気の向くままに

山、花、人生を讃える

私はガラ系フアン

2021年02月20日 | その他

今日、明日と暖かくおだやかな気持ちの良い日になりそうでありがたい。

 

昨日、修理に出していたパソコンについて、取替部品が多すぎて保証限度(パソコン費の半額まで)を超えて、4万円以上もこちらの負担が必要とのこと。ということで、新しいものと取り換えるとのことだったが、新品にすればまた、同じように諸設定の費用がかかるのであるが、仕方がなく交換してもらうことにした。この場合は、故障前の半年分ぐらいの写真や、本から抜き書きしていたものが失われることになるがやむを得ない。

 

現在は家内の古い機種を使用しているが、家内は携帯をスマホにしてからはほとんど使わなくなっているので、おかげで、私が部屋に持ちこんで気兼ねなく使わしてもらっている。

 

私の携帯はまだガラ系を使っているが、ガラ系で十分だし、スマホより小さくて携帯に楽だし、経費も安いというわけで、スマホにするメリットがない。2026年までには変えなければならないが、ぎりぎりまでガラ系様のお世話になるつもりでいる。

 

それにしても、どうしてガラ系を使えなくしてしまうのか。
そんなことを言うなら、もう携帯などいらないと言いたいが、そういうわけにもいかないところが、悔しいじゃござんせんか。

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俳句の思い出

2021年02月17日 | 人生

船会社は多分どこも似たようなことをしていると思いますが、文化費が会社から支給され、その文化費で月刊誌や週刊誌を毎航海毎に購入し、それを航海中に皆で廻し読みをしていました。

 

わたしが船会社に就職して4年目、4度目の乗船の最初の航海でしたが、出港して1週間ぐらいしたときのこと、8時から12時の4時間の当直を終え、それから昼食をいただき、くつろいだ気分で自分の部屋のソファにもたれ、回覧されてきた月刊誌のページをペラペラめくり、何気なく文芸欄を読み始めました。

 

すると、その文芸欄には万葉集か、古今和歌集か覚えてませんが、「あかあかと」という形容詞が複数の歌に使われていることや、その「あかあか」とはどんな感じかということに触れ、そのあと、芭蕉の「あかあかと日は面難(つれな)くも秋の風」という句が紹介され、言葉は同じ「あかあか」でも、ニュアンスが違うということが説明されていました。

 

その「あかあか」のニュアンスについてはともかく、わたしはこの芭蕉の「あかあかと日は面難(つれな)くも秋の風」を読んだというか、目に入ったというか、その瞬間に、意味も何もわからないのに、いきなり脳天をハンマーで叩かれたような衝撃を受け、真っ暗になった脳裡の中に芭蕉の横顔が見え、その芭蕉は山の斜面を黙々と歩いていました。傾きかけた秋の日差しがその横顔を照らし、その横顔は如何にも「内に激しさを秘めた」と云う感じで、赤く染まっていました。

 

ふと気が付けば、太陽から凄い気迫がほとばしり出ているのにびっくりし、心配するような感じで「芭蕉は?」と芭蕉に意識を向けると、芭蕉は少しもその気迫に負けてないで、物凄い気迫で太陽からの気迫を跳ね返していました。しかし、太陽はただ照っているだけですし、芭蕉も静かに黙々と歩いているだけです。その静かな中にも、目に見えない気迫が迸り、ぶつかり合っていて、その気迫に打たれたとき、自分の中の血流が一瞬脳裡に見えたかと思うと、今度はいきなり海の大波となって私に押し寄せてきました。あまりのことにビックリし、思わず「何事だっ!」と心の中で叫びながら前方を見ますと、エネルギーか気迫の象徴のように大波が次から次へとウワ~ン、ウワ~ンと唸りを上げ押し寄せて来ます。それは、実際に実物以上のリアルさでした。その大波に、ソファに座った上半身を前後に揺さぶられながら、私はただ茫然自失。なすすべもなく、ただ呆気にとられ、成り行きを見ているだけでした。

 

やがてその大波もおさまりましたが、私の中の血流は寄せては返す漣のように、余韻の如く、打ち震えるように、いつまでもひたひたと波打っていました。そして1ヶ月ほどは、「どうしてこんなことが起こりうるのか」と不思議でならず、「不思議だ!不思議だ!」の思いが湧くばかりでした。

 

昔から、「狐に化かされる」とか、「狸に化かされる」とかの言い伝えがありますが、私の場合は「海坊主」に化かされたのかもしれません。しかし、こんな経験をさせてもらえるなら、何回でも化かされてみたいものだと思います。

 

その2航海後だったか、俳句とは何かを知りたいと思い、せっせと俳句の本を読んでいて、芭蕉の面影を追うように、無性に秋の山に登りたくなっていました。そして、サンフランシスコ郊外の港に着いたとき、10月の始めだったと思いますが、そこから見えた200か300メートル位の低い山に、道に迷わないだろうか、予定の時間までに戻れるだろうかと心配しながら、夢中になって登ったのですが、これも記憶に残る思い出です。 

最後まで読んで頂きありがとうございます。

 

【後記】
ややこしくなるので詳しいことは書きませんが、「不思議だ、不思議だ」と言っていたときに、時たま掲示板に貼り付けられていたカーフェリーからの「高級船員募集」との貼り紙を見て、急にカーフェリーに変わろうという思いになり、即決し、洋上から無線電話でフェリー会社へ応募しました。そして、なんなくカーフェリーに転職することができ、その半年後に婚約し、さらにはその半年後に結婚しました。
それまで、特別な事がない限り、その船会社を辞めるつもりはなかったので、まさに運命の急展開と言える出来事でもありました。

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嬉しい「春の使者」

2021年02月14日 | 

「春の使者」とは一般的に何を指して言うのかとYahooで調べたところ、色々の樹木や山野草の花、あるいは渡り鳥だったりと色々で、特に「これ」と決まったものではないらしい。それで、人それぞれの「春の使者」があって良いのだと知った。

 

それで私にとっての「春の使者」は何かと言えば、やはり「蕗の薹」を一番に挙げたいと思う。何故かと言えば、私が子供の頃、父親が春先になると、この蕗の薹を指先でちぎり、みそ汁に入れてその風味を楽しんでいたのを思い出す、その懐かしさがあるからである。

 

この蕗の薹は、もうだいぶ以前から私の住む地域では見られず、山へでも行かなければ見られなくなった。
そして私が40歳を過ぎて山に登り始めたころ、蕗の薹を見つけると懐かしくて、思わず「あっ、蕗の薹!」と心が歓声をあげた。

 

その蕗の株を家内が友達からいただいて花壇に植えていたものが、一昨年は2つぐらい出来、みそ汁に入れて懐かしい風味を楽しみ、そして去年は6つできて、天麩羅にして食べさせてもらった。

 

昨日、そろそろ蕗の薹が出ている頃ではないかと思いつき、花壇を見れば、7つ程出来ていた。もっと増えることを期待していたので、去年より一つ増えただけなのでちょっと寂しいが、それでも無事に7つも出来てくれたのだから嬉しい。

  

『野草の名前』と言う本によると、蕗の古名は「山生吹(やまふぶき)」と言われていたようで、趣のある名だと思うが、現在は最後の吹(ふき)だけが残り、蕗になったと推測されている。

 

ともかくそんなことで、私にとって「蕗の薹」はうれしい「春の使者」なのである。

 

 下の写真は昔、山で撮った蕗の雄花

  

  

  雌花  やがてタンポポのような白い綿毛となって飛んで行く。

  

『野草の名前』という本には。「山生吹」の「生」は生きるとか、生まれるの意味を持ち、「吹」は吹き出すとか盛り上がるなどという意味合いがあり、自生する蕗の様子を語っている、と書かれていて、蕗の薹や雄花、雌花から 成る程と思ったことでした。

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キンカンあれこれ

2021年02月09日 | その他

昨日はキンカン200グラムで甘露煮を作った。私が作るものだから、キンカンを半分に切って種を出し、少し煮て、あとは砂糖をまぶすだけのものだが、私の唯一の料理と言える。

去年まではジャムにしていたが、今は朝食のパンに「とろけるチーズ」を使っているので、今年は甘露煮にしたと云う次第。

ネット上のレシピを見ると、砂糖の使用量はキンカンの半分になっているが、私の場合は二人で一週間しないうちに口に入ってしまうので、適当な甘さがあればよいと云う訳で、砂糖は35グラムしか使わなかった。

 

キンカンを煮て灰汁が出た後のお湯は捨てられるようだが、冷めた後でこれを飲むと、砂糖も入ってないのに甘みがあり、どんなジュースよりも旨く感じられて私は気に入っている。甘露煮よりも、こちらが楽しみなぐらいなのだが、灰汁は身体に良くないのかと思って検索してみたが、別にそうではないようで、ただ苦味を取ると云うだけのことのようだ。しかし、このジュースに苦味はなく、独特の味がしておいしいのである。

 

ところで、或る人のブログに「キンカン」は秋の季語と書かれていたので、本当かと思い確かめてみると間違いなく秋の季語になっていた。今頃の時期になると「キンカン」が話題になったりするが、秋には剪定の時以外に話題になることも無いので、あまりピンとこない。しかし、誰が決めたのか、そうなっているのだから仕方がない。(笑)

 

もう一つ、宮崎県はキンカンの日本一の生産地らしいのですが、その宮崎県の日南市のふるさと納税特設サイトには、キンカンの5つの効能が示されていて、その中に「血流の改善」として次のように書かれているとのこと。そのコピーをここに掲げさせてもらいます。

 【4】血流の改善
金柑の皮には、ヘスペリジンという成分が多く含まれていて、
・血管を縮め高血圧の原因となる、活性酸素を抑えるビタミンCの吸収を助ける
・しなやかなで強い血管を保ち、毛細血管への血行を促進する
・血中悪玉コレステロールを減らし、善玉コレステロールの数値を安定させる
という効果が期待されてます。

ということで、まだ沢山のキンカンが生っているのでせいぜい戴かせて貰おうと思っています。

 

下は「サル真似」の絵ですが、京都の「哲学の道」とか。

 

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ドラマ「伴走者」を見て

2021年02月07日 | ドラマ

去年の年末に『伴走者』というドラマが放送されました。BS-TBS開局20周年記念で制作されたドラマの再放送とのこと。良い作品かどうかわからないまま、念のために録画しておいたのだが、見ると、記憶に残る素晴らしい内容の名作でした。

 

物語は、欧州のサッカーチームに所属する一流の花形選手が、突然、失明するというアクシデントに見舞われる。そして彼のもとから潮が引くように、一人去り、また一人去っていくのだが、一人だけ彼の通訳をしていた女性が、そんな彼を見捨てて去ることが出来ず、唯一彼女だけが残り、彼女だけが失明した彼の苦悩を知っている。

 

彼は突然の失明によって、栄光のスターの座から、絶望の淵へと引き落とされた。
しかし、暗闇の中をさまよいながら、彼の本当の人生は、そこから始まるのだった。
彼は目が見えなくなって、それまでの栄光はただの泡のようなものだったと気づかされたのではないだろうか。

 

そして彼は無意識ながら、たとえ失明しても彼の中にあって消えることのない本当の栄光を見つけようと動き始める。
そしてパラリンピックのマラソン出場を目指し、マラソンに挑戦するのだった。

 

その彼の伴走役に選ばれたのが、実業団の駅伝チームに所属しながら、戦力外とされた、もう一人の主役だった。
そうして、二人の男のパラリンピック出場を目指しての挑戦が始まった。

 

二人の主役は、目に見えない本当の栄光をつかもうと、ライバルと競り合い、ひたすら走る。
そしてトップでコールするが、伴走者が勇み足で先にゴールしてしまい失格となる。

 

失明していた方の主役は最後に号泣するが、失格になったから号泣したのではない。
必死に走ったあと、倒れこんで無心になっていた時、目に見えない本当の栄光が、彼の中で輝き始め、何かが込み上げてき、人目も構わず号泣するのだった。それこそが闇の中でつかんだ本物の栄光だったのではないか。

 

このドラマは私にとって始めて見る役者ばかりでしたが、本当に見ごたえのある素晴らしいドラマでした。

失明と言えば、一昔前に上映された「武士の一分」という時代劇が思い出されます。
こちらは、お殿様の毒味役である一人の武士が、毒にあたって失明する所から始まりました。
目が見えなくなれば、もう自分一人では生きられず、ただ奥さんの世話になりながら生きるしかすべがない。
そう考えて彼は死のうとしますが、そこからまた別の人生が始まるのだった。

 

ちなみに、『伴走者』の出演者は下記の役者さん達です。拍手!

   日清食品陸上部    淡島祐一   吉沢 悠(ひさし)   
   失明したサッカー選手 内田健二   市原隼人
   内田のマネージャー役 高倉真希   北乃きい

 

以下は映りが悪いですが、テレビから撮った写真です。

  足の痛さをこらえ、必死に走る。左が伴走者、右が失明した元サッカー選手

  

 

  前を走るライバルに迫る

  

 

  ゴールインして倒れこむ二人

  

 

  号泣

  

 

  最後は、彼を見捨てず支えてくれた彼女にプロポーズ

  

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田舎で見つけた作品

2021年02月05日 | その他

今日は冷たい風もおさまり、日も射し、少し暖かな日になりそうで有難い。

昨日は散歩にカメラを持って出かけ、こんな写真を撮ってきた。

  

少し遠くから見た時は、作られた案山子と分かっても、お巡りさんのように見えて、うまく作ったものと感心させられた。通りがかりの人が見て楽しいのだから、作った人はもっと楽しかったはずだと思う。(ポイ捨てをする人間は全然楽しくないが・・・)

何年か前に梅祭りに出かけた時には、途中でこんなモノを見かけ、車を止めて写真に撮らせて貰ったが、下の写真はいろいろあったうちの一つ。

  

 

年末・年始の番組で「英雄たちの選択」だったか、その特集で「縄文・弥生・古墳」時代を取り上げていて、いろんな表情をした土偶を見られて楽しかった。

 

それから、2年ほど前に見た別の番組では、現代人の血液を調べ、その結果、縄文人の血が17%だったか混ざっているという話をしていたので、土偶や埴輪を作った血が、現代においてはこの様なものを作らせているのかも・・・と、そんな考えが頭に浮かんだ。もちろん、何の関係もないただの空想に過ぎないが。

 

しかし、今はコロナ禍で一時的に停滞してはいるが、大量生産、大量消費の時代で、自分で作るより買った方が早くて安いということで、自分で何かを作るという事はなくなってしまった。だから、このような廃品を利用した手作り作品に、何とない親しみを感じたりするのは、そんな影響もあるかも知れませんね。

 

自分も、廃品をかき集めて鳥の巣箱でも作ってみようかな。

カラスの方がよほど上手で、カラスに「カーカー」笑われたりするかもしれないが・・・あっはっは。

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「祈る」ということ

2021年02月04日 | 信仰

もう3年前になるかと思うが、救急車を呼んで家内を病院で見てもらう事になった。
診察の結果、肺がんが見つかったと聞かされた時は、一瞬、顔が蒼くなるのを感じたが、幸い、まだ初期段階とのことで、医師も「これは治るから大丈夫」と言ってくれたので、安心した。

 

私は、それでも手術をせずに済んで欲しいとの思いで毎朝祈った。が、祈りの効果はなく、手術することになった。
多少の自信はあったのに、まるで効果がなかったことにがっかりしたものだった。

 

しかし、だからと言って祈りの効果を否定するつもりはなく、ただ信仰が足らなかっただけのことと思っている。
そして何の効果がなかったにしても、なすすべもなく、ただ医者任せにするしか仕方がないというよりは、ともかく祈った点については良かったと思っている。これが無ければ次への一歩はあり得ないからだ。

 

もし、仮にこの時、医者が「あなたの奥さんのガンは、もう手遅れでどうにもできません」と言われたとき、祈ることも知らず、ただおろおろと心配するだけの自分だとしたら、情けないし、無念さを感じるに違いない。そして、なすすべもなかったことが、きっと悔やまれるに違いないと思う。

 

ちなみに、ガンなど祈って治るわけがないという人もいると思うが、しかし、それは病理学だけにとらわれた見解に過ぎないと思う。ガンなどは元々あったわけではなく、途中で生理作用か何かの影響で作られたものであるに違いないから、その生理作用に影響を与える精神状態が劇的に変わったりすれば、ガンが消滅する等のことはありうることだと思う。実際、「笑う」事が治療の効果を高めるとして、笑いを取り入れている病院がテレビで紹介されていたし、世界には医者が見放したガン患者が、本人か、その夫とか妻の信仰などで奇跡的に治ったという実例は探せばいくらでもあると思う。

 

それはともかく、治る治らないの結果は別にして、どんな場合でも、「お手上げ」などという事にはならないようにしたいものだと思う。
八方塞がりに感じられても、天の蓋はいつでもオープンにされているのだから。

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番組「スピリチュアル・ジャパン」を見て

2021年02月03日 | 人生

昨日、テレビの番組欄を見ていて、BSⅠの「スピリチュアル・ジャパン」という放送があるのを見つけたので、録画して見ました。昨日は節分にちなんだ「鬼」をテーマにしたものと、「雪」をテーマにした、それぞれ30分の2回の放送でした。

 

その内容は、日本にいる若い外国人男女の二人が、外国人の立場から日本人は「鬼」を、あるいは「雪」をどのようにとらえているかを現地取材しながら日本人のスピリチュアルな面を探求していくという、そんな番組で興味あるものでした。

 

「鬼」については東北地方の取材で、恐ろしく忌み嫌うべきものというイメージではなく、親しみをもって捉えられていることや、さらにはその家の守護をしてくれる守り神として祭られている地域もあり、守り神というそんなとらえ方まであることが紹介されていました。(外国にも鬼がいるそうだが、怖いものとしてとらえられているらしい)

 

そして、何故豆なのかと質問した時、あるお寺の坊さんが「豆(マメ)」は「魔滅(マメツ)」の意であると答えていて、「あ、なるほど~!」と思った事でした。

 

そして道行く人に「あなたにとっての鬼とはどんなものですか?」というような質問を数人にしていたが、全員が「鬼は外にいるのではなく、自分の内に住む魔」という意味で答えていました。

 

このように誰でも自分の内に魔(鬼)がいると思うのですが、この魔とどう向き合っていくか、ある意味では、対人関係以上に難しいかもしれませんね。親鸞聖人のような人でさえ「煩悩具足の凡夫」とか、「心は蛇蝎の如く」と嘆いていられるし、西洋ではあのパウロも同じように嘆いているとのこと。

 

しかし、こんなふうに嘆いている親鸞やパウロが何故民衆に説教などしたのだろうか。
この人たちは、その内に住む魔を嘆いてばかりいたのではなく、「魔」のさらなる奥には「聖なるもの」があることをはっきりと見抜いていたのではないだろうか。
親鸞上人は「善人なおもて往生す。増して悪人をや」と説いているし、
イエス・キリストも「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」と教えている。

 

もう一つのテーマ「雪」の方も、その取材地は雪国、即ち東北でしたが、こちらは「かまくら」が紹介されていました。沢山の小さい「かまくら」にはロウソクが灯され、とても幻想的でしたし、大きな「かまくら」では子供たちがその「かまくら」の主(あるじ)となり、訪れる客たちに「中に入ったんせ」と声をかけ、餅を焼き、甘酒や焼いた餅をふるまったりしていて、まるでおとぎ話を見るようでした。

 

子供の頃、正月に遊ぶカルタには「かまくら」の絵があり、「かまくら」の中に入ってみたいと憧れたものでしたが、そんな取材をしながら、雪国の人たちは、雪を恐れるのではなく、雪と調和した生活を営み、雪を神聖なものとしてとらえられていることが紹介されていました。

 

こんな番組を見ていたら、「雪の結晶」に関する好きな文章を読みたくなり、抜き書きしていたものから検索したところ、次の4つが掛かってきたので掲載します。

 

○雪のひとひら以上に完璧なものを見たことがあるだろうか?その精妙さ、デザイン、対称性、一つ一つが雪の結晶としてあるべき姿を保ちながら、同時に個性的でもある。まさに神秘的ではないか。あなたがたは、この自然の驚くべき奇跡に驚異の念をいだくだろう。雪の結晶についてこれだけのことができるわたしなら、宇宙についてどれほどのことができると、あるいはできたと思うか? 

 

○いいかな、わたしはすべての花であり、虹であり、空の星であり、すべての星をめぐるすべての惑星上のすべてだ。わたしは風のささやきであり、太陽の温かさであり、それぞれが信じられないほど個性的で、しかもこの上なく完璧な雪の結晶のひとつひとつだ。

 

○なぜ、同じ雪の結晶が2つないのか?それは、不可能だからだ。「創造」は「コピー」ではないし、2つとして同じ雪の結晶はないし、同じ人間はいないし、同じ考えはないし、同じ関係もないし、同じものが2つ存在することは絶対にない。宇宙は――そしてその中のすべては――単数でしか存在しないし、同じものは他にはないのだ。          
                                  以上はニール・ドナルド・ウオルシュ著『神との対話』1~3巻より

 

○あなたは雪の結晶だ。生命を表現するために完璧な、この世に二つとない個性をもって、神の世界から舞い降りてきた。地上に着くと、あなたと同じように息をのむほど美しい個性をもつほかの者たちと一緒になって、より大きなスケールで美しい景色をつくりだす。やがてあなたは形を変え、一つに溶けあい、小川をさらさらと流れていく。そして、天へと昇っていき、消えてしまう。(あなたはそこにいるが、ただもう目には見えないのだ)あなたはこうして、来たところへ帰り、再びサイクルが始まる。雪の結晶の旅は、魂の旅の完璧なたとえだ。   ニール・ドナルド・ウオルシュ著『10代のための「神との対話」』より

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何々がやめられない

2021年02月01日 | その他

おはようございます。
今日は新年祭のあと二度目の名古屋に用事があって出かけます。
本来なら出勤の渋滞を避けて6時半に家を出て、「コメダ」でコーヒーを飲みながら時間調整するのだが、コロナの影響でそれも出来ないので、7時30分の出発。

 

その前に投稿しておこうと急いでこれを書いているところです。
先日、あるブログでバラの絵を見て、どうしてこんなふうに描けるのかと、不思議に思って見ていたのだが、昨夜、探したわけではないが、ネット上の水彩画教室で1輪だけのバラが描かれているのを見たので、ふと試しに、挑戦してみる気になりました。

 

描きあがって、「これはな~んだ?」と家内に見せると、

「わあ、上手!!・・・ちゃんとバラに見えてるよ」との評。

それですっかり気を良くしている次第です。

     

 

とはいっても、バラのように見えてもなんか変、という感じですが、まあ初めてにしては上出来ということで。

 

昨日、俳句作家の夏井いつきの「俳句旅」(?)だったか、そんな番組を見ていたら、80歳を超えたみかん農家のばあちゃんが、はにかむような笑みを浮かべて「いくつになっても俳句はやめられない」と言っていました。

 

拙者も80まで生きていたら、はにかみながら言ってみよう。

「絵がやめられない」   はっ、はっ、は

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