気の向くままに

山、花、人生を讃える

ある夕景

2022年11月20日 | その他

我が家の近くに、川沿いのリバーサイドパークというちょっとした公園があります。そこに数本のユリノキが植わっていて、夕景をバックにしたそのシルエットが美しく、私の好きな写真スポットになっています。そこから撮ったものが下の写真ですが見ていただければ嬉しい。(10月下旬撮影)

 

 

 

○高き理想、気高き感情をつねにもつことは若さをいつまでも保つ上に異常の効果があるのである。心が常に向上精神に燃え、いっそう高きもの、いっそう清きもの、いっそう天的なものに憧れるかぎり、その人の心は老いず、その人の心が老いないかぎり、その人の肉体は老いないのである。谷口雅春著 『生命の実相』より

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芸術の秋を気取って

2022年11月10日 | その他

芸術の秋を気取って絵を描きました。
わざわざ見てもらうような絵ではないけれども、誰か見てくれる人がいれば嬉しいのが人情というもの。
それに、ご本人は「おお、ずいぶんうまくなったではないか」とご満悦。
どうぞ、そんな孤独な老人の、ささやかな喜びを思いながら見てやってください。(笑)

 

下は絵を描き始めたばかりの2年前に描いたもの

 

お口直しに写真もどうぞ。

見ていただき、ありがとうございました。

 

○あなたが鏡を見るとき、そこに映っているのが天使である。

               ニール・ドナルド・ウォルシュ著 『神との対話』より

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「人間とは?」

2022年11月06日 | 人生

統一教会の問題が今なおマスコミを賑わせていのす。これは人々に宗教否定の感情を持たせるのではないかと心配しています。

今の日本の社会を見ていると、大人の諸々の不祥事や、親の子供に対する虐待、自暴自棄から他を道連れにする自殺行為、子供たちのいじめ問題など様々な問題があるが、それらは結局、人間をつまらないものだという人間観が知らず知らずのうちに心の奥に潜在しているからではないかと思う。そうでなければ、結果が判り切ったような不祥事を起こすはずもなく、親が子供を虐待する筈もなく、また子供がその仲間を社会問題になるほどのいじめをする筈がないと思う。これらの底に横たわるのは、本人は意識していないかもしれないが、

「親のセックスによって、生まれたくもないのに生まれた」

「そんな人間に生れてきた意義などある筈がない」

「死ねばすべてはおしまい」

など、無意識かもしれないが、そんな人間観が災いしているとしか思えない。
これを改善するには、制度だけの改革では効果は得られず、どうしても、『人間はつまらないものだ』とする人間観を卒業して、『人間は尊い』(人間だけではないが)という、そんな人間観をもてるようにしていく必要があるのではないだろうか。

 

そのためには、釈迦やキリストの教えが必要になると思う。
そうでなければ、子供たちから「どうしていじめはいけないの」「どうして自殺がいけないの」と聞かれても、おそらく満足に答えられる人はいないだろうと思う。現に学校の先生は子供たちからそんな質問を受けても答えることが出来ず、困っているという相談を多く受けた、とある著名人は本の中で書いている。

 

さて、以下は何年か前にこのブログに投稿した過去記事の再投稿ですが、読んでいただければ嬉しいです。

 

 

偶然、ここへ漂着したあなたへ。

わたしは若い頃、生長の家の人間観にふれてビックリし、そしてその教えに傾倒していったのですが、あなたが賛成して下さるかどうかはともかく、その人間観をごく、ごく簡単に紹介させてもらいたいと思います。

 

水道の水は蛇口から生まれて来るのではなく、ただ蛇口を通って出て来るだけである。それと同じように人間も母親から生まれてくるのではなく、それはただ通り道にすぎない。人間の「いのち」そのものは神から生まれた「神の子」です。

もし、母親が子を生むなら、「男の子が欲しかったのに、女の子が生まれた」などということがありうるはずがありません。だから、昔から子供は神からの授かりものといわれています。

よく肉体をさして「わたし」の身体(からだ)といいます。この場合、「身体」の前に「わたしの」が付いていることに注意して下さい。「わたしの」の『の』は所有格です。だから、肉体はわたしの所有物であって「わたし」自身ではなく、わたし自身は別の「何か」であることをあらわしています。その「何か」が「いのち」です。

普通、肉体の生理機構が動いているから「生きている」ように思われている節がありますが、それは逆です。いのちがあるから肉体の生理機構も動いている。「いのち」が容れ物である肉体を動かしているのであって、肉体の生理機構が動いているから生きているのではない。だから「いのち」の容れ物である肉体を「カラだ」といい、いのちが去った肉体を「なきガラ」といいます。

人間の本質は無形の「いのち」そのものであり、「いのち」は「いのち」からしか生まれず、その「いのち」の本源を宗教では「神(仏)」と読んでいます。

 

○あなたは、あなた自身が今考えているような価値なき、つまらない者ではないのである。あなたは“物質”ではないのである。また肉体でもないのである。“生ける霊”なのである。“わたし”の分身なのである。分身というと本体から分離してしまったように誤解してはならない。あなたは“わたし”から永久に分離することのできない存在である。“わたし”は普遍的存在であるから何処にもあり、あなたの内にも住む。あなたの内に“わたし”は常に居り、あなたもまた“わたし”の内に常にある。
                        生長の家創始者 谷口雅春先生著 『神真理を告げ給う』より

 

この記事は統一教会を弁護するものではありません。  参考 インチキに誤魔化される勿れ

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