気の向くままに

山、花、人生を讃える

サムシング・グレートを観る

2023年08月08日 | 人生

禅宗の『無門関』という本にはいろいろの公案(問題・問いかけ)が提起されているが、その中にこんな問いがある。

 

昔、中国の奚仲(けいちゅう)という人がたくさんの車をつくった。ところが奚仲(けいちゅう)は何を明らかにしたかったのか、せっかく作った車をまたバラバラにしてしまった。いったい奚仲は何を明らかにしたかったのか。という問いである。

 

これは、「車とは何か?」という問題のようですが、答えは車は部分品ではなく、また部分品を集めた全体でもなく、本当の車は、それを作った奚仲(けいちゅう)の心の中にある。なぜなら、本当の車は、荷物を乗せ、人を乗せ、そして「輪っば」を回転させて前に進むという、アイディアであり、理念であり、設計図である。だから、車はそれを製作した奚仲(けいちゅう)の心の中にある。そのことを奚仲は明らかにしようとした、というのがこの問いへの答えであるようです。

 

この「車とは何か?」という問いかけは、「会社とは何か?」でもあるし、「人間とは何か?」という問いかけでもあるが、腕をちょん切り、足をちょん切り、首をちょん切り、それぞれにお前が人間かと問いかけても、返事をしない。それなら全体に向かって「お前が人間か?」と問いかければ、「そうだ」と返事をしてくれるかもしれないが、いくら返事をしてもそれが正解とはいえない。なぜなら身体を人間と思っているかぎり、身体は峠を越えれば、衰え、しなびていくばかりであり、そのような存在には夢も希望もないからである。

 

しかし、人は身体のみ見ているのではなく、身体の奥にある目に見えないものをも見ている。だからこそ夫婦は年老いても、睦まじく暮らすことも出来るし、さらには自分自身が生長すれば一層明らかに背後にあるものを観て尊敬の念さえもつことも出来る。

 

形の車は朽ち果てても、本当の車はそれを考案した奚仲の心の中にあり、いつまでも慈しまれているのと同じように、われわれ人間も、その考案者である神(仏)の中にあって、いつまでも永遠に愛され慈しまれている。それは母親の心の中に、いつも、いつまでも愛しきわが子がいるようなものかと思う。

 

このように吾々は肉体的身体だけを見るのではなく、それ以上に、その背後にあるサムシング・グレートを観なければならないのではないか、そんなことを感じさせられているこの頃です。

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