなったときのエピソードを思い出しました。
病室に母のきょうだいたちと祖母が立ち会っていて、最後の心臓マッサージが始まりました。
ドクターの腕の動きにのみ反応して動く心電図。
母がきいたそうです。
「先生、先生の腕が止まったら父の心臓も止まるのですか?」
「そうです」とドクター。
「だったらもう結構です」と母。
そして臨終の時を迎えました。
母は「誰も言い出さないんだもの」とか言っていましたが
他の人は言い出せなかっただけ。
今、日本だけコロナが終わっていないのもこれですよねきっと。
言い出せないだけなんです。
(コロナの場合には、それに利権側が乗じている)。
祖父は90年の立派な生涯を送ったのだから
その人の心臓を最後に無理やり動かすのは医療資源の無駄遣いです。
その間に6歳の子とかが担ぎ込まれたら
そっちに医療資源(ドクターの時間と体力)を使うのは当たり前のことでしょう。
それにさあ
命がお医者さんの体力次第とか、依存的すぎる。
もう生き物としては終わっている人に医療資源を割くから
社会保険料負担でこの国の人民は貧しくなったのです。
先日もこの話になり、
なぜきょうだいの中で母だけがそれを言い出せたかな、と考えたとき
実は(母は自覚があるかどうか知りませんが)祖父に一番近かったかなあ、と思いました。
近い人はわかるのです。
本人の望みが。
もちろん延命治療やなんかは夫婦間で話し合うことも多いでしょうが
本当に心の通じている夫婦なら
「この人なら何を望むか」がわかるのではないでしょうか。
そして臨終の際、もっとも尊重されるべきは、家族ではなく本人の意向だというのは当たり前ですよね。
ただ子どもの場合には話が違うと思います。
あきらめられないのがわかるし
当たり前の親心だと思います。
でも大人同士なら
本人の希望が最優先だし
本当に親しい間柄なら
本人の希望は言葉にしなくても伝わっていると思うのですけどね。
だって生き方そのものを見ればわかるから。