治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

治るとはこういうことか? 東京講演ご報告

2017-06-21 09:24:29 | 日記





さて、岡山から戻り翌日は東京・目黒です。
お客様の構成的には、花風社セミナーにいつも来てくださる花風社クラスタ+先生たち
という感じです。
もともと先生たちのお勉強会をしていたそうです。
大阪とか東北とか、いろいろなところから来てくださっていてその熱心さにびっくりしました。
けれども一番遠くから来たのはどこからからというと
沖縄どころではなく、アメリカです。
トニママこと仲本博子さん、ちょうど日本にいて、今回はスケジュールタイトでここでしか会えないとサプライズでご参加くださったのでした。

テーマが「発達障害は治りますか? 愛着障害は治りますか?」で
どうして発達障害の問題から愛着障害の問題に至ったのか、そのあたりをお話ししようと思ってレジュメも用意してあったのですが
前日岡山で、自閉っ子通信を読み合わせすることの効率の良さに気づいたので、自閉っ子通信も前半部で使いました。花風社から直接買っている人はすでに読んだことがあると思いますが、先生たちにしてみれば初見でしたしね。
参加者の方からこういう感想がきました。

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2時間半という短い時間でしたが中身の濃い公演でした。
自閉っ子通信は以前直販時にいただいて持っていたのですが、浅見さんの読み合わせ
によってより深く内容が頭に入っていくように思います。
今回花風社さんの出版の変換を追っていったわけですが、その中から浅見さんの真摯
でブレない姿勢が新しい知見に繋がり、さらに発達に繋がっていくという、まさに芋
づる式の構図が浮かび上がってくるようでした。大きな勉強をさせていただきまし
た。
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発達障害の人たちと接した→治るといいなと思った(赤心)→自立支援を!というからまじめに追求した→いろいろ提案→治るなんて差別!にびっくり→ギョーカイが臆病者と卑怯者のかたまりだと気づく→恐怖麻痺反射・愛着障害→ヌケを埋める→中枢神経

という道のりが自閉っ子通信にはかいつまんで書いてあるので、それをさらに口頭で肉付けしていく感じ。これ、岡山でも東京でも評判よかったようで、一応年に一回くらいは無料イベントをやろうと思っているのでそのうちやってもいいですね。だったら自閉っ子通信増刷しないと。いっぱい刷ったのにいかに直販でいっぱい買っていただき講座等にいっぱい来ていただいたかわかるというものですね。

さて

そのあとは普通の講演になりました。新ネタは二次障害かな。最近いろんな事象を見渡して、そして講演準備のために『愛着障害は治りますか?』を読み直してみたりして、ふとあることに気づき、愛甲さんにきいたんですよね。「私はギョーカイの二次障害回避原理主義が嫌いだったんです。でも例えば愛甲さんなんかは、二次障害はむしろ出さなきゃいけない、ってお考えなんですかね?」と。

そうしたら「そうですよー」としれっと答えられました。

これが最新の「専門家、早く言え」です。
二次障害出しちゃった方が治るのね。
だから回避原理主義だと治らないの当たり前ね。
まあそんな話をしました。

そして質疑応答。花風社クラスタではなく教育関係者(東北からいらした)から、よくある質問が出ました。その方は同僚の方から送り出されるとき「治るってなんだろうね」って言われたそうです。もうこの手の質問はいーっぱいされたことありますから「きたきた」と思いました。

その方は同僚と話し合い、「自分たちもなんか短所がある。たとえばガンコとか。でも一応社会人をやっていくうえでそれを抑えて対処できるくらいにはしている。それが治るということじゃないか」とあたりをつけてきたそうです。私は「違います」と即答しました。少なくとも私にとっての「治る」はそれじゃない。

でも一方で質問してくださった方が「官」で働いていることを考えると、それくらいが限界なのかもしれないな、って思ったのも正直なところです。だからまあ、教員の精神疾患は多いんだよね。でも私にとっての治るとは、そういうことじゃないです。抑えることではなく開花することだから。私はそれができやすいポジションにいるというたけの話。たとえば暴言力、活かしていますよね。

「治る」を被害的に取る人たちの多くは「社会適応のために不承不承何かを演じさせられた・捨てさせられた」という体験を持つのでしょう。でも私にはそれがない、あるいはいちいちそこで自分を説得することにひととおり成功してきてるんで、「治る」=もっと自分らしくなる というとらえ方をしているんですね。

でもこれはいい機会だったので、私がなぜ非難ごうごうの中治るという言葉を使い続けるか三つの理由をお話ししました。

ここには書きません。本にも書かないかもしれない。これはライブで聞くのが一番わかりやすいですよ皆さん。

ただね、最近カンカイガーの話を二つきいて、そのひとつは

障害者有期雇用→無期雇用 とステップアップした方、栗本さん方面の実践をしてすっかり心身健康になった方をなんとかセンターでは「寛解期」(やっぱり変換しないや)と書類に書いてファイルしてあることを偶然知ってしまったそうです。そして意地でも治ったとは認めないんだな、とあきれたという話。もちろんたとえば何かが起きてまたセンターの世話になるかもしれないわけだけど、一生ならないかもしれなくて、じゃあその方が治ったかカンカイかは死ぬまでわからないっていうことですね。たぶんたいていは親の方が先に旅立つから、親御さんとしては確かめようがないけど「治った」と安心する権利は親にはあるのです。

それと、「完全寛解」っていう言葉もあるということ。なんだよそれ。治癒じゃなくて完全カンカイ。

もうこうなると、医療側の方言と考えた方がいいですね。

「はんかくさい」はやわらかくて響きがいいなあ、と思うけど、道民が鬼の形相になって「しゃらくせえなんて使うの禁止!」とか江戸っ子に迫ったらうるせえなあ道民、と思うんじゃないかしら。

「なんくるないさ~」はすてきな言葉だけど、それだってそれしか使わなきゃいけないって非沖縄の人が言われたらうざいでしょ。

そして私のパソコンは相変わらずカンカイを変換しないのだが、ニキさんにそう言ったら「私のはする」と必死に訴えてくるわけです。

なぜかというと、ニキさんの中の「否定された反射」が発動し「浅見さんはカンカイが存在しないと思ってる!」と誤解してしまうからですね。「カンカイは実在する!」と訴えたいわけです。

ところがこっちはカンカイの実在は疑っていないわけです。
どっちみちギョーカイはカンカイがせいぜいだし。

それにさ

カンカイしかしたくない人は一生カンカイしていればいいんだよ。
棺のふたがしまってもまだカンカイしていればいいんだよ。
でも方言を押し付けるなっていうこと。
そして私は医療者じゃなく編集者だから、世の中で流通量が多い言葉、人口により膾炙している言葉を使うのが仕事なの。
ギョーカイは方言を使っていなさい。私は標準語を使う。

それに

医療者は実際、カンカイもあんまりしていない。
それが発達障害ギョーカイの実態ではないかしら。
おまけにレアなケースとして二次障害が治った場合にもギョーカイの治し方は揺り戻しがくるから、やっぱりカンカイなのかもね。私たちのはね、根っこからヌケを埋めるから治ったなのよ。

そんなわけで東京講演も盛会のうちに終わりました。
お越しくださった皆様、主催の皆様、お手伝いくださった皆様、ありがとうございます。
同じ主催の方が7月、栗本さんの講座を開いてくださるので貼っておきます。
私も見張り見学に行きます。皆さんお会いしましょう!

詳細・お申し込みはこちらへ。


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2 コメント

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Unknown (フジイ)
2017-06-21 11:09:40
とても素敵な講演でした。
その日はすごく興奮してしまい、なかなか寝付けませんでした(笑)

二次障害についてのお話しでは、そうかーとしみじみ。そして慌ててメモしました。
失敗を恐れていては成長はできないよな、と。3年前の私は息子が傷つかない様に先回りするところがありました。(ただでさえ登校しぶりなのに、学校内で嫌な経験したらますます行けなくなる、などと考え。。)今は親の方も恐怖麻痺反射へのアプローチのお陰で、学校の無理そうなこともとりあえず行ってこーいというスタンスで出せます。たまに失敗はしますが、失敗こそ良い経験になっていて、本当息子もにたくましくなりました。3年前は親子で泣かない日はないくらいすったもんだしていましたが、徐々にから、さらに今年度は一気に良くなり周囲からも驚かれています。

治るという言葉を使う理由のお話しでも、まっすぐに入ってきて、泣けて心にしみました。
家に帰ってから主体性について改めて考えたり、本を何度も読み直しています。
これからも頑張りたい!とやる気が湧いてくるお話しでした。
本当にありがとうございました。
新刊も楽しみにしています。
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二次障害って (ふな)
2017-06-22 05:01:36
東京講演に参加させていただきました。初めて浅見さんのお話をライブで聴けて、本にスタンプももらって、満足して帰ってきました。
読み合わせた自閉っ子通信に掲載されている本は殆ど読み終えている私にとって、二次障害は出さないより出した方がいい、の新ネタが一番の収穫だったと思います。
改めて、二次障害って何だろう?と思い、少し検索してみると、別に発達障害に限らず子育てしたりされたり(つまり自分が育ってきた過程でも)の中では普通に起こり得ることばかりのような気がしました。どれもこれも、不適切な対応から生じるもの、という説明が必ずついているようです。自己肯定感が下がる、不安障害、体調不良、人間関係に支障、不登校、社会不適応、等々。
浅見さんのお話にもありましたが、みんなちがってみんないい、が大切だなぁと本当にそう思います。自分が産んで育てる子どもだって自分とは違う人間だし、感じ方や考え方も似てる部分もあるかもしれないけど丸ごと同じわけじゃないし。まして他人はなおさら。発達の段階もみんな違うのに、学校など集団の中では平均ラインにみんなを揃えていこうとするから無理が出るのだろうと。あの子はできるのに、うちの子はできない、なんて変な劣等感を持たされるはめになって親子で崩れていくとか、発達障害がなくてもあるような扱いされるとか、家庭の責任にされるとか、割とありがち…。
障害や遅れがある子に「治らないんでしょ?可哀想に」って「お手伝い(またはお世話)してあげましょう」なんて自分の子どもに教える様子を見かけたときは、それは本当の親切ではないと腹立ちます。発達のチャンスを奪わないでほしい。決められた時間に間に合わないとか、その時の状況もいろいろでしょうが。その時その場だけの対応のつもりでも、積もり積もってその子にとっては不適切な対応の積み重ねになり、いわゆる二次障害を生み出していくのではないかなと思います。が、二次障害が出ることによって、周囲が対応を見直すのなら出さないよりはいいのかな? まだまだよくわからないことがたくさんあります。
とりとめなく思ったことを書いてしまいましたが、今後出版される本に期待しながら、今回購入した本も読み進めていこうと思います。
ありがとうございました。
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