気の向くままに

山、花、人生を讃える

「赤い糸」はあるか?

2019年06月27日 | 人生

結婚して2年目ぐらいの時、家内からこんな話を聞かされた。

 

家内は28歳の時、今年中に結婚すると決意し、勤めていた市立幼稚園を退職し、京都宇治市にある生長の練成会に参加し(10日間)、終了後も研修生として道場に残って修行していた。その合間に本に書かれている「幸福なる結婚を招く祈り」というのを毎日読んでいた。

 

そんなある日、本部講師(先生)が彼女にこう言って指導したとのこと。

「○○さん、自分の半身がいると思っているのではまだ足りませんよ。半身ではなく、もう一人の自分がいると思いなさい。そういう気持ちで読んでいれば、どうしなくても、すぐにでも向こうからスーと寄ってきますよ」と。

 

わたしはそれを聞いたとき、びっくりしたというか、大きな感銘を受け、一瞬、頭の中が真っ白になった。何故かと言えば、その頃の私はこんなふうだったからである。

 

私はその頃のある日、朝起きるとすぐに、何とも言えない寂しさに襲われたのだった。「いったいこの寂しさは何なのか?」と思うが、思い当たるものは何もない。じたばたしても良くなる訳でもないから、一晩寝て次の日を待つより仕方がなかった。ところが次の日も、次の日もまったく同じだった。それで、たまらず熱田神宮に神想観(祈り・瞑想)に出かけた。

 

熱田神宮へ行ったのは、この数年前に、ある目的があって神想観に通ったとき、奇跡的なお蔭をいただいたことがあったからである。

 

そして熱田神宮の鳥居をくぐると、こらえていたものがこらえきれなくなって涙がこぼれてきたが、かまわず参道を進み、神前に座り神想観(40分ほど)をした。しかし、泣きたいような心境で、ただ神さまの前に座っているだけのようなものだった。が、それでも少しは気がまぎれ、ふと今の家内を思い出し、彼女と話をしたくなった。

 

その頃は、彼女は知り合いではあったが、個人的付き合いはなかった。けれども電話をすると、彼女は練成に行っているとのことだった。それを聞いた私は、意外にも、すぐに宇治へ行こうと思い、迷惑になってはいけないので、念のため電話をして彼女を呼び出してもらうと、「どうぞ、来てください」とのことだったので、次の日に宇治へ向かった。

 

そして練成を受けながら3日ばかり道場に寝泊まりし、彼女の自由時間に付近を散歩したが、その時、ふと「プロポーズしてしまえ」という気持ちになり、「俺と結婚しないか」とプロポーズした。

 

そんな経緯があったので、彼女からはじめて話を聞かされて、理由もないのに、朝起きてすぐ猛烈な寂しさに襲われたことや、先生が言ったいう「どうしなくても、スーと寄ってきますよ」の言葉に衝撃を受け、頭が真っ白になったのだった。

 

そんなわけで、私は「赤い糸」のようなものはほんとうにあると思っている。

「所詮、夫婦は他人」と言われることもあるが、肉体的にはそれぞれ別の親から生まれていて血のつながりはないのだから、確かにそういう見方もできる。しかし、目には見えなくとも、意識の奥深くでつながっているという事は十分考えられることだろうと思う。

 

≪幸福なる結婚を招く祈り≫ (冒頭と終わりの部分)

○神は一つの魂を陰陽二つの肉体に分割して宿し給い、互いに相呼ぶ半身の魂として、愛というものの美しさと深さと、切実さとを体験せしめ給うのである。・・・中略・・・

 尚、一つの魂の半身を見出し得ざる人よ、必ずその半身が、あなたと同じくその半身を呼んでいることを自覚せよ。既にあなたの半身は今既にそこにあるのである。あなたたちはそれを信ずることによって互いに相逢う時がくるに違いないのである。 
                                                              『真理の吟唱』(谷口雅春著)より

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『恋文』

2019年06月25日 | 読書

先日、ある方のブログに「恋文」という短編小説のあらすじと書評が書かれているのを読み、興味を覚えて早速それを買って読んだ。
註:「恋文」は『たば風』(宇江佐真理著)というタイトルの本の中の1編。

 

その短編とは、こんな風である。
母親が、三男の元服(15歳.)を機に、これで母親としての責任を果たしたとホッとしたとき、その三男に、離婚を決意していることをうっかり話す。すると、しばらくした後、その息子が母親に、どうしても離婚するというなら、父親に100通の「手紙」を出してほしい。できれば恋文をと言う。その中に必ず1回は「好き」という言葉を使って欲しいとのこと。

 

母親は、離婚しようとしている夫に「恋文」を書けといわれても、そんなもの書けるはずがないと拒否する。が、.愛する息子が熱心に頼むので、その真意を尋ねると、息子の言い分はこうだった。

 

熟年離婚した人のその後を調べたが、離婚後は張りつめていた気持ちが失せ、腑抜けたようになり、あまり良い暮らしぶりをしていない。だから、本当に離婚するつもりなら、恋文を100通でも書く気構えを見せてもらえれば自分も安心できる。そして、その恋文を父親に見せ、離婚を承諾するよう説得するために使うという。それで、母親は、やむなく手紙を書くことを承諾した。

 

しかし、離婚することばかり考えてきた妻が、急に夫に恋文を書こうとしても、さっぱり書くことが頭に浮かんでこない。それでも書かなければと思案しているうちに、いろいろなことが思い出されてくる。そうやって、必要に迫られ、離婚という視点から、恋文を書くという視点に心の向きが変わり始めると、忘れていたことを思い出したり、気づかなかったことに気づいたり、さらには、自分の至らないところがあったことにも気づき始めた。その様にして30通余り書いたところで、ようやく「恋文」と呼べる1通が書けた。

 

その1通を早飛脚に託し、藩の用で国元に帰っている夫に出した。

やがてその夫が、藩の用向きを終えて江戸に帰ってきた。すると夫は、お茶を差し出した妻の手を愛おしそうに握り、言った。

 

夫:あれを読んで年甲斐もなく胸が高鳴った。みく(妻のこと)が傍におれば、わしは何でもできる、そう思った・・・

妻;もったいないお言葉、わたくしこそ、物知らずの妻でございました。

 

という、ざっとこのような内容の短編でござるわけであるが、めでたくハッピー・エンドを迎え、読ませてもらった某(それがし)も、登場人物と共に、まことに目出度き気分に相成り申した次第に候。あ、いつの間にか候文になってしまった。(笑)

読んでいただき、感謝に御座候。

 

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思い出した荻野博士の業績

2019年06月24日 | その他

10年以上も前のこと、ある日、テレビをつけると「その時歴史は動いた」という番組が始まる所だった。どんな番組かと思ってしばらく見ていると、冒頭、荻野博士のオギノ式が当時の世界では画期的な素晴らしい発見であるとの説明があった。

 

私のオギノ式についての知識は、人の雑談から知った「人工避妊の方法」ぐらいの認識しかなく、つまらないものだと思っていたので、冒頭のこの解説を聞いて興味深々となり、最後までこの番組を見せてもらった。そして、大きな誤解だったことを知るとともに感動した。

 

荻野博士が開業医をしていた当時の新潟では、結婚して3年間は籍を入れないで、その間に子供が生まれれば正式に籍を入れ、子供が生まれなければ離婚という時代だったそうです。そして、3年の内に子供が生まれず離縁されると、それを苦にして自殺する人もあったというほどの切実な問題でもあったとか。また、当時は一般に多産で、しかも、お産に関する医療も充分でなく、産後の休養もままならず重労働をし、寿命を短くしていた時代でもあったとのこと。

 

そんな時代の中にあって、荻野博士は、「子供を生みたい!」とすがるように訴える婦人の声に動かされ、なんとかこの婦人たちの力になりたいというわけで、それまでは謎であった妊娠のからくりを調べようと思い立ったとのことでした。そして婦人たちに献身的に尽くしながら、地道な研究をつづけ、ついに妊娠のからくりを発見したという事で、大いに感銘させられたのでした。(おわり)

 

「なんでこんな話を?」と訊かれそうだが、最近、結婚しない人や少子化傾向に歯止めがかからないという話題から、ふとこの番組と荻野博士のことが思い出されたので書かせてもらった次第。荻野博士の業績を讃えたいと思う。

 

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すべては「自分が何者か」を表現している

2019年06月22日 | 人生

『神との対話』(ニール・ドナルド、ウォルシュ著)には、自分が普段心に想い、口にし、行動したりすることは、どんな些細なことであれ、すべては「自分は何者か」という事を表現している、と書かれている。そして、その表現されたものは「自分自身の自画像である」と。

 

もし、地域的なことであれば、その地域に住む住民の自画像であり、国家であれば国家の自画像であり、団体や組織であれは、その団体組織の自画像であると。そして若し、国家が戦争をすれば、それがその国の「自画像」である、というわけです。

 

さて、
たとえば、家内が何か私の気に入らないことをしたとして、私が心の中で、それを不平不満に思うとする。こういう場合、たいていは、不満に思ってはよろしくないと知りながら、家内がこうなんだから、自分が不満に思うの仕方がない、と思うことが多い。

 

しかし、「自分の気に入らないことをすれば、ちょっとしたことでも不満に思うのが自分である。これが自分の自画像である」となると、そんな自分を情けなく思い、、なんとか自分を変えたいと思うのが普通の人間であろうと思う。(普通なら、その様な自分に満足はできないだろうから)

 

この場合、「家内がこうだから仕方がない」という心の状態から、「それを赦せる自分になりたい」という心の状態になる。これだけでも大きな1歩であり、少しは子供から大人になり始めた、と言えるのではないか。

 

そんなわけで、『神との対話』に書かれている、

  ○どんな些細なことであろうと、すべては「自分が何者であるか」を表現している。

  ○世界に向かって「自分はこういう人間である」と表明している。

  ○社会に「自分の自画像」を写しだしている。

という、このような視点を持つことは、とても大切なことではないかと思います。


 

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マイクロプラスチックごみによる海洋汚染

2019年06月19日 | 社会

数年前からマイクロプラスチック(以下MPと記す)による海洋汚染の問題が取り上げられるようになってきました。MPとは5ミリ以下のプラスチックごみのことで、その大部分はビニール袋や発泡スチロールなどが海に流れ込み、漂流しているうちに波や紫外線などによって劣化し、細かくなったもので、これが全体の9割を占め、残る1割は「マイクロビーズ」と呼ばれる洗顔料、洗浄剤、ボディーソープ、歯磨き粉などに含まれているプラステック粒子だそうです。

 

註:プラスチックは19世紀後半に発明され、これまで83億トンが生産され、現在では、毎年年間4億トン生産され、そのうち800万トンが海に流れ出ていると推定されています。そして国連環境計画の発表によれば、海の中のプラスチックごみの量は、2050年には魚の量を超えると予測しているとのことです。

 

MPの大きな問題は、海の生物や鳥などが餌と間違えて摂取し、それを人間が食すると云うことです。
そしてプラスチックは海中の油分を吸収しやすい性質があり、その油分というのが化学物質のポリ塩化ビフェニール(PCB)とか、農薬のDDTという毒性のあるもので、人間が魚を食すれば、それらの有害物質もともに体内に取り込まれるということです。

 

これはあくまで人間中心に考えた場合ですが、海の生物が人間の棄てたごみによって、大きな被害を受けていることを見逃すことはできません。海鳥の雛の死骸からは沢山のMPが出てきたりしているそうで、これは親がMPを餌と間違えて雛に与えたからだそうです。

 

最近、レジ袋有料化の話が浮上していますが、わたしは10年近く前から、少しでも資源の無駄遣いをしないようにと、レジ袋を貰わないようにしていますが、こういう話をきけばなおさらのこと、早く進めるべきだろうと思います。

 

ちなみに、環境問題に熱心なEU加盟国の中では、フランスが2016年からレジ袋配布を禁止し、2020年からカップや皿の販売禁止を決めているとのこと。英国は2019年からストローやマドラーなどの販売を禁止する方針。アメリカでは、カリフォルニア州が2015年にレジ袋の客への提供を禁止する法案を成立させているとのことです。日本もこれらの国に遅れることなく続いていってほしいものだと思います。

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「胸が痛む」とは?

2019年06月15日 | 読書

今日は、またアジサイ寺に出かけましたが、その車での移動中に、家内がこんなことを話し始めました。

 

○昨日は寝る前に見ていたテレビ番組のせいで、なかなか寝付けなかった。その番組と云うのは、10年前にいじめが原因で自殺した中学生の、その後の家族の話だった。自殺した少年には兄がいて、そのお兄さんはは弟想いのお兄さんで、弟がそんな辛い思いをしている時にどうして気づいてやれなかったかと、そのことが悔やまれて仕方なく、それが原因で精神を患い、33歳の時にそのお兄さんも自殺してしまった。

○3番目の子は、そう云う訳で暗くなっていたその家を出たくなり、一人長崎に住むようになった。そしてキリストの教えに帰依し、教会に勤めながら、子供たちの相談相手になっている、とのこと。

○お父さんは、テレビを通じて呼びかけてだったか、何でも子供たちの相談相手になっていて、1000通もの相談の手紙がきていて、それにひとつひとつ丁寧に返事を出している。そして、ある人はその返事に救われ自殺を思いとどまったという話などが紹介されていた。

 

ざっとこんな話で、私も聞いていて胸に痛みを感じながら、以前に読んだ『親が子に語る人生論』(飯田史彦著)という本を思い出しました。

この本の著者は、学校の先生が、子供たちに、「いじめは駄目ですよ」「自殺は駄目ですよ」と教えると、子供たちは逆に、「どうして?」と素直な気持ちで聴いてくる。それに対して先生たちも、どう答えてよいかわからないとのことで、多くの先生から、子供にもわかるように説明できる手本となる本が欲しい、との要望を受けていたとのこと。その要望に真正面から応えたのが、この『親が子に語る人生論』という本でした。

 

わたしはこの本は、「いじめ問題解決」のために、もっと多くの人に読まれてよい、掛け値なしに素晴らしい内容の本と思っていますが、久しぶりにその本を開くと、その開いたところには、こんな会話が語られていました。少し長くなりますが、引用させてもらいます。(前半部分の一節から)

 

娘:ちょっと整理してみない?まず「脳」っていうのは、人間の頭部に入っている物体のことでしょ。それに対して、「心」っていうのは、少なくとも、物体としては存在してないわよね。人体解剖図の中に、「心」っていう器官や部分は、ないんだもの。

息子:そうだよ、「心」は、物体じゃないんだから、見えないんだ。つまり、」心」っていうのは、「脳」が思考する作用のことであって、「心」そのものは。どこにも存在していないんだよ。

父:大事なところに入ってきたぞ、それじゃ、「あなたを心から愛しています」と誓う時の、「心」って何なんだ?「あなたを脳から愛しています」って言われても、ぜんぜん嬉しくないよな? 

娘:やだ、嬉しくな~い!

父:それじゃ、いろんなものを考えるのは「脳」なのに、人を愛するのは、どうして「心」なんだ?

「心」が「脳」の思考作用のことを指しているんなら、人間を愛するのも「脳」の作用だろう?

娘:う~ん・・・。

父:だったら「脳」のほかに、わざわざ「心」なんて言葉を使わなくても、「あなたを脳から愛しています」って言えば、いいじゃないか。

≪中略≫

父:もう一つ聞こう。「心」が「脳」の思考作用のことを呼ぶだけのものだったら、例えば、「気の毒な人を見ると、心が痛む」なんて言わなくても、「脳」が痛むって言えばいいじゃないか。

娘:でも、脳が痛んじゃったら、頭痛になっちゃうわよ。

父:ほら、気の毒な人を見たからって、頭痛がするわけじゃないだろ?

≪中略≫

父:こういう見方もできるぞ。「心が痛む」っていう表現と同じように、「胸が痛む」なんて言い方もするよな。この場合は、「心」というのは「脳」じゃなくて、「胸」の部分を指しているんだ。でも、「胸」と言っても、臓器としての「心臓」が痛みを感じるわけじゃなくて、自分の中のどこかが「つらい」とか「悲しい」とか感じることを、「胸が痛む」って表現するわけだ。

≪中略≫

母:ねえ、さっきから聞いていて思ったんだけど、「胸」というのは、「心臓」のある部分で、人間の命を守るために、一番大切な場所でしょ?だから、「胸が痛む」っていう表現は、「私の中の、一番大切な部分が痛みを感じる」という意味なんじゃないかしら。

≪中略≫

母:だったら「心から愛しています」って言うのも、「自分の中でいちばん大切な、自分の中にある部分から、深く愛しています」って言うことを伝えようとする、特別な表現なのね。

息子:なんだか、父さんの話術にはまっちゃったような気もするけど、まあ、そういう見方もできるよな。

父:そうだろ?そうすると、つまり「心」っていうのは、自分という存在の構成要素の中で、一番大切な何かを表現する言葉なんだよ。

息子:だけど、その心も、脳が作り出す作用であることには、変わりはないよ。

父:つまり、お前の脳が生まれた時に、おまえの「心」も生まれて、おまえの脳が死んだ時には、おまえの「心」も消滅してしまう、というわけだな?

息子:そういうこと。

父:でも、どうして、そう言い切れる?

 

きりがないので、引用はこれぐらいにさせていただきます。

家内から、話を聞いてこの本を思い出し、もっとこの本が世に知られることを願いつつ書かせてもらいました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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『前世療法』から

2019年06月12日 | 読書

もう20年以上も前になると思うが、飛行機に乗るとき何か読む本はないかと空港の売店を覗くと、『前世療法』という本が目に入った。
題名はいかがわしかったが、「はしがき」を読むと、無責任な、いい加減の本とは思えなかったので買って読んだ。
著者はブライアン・ワイス博士、アメリカの病院の精神科部長とのことだった。

 

ブライアン博士が言うには、例えば、水や暗がりとか、対人恐怖症の患者を治療する場合、どうするかというと、医師が誘導して幼い頃の記憶を思い出させるのだそうである。そして、その原因となる事件や事柄が思い出され、それを追体験すると、恐怖症状は消えるそうだ。何故かというと、多くの場合、それは幼き頃の些細な体験が原因になっていて、それを大人になって追体験すれば「些細なことだった」とわかるからだそうである。

 

ところが、ブライアン博士がある女性患者を誘導中、その原因となっている時までさかのぼるように指示すると、その女性患者は突然、男の声になり、話し方も男の様な荒々しいものになり(時には他国の言葉になったりする)、話の内容も、一体誰の話をしているのかと思うようなことだったりで、博士の頭は「一体何が起きているのか?」と混乱した。

 

話が長くなるので、結論を急ぎますが、要するにこの患者は、突然前世までさかのぼり、前世の記憶を話し始めたのでした。もちろん、ブライアン博士はすぐにそのことを理解した訳ではなく、始めは、何が起きているのかわからなかったし、わかるようになってからも、そんなことはあり得ないと疑っていた。しかし興味をもって治療を続けて行くうちに、前世があることを信じざるを得なくなっていったのでした。

(長くなるので証拠となるような具体例は省略します)

 

そして、それまでの今生の幼い頃の記憶にさかのぼるだけだと、治癒の確率も半分程度だったものが、過去生の記憶までさかのぼると、その治癒率は向上したと本には書かれている。

 

ブライアン博士は、数々のそのような臨床経験を重ねていくうちに、いよいよ過去生があることを確信せざるを得なくなり、博士は特にキリストを信仰している人ではないそうだが、聖書の教育はうけているので、「どうしてこんな大事なことが教えられていないのか」と不思議に思い、図書館に通い聖書の歴史を調べたそうだ。すると、過去の聖書にはいわゆる「輪廻転生」の記述もあったが、ある時代から抹消されていることが分かったそうです。

 

註:『神との対話』では、確か中世の頃だったと思うが、輪廻転生があるとなれば、今生の反省から、次の人生では「やり直し」ができるという事にもなり、教会でお金を献金して懺悔する必要もないと考える人も出て来たりする。そうなれば教会にお金が集まらなくなるからだ・・・ということが書かれていた。

 

そして、ブライアン博士は、どうしてもこの「過去生(輪廻転生)はある」という事実体験を世間に知らせたいと思ったのでした。しかし、キリスト教国のアメリカでは前世などないと信じられている国でしたから、科学者である彼が、そんなことを世間に発表したら、どんなパッシングを浴びるかもしれず、医師としての地位まで失う可能性も十分あったので、発表すべきかどうか、心の葛藤が続きました。

 

しかし、彼はついに勇気を出し、その事を発表することにし、この『前世療法』という本が世に出ることになり、アメリカでベストセラーとなったのでした。その巻末には「この本が出版され、多くの人に読まれるようになってから、アメリカでは過去生があることを信じる人が少なかったが、アンケートでは信じる人が半数を超えるようになったと、「あとがき」か、「解説」に書かれていました。

 

更にまた、同じ医師仲間からは、「自分にもこんな経験があったが、人には話せなかった。よく発表してくれた」と連絡してくれる人も幾人かいた。また、「私にはこんな体験がありました」という多くの報告や、励ましのメッセージをいただいたとのことでした。

以上、『前世療法』という本について書きましたが、最後に、私はこの本を3回読んだと思うが、もう20年近く前のことなので、不正確なところもあると思う。ただ大筋や、この本が何を言わんとしているかなど、肝心なところは間違っていないと思うので、記憶のままに書かせてもらいました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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雨とアジサイ

2019年06月10日 | 

今日は1日雨でしたが、午後からは小雨になったので、近くの通称アジサイ寺に行きました。

アジサイは雨に濡れている時がきれいだし、やはり雨がよく似合う気がします。

そのせいか、雨でも割と多くの人が訪れていました。

 

毎年のことなので、お寺の境内をぐるっと一巡りして、カメラに収めて帰って来るだけですが、それでよい気分転換になります。

 

境内には花菖蒲も咲いているし、木々も茂り、雨に濡れた緑がみずみずしく感じます。

もしアジサイという花がなかったら、日本の梅雨もきっと寂しくなるに違いありません。

 

「雨、雨、降れ降れ母さんが 蛇の目でお迎え嬉しいな・・・・ぴちぴちじゃぶじゃぶらんらんらん」とうたったのは子供のころ。

「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん」は「子連れ狼」の大五郎。

 

「雨、雨、降れ、降れ、もっと触れ」とうたったのは八代亜紀。
その当時の小学生の女の子はみんな踊ったらしく、私の兄の娘もいかにもそれらしく上手に踊るのを見て感心したことがあります。
その娘も今はもう40歳を過ぎている。

 

そう言えば、歌謡番組で、前川 清が話していましたが、たいがいの観光地は雨降りには観光客は少なくなるけれども、長崎は「長崎は今日も雨だった」という訳で、雨でも観光客は減少しない。それで当時の長崎市長に喜ばれたという話をしていました。

 

長崎で思い出しましたが、高校1年の時、練習船で1ヶ月の短期実修の時、長崎にも入港し、グラバー邸や孔子楼を見学しましたが、その日の夜、夢の中で鮮やかな朱色の孔子楼が夢の中に出て来てはじめてカラーの夢を見たのがこの時でした。

 

それはさておき、ありふれた写真ですが、見ていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後まで見ていただきありがとうございました。

 

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映画『長いお別れ』

2019年06月07日 | 映画

昨日は午前中で仕事が終わったので、午後から日傘を買いに行くことにした。そして、予想最高気温が32度を超えそうだったので、こんな時には「涼しく映画を」と云う訳で、『長いお別れ』というのを見てきました。

 

私の場合、10年前までは洋画を見ることが多かったが、それ以後はもっぱら日本映画ばかりで、洋画はすっかり興味がなくなり、BSのシネマも録画もしなくなりました。アクションよりドラマの方が面白いと感じるようになったのがその理由です。そして、ドラマと共に役者さんの演技を楽しむようになった、そんな感じです。そのきっかけとなった映画が『ジェネラル・ルージュの凱旋』であり、少し後の『ステキな金縛り』でした。

 

さて、今回の映画『長いお別れ』は、山崎 努が演じる高齢の主人が認知症になり、それを支える家族の物語である。だから娯楽作品ではなく、物語としては暗くなりがちだし、地味だが、妻の松原智恵子、次女の蒼井優、外国に暮らす長女の竹内結子の好演が、この暗くなりがちな映画を花あるものにしていて、そこがなかなかいいのでした。 

そして、「いい映画だった!」というのが、私と家内の感想でした。

 

なお、蛇足ながら、

『長いお別れ』というのは、認知症が少しづつ記憶が失われていくことをいっているようです。

 

 

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「365日の紙飛行機」

2019年06月04日 | 人生

或るブログに「なんとか48」というアイドルグループの歌の動画があり、再生して聞いてみると、歌詞がとても良かった。それで歌詞を検索したのだが、下にあるのは、検索した歌詞をそのままコピーさせてもらっていたもので、久しぶりにそれを見て、あらためてとてもいい歌詞なのに感心し、ここにも掲載させてもらうことにしました。

こういう素敵な歌詞が、若者たちの間で歌われているとしたら、とても素晴らしいことだと思う。

 

4,5年前に息子の結婚式の余興でアイドルグループの「恋するフォーチュンクッキー」の一部分を踊る羽目になったが、その歌詞もとても素敵だったのを思い出します。このような歌がたくさんの若者に歌われるなら、「未来は明るい」と感じるのは私だけではないだろう。

 

相変わらず暴力沙汰を繰り返してマスコミをにぎわす大人は、童心に返り、若者と一緒にこのような歌を歌い、踊るようになったら、暴力沙汰も消えていくに違いないと思う。

 

  「365日の紙飛行機」  作詞 秋元康

    朝の空を見上げて
    今日という一日が
    笑顔でいられるように
    そっとお願いした

    時には雨も降って
    涙も溢れるけど
    思い通りにならない日は
    明日 頑張ろう

    ずっと見てる夢は
    私がもう一人いて
    やりたいこと 好きなように
    自由にできる夢

   ✱人生は紙飛行機
    願い乗せて飛んで行くよ
    風の中を力の限り
    ただ進むだけ
    その距離を競うより
    どう飛んだか
    どこを飛んだのか
    それが一番大切なんだ
    さあ 心のままに
    365日

    星はいくつ見えるか
    何も見えない夜か
    元気が出ない そんな時は
    誰かと話そう

    人は思うよりも
    一人ぼっちじゃないんだ
    すぐそばのやさしさに
    気づかずにいるだけ

    人生は紙飛行機
    愛を乗せて飛んでいるよ
    自信持って広げる羽根を
    みんなが見上げる
    折り方を知らなくても
    いつのまにか
    飛ばせるようになる
    それが希望 推進力だ
    ああ 楽しくやろう
    365日

✱繰り返し

    飛んで行け!
    飛んでみよう!
    飛んで行け!
    飛んでみよう!

 

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「神はいる」と思うようになったきっかけ

2019年06月03日 | 人生

 

私が「神はいる」と思うようになったのは、谷口雅春先生の『生命の実相』を読んだのがきっかけだった。

当時私が思っていたのは、もし仮に神が本当にいたとしても、目に見えない神を納得できるように説明することは至難と思っていた。ところが、この本を読んで、「神はいない」と考えるよりも、「神はいる」と考える方が、はるかに理論的であり、知的であり、実際の人生と照らし合わせても、いろいろの面で筋が通っていることを知り、読み進むにしたがって感動を覚えながら「神はいるんだ!」と思うようになりました。そして、次の1節が、その思いを決定的にした。

 

○「神は人間がこしらえたものであって、神など存在しない」という人がいるが、それは一面においてはそうかもしれない。しかし、人間の中に神がいなかったら、人間はその神をこしらえることもできないのである。人間が神を造ったということは、人間の中に神がいるからであり、人間の中に神がいるということは、神が人間を造ったという事でもある。

 

と、凡そこのようなことが書かれていた。

 

さて、神とか仏とかいう言葉から神罰とか仏罰という言葉を連想する人もいるかもしれないが、それは常識的に考えておかしな話だと思う。

 

先日、スポーツの世界でコーチの暴力がまた話題になったが、そのような人間の世界でも非難されるようなことを、神様がすると考えるなら、それはナンセンスというほかはない。

 

「罰」という言葉を使って、もし脅しをかけることがあるとしたら、罰はなくともその脅しそのことが、人間として褒められたことではないし、子供によく言われる「神様の罰が当たるよ」などと言うのも、やめた方がよいに違いない。

 

           合掌す 君のいのちに

           礼拝す 吾のいのちを

           聖なるかな 神の愛ぐし児

           聖なるかな 神の愛ぐし児       「いのち柱の歌」より  谷口雅春作詞

 

わたしには、はるかに遠いけれども、一歩づつでも進んで行こう思う。  

 

 

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