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桑名城 -3-

2024-05-14 07:28:59 | 取材・旅行

2024年5月11日(土)、栄中日文化センター主催、「歩いて巡る東海の古城史跡」(2024年4~6月)「伊勢桑名城と城下町散策」へ行ってきました。

講師は七種英康先生です。その様子を、7回にわたって紹介しています。

第3回は 七里の渡し です。

上の写真の F(旧諸戸氏本邸)→G(七里の渡し公園)→H(太一丸)→I(七里の渡跡)→J(蟠龍櫓 と進みます。

旧諸戸氏本邸です。

諸戸氏とは?

明治中期の日本一の大地主です。

次の説明をご覧ください。出典 https://www.city.kuwana.lg.jp/brand/bunka/bunkashisetsu/24-11233-235-412.html


諸戸家は戦国時代、一向宗門徒として織田信長に抗した丹羽定直に発するといわれています。定直は織田軍との戦闘の際、城中の戸板を集め、これによって矢や石を防ぎつつ縦横無尽の働きをしたため、証意上人より「諸戸」の姓と違鷹の羽紋とを賜わり、これが諸戸家の始まりとされています。一向宗徒が信長によって駆逐された後は郷里の西外面村(現三重県長島町)で、後には自ら開墾した加路戸新田(現三重県木曽岬町)で代々庄屋を勤め、幕末に至りました。

しかし、その諸戸家も江戸時代末期の清九郎の代に塩の売買が不調に終わり、2000両もの負債を抱えてしまいます。そのような時期、清九郎の長子として弘化3年(1846年)正月に生まれた清六は、一家で移住した桑名で、父の死後文久3年(1863年)18歳の頃から資金80両をもって米穀業を営み、わずか3年で負債を完済しました。明治維新の後も新政府高官の知遇を得、また西南の役や米相場で利潤を上げるなど30万円を蓄財、明治19年には海防費2万円を政府に献上し、翌年には特旨をもって従6位に叙せられました。また一方で田畑、山林を購入、経営し、日本一の大地主となりました。

その当時まで桑名は、東海道の宿場町として、また海運を利用して米を伊勢神宮や大阪、関東へ輸送するための港湾、商業都市として栄えていました。清六はこの地の利を生かし、時流にもうまく乗ったのです。

清六は晩年の明治37年、桑名の飲料水不良を解消するため15万円を投じ、独力で小野山に貯水池(煉瓦造、市指定文化財)を設け、上水道を完成させ、これを無料で町民に開放しました。清六の死後、水道設備は遺志により桑名町に寄附されました。

明治39年、清六が死去すると諸戸家は次男・精太の血をひく西諸戸家と二代目清六を襲名した四男・清吾の東諸戸家に分かれ、現在に至っています。

現在、六華苑として公開されている旧諸戸清六邸は、二代目清六が明治44年に着工し、大正2年に竣工した建物を整備・修復したものです。


なるほど。波瀾万丈とはこのことですね。

現在でも、諸戸グループとして、「木」を育てる山林事業から、都市空間を提供する不動産事業まで幅広い分野で事業を展開しています。

そのHPです。

http://www.moroto.co.jp/index.html

空から見てみましょう。

敷地内に、諸戸の家株式会社、諸戸林業三重本社があります。

そして有名なのが、六華苑 です。

画像出典 https://www.rokkaen.com/

説明をHPより抜粋して引用します。


六華苑は、二代諸戸清六の邸宅として大正2年(1913年)に完成しました。本苑には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計による4層の塔屋をもつ木造2階建て天然スレート葺きの洋館、和館や蔵、池泉回遊式庭園などがあります。和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化財です。平成9年に洋館と和館が国の重要文化財に指定されています。また、庭園は平成13年に国の名勝に指定されました。


これはすばらしい!

コンドルが設計した30を超える建物の内、9棟はきれいに残っており、そのうち4棟が重要文化財です。

先へ進みましょう。

旧諸戸氏本邸横の建物です。

諸戸会の祭車庫です。個人として、祭車を出しているのですね。

諸戸氏庭園レンガ倉です。

このような説明板が・・・

重みがあります。

立派な観光資源です。

公園として開放されています。

公園の様子をご覧ください。

レンガがいいですね。

洋館が見えます。

動画です。


案内板です。

このような看板も・

あの、長良川河口堰です。

語りたいけど、長くなるのでやめておきます。

揖斐川沿いに見た名古屋。

なばなの里。

住吉神社です。

案内です。

 

揖斐川が異常に増水した場合、これが回転して、域内への流入を防ぎます。

現在の艀(はしけ)です。


七里の渡し

 

江戸時代の交通網の中心は五街道。

街道には宿場が整備され、宿泊施設や伝馬(てんま)が設置されました。

五街道の中でも、東海道は江戸から京都・大坂までをつなぐメインの街道です。その42番目の宿場が桑名です。(41番目が宮(熱田)、43番目が四日市)

宮~桑名間は、東海道唯一の海路で「七里の渡し」として知られています。その距離は7里(約27km)、所要時間は約4時間といわれています。

桑名は木曽・長良・揖斐川の河口部にあることから、古代から交通の要衝だったのです。

桑名に到着して伊勢に向かう最初の鳥居なので、一の鳥居 といわれています。

式年遷宮の折りに、20年に一度、建て替えられます。

説明部分を文字起こししてみましょう。


桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約二八キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入り口にあたるため、伊勢国の「一の鳥居」が天明年間 (一七八一~一七八九)建てられました。
七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣、駿河屋、大塚本陣が、七里の渡の南側には船会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々でにぎわい桑名宿の中心として栄えました。
昭和三三年(一九五八)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和三四年(一九五九)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異な 表情を見せています。


これが東海道。

蟠龍櫓です。

説明を引用します。出典 https://www.city.kuwana.lg.jp/shisetsu/kanko/003.html


桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。


動画をご覧ください。

 

 

明日に続きます。

桑名城 -1- -2- -3- -4- -5- -6- -7-


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