気の向くままに

山、花、人生を讃える

人間、死んだらおしまい?

2022年06月22日 | 人間死んでも死なない

以下は生長の家で発行されている若者向けの月刊誌に書かれていたもですが、人間死んだらどうなるかについての会話で、興味深い話と思い、ここにも紹介させてもらうことにしました。一読していただければ幸いです。

 

後輩:この前、友人と学校で「人間は死んだらどうなるのか」っていう話をしたんです。友人は「人間、死んだら終わりだよ」って話していて、僕が「よくわからないけど、死んだら終わりじゃない気がする」って話したら、「そんなの死んでみないとわからないだろう」って笑われてしまったんです。

 

先輩:たしかに、死んでみないとわからないかもね(笑)。でも、多くの人はこの肉体自体が自分だと考えているから、肉体がなくなってしまえば、それで人間は終わりだと、その友人も思っているのかもしれないね・

 

後輩:「目に見えないものは信じないし、神様なんていない」ってその友人は言っていました。以前の僕だったら、同じように考えていたかもしれませんけど、生長の家で「人間は永遠のいのちをもった神の子」だと学んでからは、「そうなのかもしれない」と思い始めていたので・・・。肉体的な死を迎えても、本当にいのちは無くならないのか、まだ確信が持てないんです。

 

先輩:そうかあ。君の友人の「目に見えないものは信じない」という話も分からないことはないけれども、僕たちが大切にしたいと思っている、人を思いやる優しさとか、愛情とか、深く心に抱いている信念とかは、目に見えないものだろう。きっと君の両親は、これまでたくさんの愛情を君に注いできてくれたと思うし、それは君自身も一番よく知っているはずだよ。

 

後輩:そう言われてみれば、「目に見えないものはない」とは言えないですよね。

 

先輩:何よりも大切なのは、人間の生命の本質を見るという事なんだ。たとえば、どんなに綺麗なバラの花でも、いつかは萎んで枯れてしまうだろう。でも、時間がくれば、バラはまた新しい花を咲かせるよね。じゃあ、なぜバラが新しい花を咲かせ続けることができるかと言えば、そこに目に見えないバラの原型、言い換えればバラの「理念」があるからなんだ。人間の生命もそれと同じで、神様の創られた「理念」としての人間が、人間の生命の本質なんだよ。「生き通しのいのち」とは、肉体がなくなっても、その「理念」は絶対に消えることがないという意味なんだよ。

 

後輩: 愛情や優しさと同じように、目には見えないけれど、神様の「理念」が確かにあるっていうことなんですね。

 

先輩:そうだね。「人間は死んだら終わり」だと考えてしまうと、人生において様々な経験を重ねていくことが、結局は無意味だという事になってしまうよね。でも、人間はそうは思えないはずだよ。たぶん僕たちは、人生で学ぶ様々なことは決して無駄にはならないと、本当は知っているんじゃないかな。生長の家では、人生とは「学校」のようなものだと教えている。そして僕たちは何度も生れ変りながら、この人生という「学校」でたくさんのことを学びながら、自分の魂を生長させていくんだよ。

 

以上で引用終わりです。

さて、「死んだらおしまい」? それとも「死んでも死なない」? あなたはどう思いますか。

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ウオーキングとゴミ拾い

2022年06月11日 | 人生

私はできるだけ毎日1時間ほど歩くようにしているが、そのついでというわけで、風の穏やかな日には、ゴミ袋とゴミをつまむ道具を持ち、ゴミ拾いしながら歩いています。

 

3日前、ゴミを拾いながら歩いていると、若いおかあさんが寄ってきて、「すみません、クマのキーホルダーが落ちていませんでしたか?」と声をかけられた。クマのキーホルダーなら先ほど拾ったばかりなので、「あ、ありましたよ」と言いながら、ビニール袋の中から取り出すと、「あ、それそれ、良かったあ。どうもすみません、子供が電話をしてきて、探してきてというもんですから・・・」といって、喜ばれた。私は私で、落とし物ではないかと考えもせず、すぐごみ袋に入れてしまったのだが、子供の大切なものをゴミにしてしまわないで良かったと喜び、ちょうど良いタイミングで出会えたことに感謝したことでした。

 

また、昨日は、私より少し年配らしいおじさんが赤い花をじっと見ていたので、私が「こんにちは」と挨拶した。すると、「これ、きれいな花だねえ」とさも感心したように言う。私はこの時、ちょうどカメラをぶら下げていたので、せっかくだからとその花(タチアオイ)を写真に撮った。そして、「この花は植えられたものか、それとも一人生えだろうか」「そういえば、今まで、ここに咲いているのを見たことがないねえ」などとしばらく立ち話をしたあと、自然と並んで歩き始めた。少し歩くと、ゴミが落ちていたので、それをわたしが拾う。するとそのおじさん、さも驚いたように、

「あんた、ゴミを拾っているのか」というので

「あ~、歩くついでだからね」

「いや、そんなことを思いつく人なんかいないよ」としきりに感心する。そして

「あんた教師か」と聞く。

「いやいや、ただの人だよ」といって笑ったのだが、

「あんた教師か」と言われたのがおかしく、何故かうれしくもあった。

                     

ということで、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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花の絵でも描いてみたら・・・

2022年06月01日 | 人生

一昨年の今頃の時期、何となく絵手紙が書きたくなり、ブログの中にあった簡単な紫陽花の絵を見つけ、これなら描けそうと思い、昔買った水彩色鉛筆で描いた。そして、せっかく描いたからというので、友の誰かにその絵手紙を出したくなった。それで、絵に短い文章をつけ足してポストに投函。

送られた友はどんな反応をするだろうか、想像すると楽しかった。それが下の絵手紙です。絵も字も、まるで小学生低学年並みだが、これが記念すべき初めての絵手紙でした。 (笑)

     

で、これを見た彼氏、「ん、俺にはこんな女(ひと)いないがなあ・・・」と不審に思いつつ、差出人を見たらしい。私はそれを聴きながら「いたずら成功」と、喜んだ次第です。(他愛のない話ですみません)

 

あれから2年、昨日は家内の友達が、枇杷をもってきて、私に「これを書いて」というのだった。
こうして私などに初めてのリクエストが来ました。本来なら「とんでもない」と辞退するところでしたが、せっかくの乙女(笑)からのリクエストだからと思いなおし、恥ずかしながら、描きあげたのが下です。

       

最初に描いた紫陽花との差は歴然で、これでも、「我ながらうまくなった」と悦に入っている次第です。そして写真を撮ったあと、さっそく「うれし、恥ずかし」の気分でポストに投函したのでした。(他愛のない話ですみません)

 

しかし、とは言っても、「俺は強いんだぞ」と多くの人々を苦しめ、悲しませておきながら、自分の心は一つも傷まないらしい「あの人」には、下手でもいいからお花の絵でも描いてみたらどうかと勧めたくなるのです。あるいは、お国の民謡をピアノの伴奏に合わせて歌うとか・・・。そうやって少しは人間らしい心を取り戻し、ウクライナに早く平和が戻ることを願う次第です。

他愛もない話を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

後記
2ヶ月も空白のままにしているのに、投稿記事に「いいね」をいただき、心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。

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