気の向くままに

山、花、人生を讃える

「我」のある人、ない人

2016年06月16日 | 信仰

金、土、日と教区練成会が開催されました。今、わが教区では練成会参加者拡大に力を入れていますが、6月の参加者数は教区全体で500人を超え、中でも教化部会場では250人を超えました。

私は今回は司会ではなく、受付担当で参加者の名前や住所等をパソコンに入力する役目でした。司会からなぜ受付にかわったかというと、前月の練成会が終わった後、参加者数があまりに多くて受付しながら入力するのは大変なので、わたしに入力係りをやって欲しいとご指名がかかり、喜んで飛び付いたというわけです。

そして、今回の練成会後、ついに来ました。例の神官の話です。いくらこちらがお断りしても、相手は簡単にはあきらめてくれないと覚悟はしていましたが、「困難から逃げてはいけない」それに「お前の為だ。やってみなさい!」という神様からの指示かもしれないという思いもあり、あっさり今月から月1回の作法練習に参加することになりました。

最初に話があった時には重い気分になりましたが、今は逆になんとない嬉しささえも感じているようです。

生長の家に入信した当初、古事記の素晴らしさ――古代日本人が人間を「日の御子」と把握した人間観、宇宙観などに日本神道の素晴らしさを知り、さらに同級生で神官になったものがいることを知り、「自分も神官になればよかった」と憧れたこともありました。その自分が、神官役をするようになるとは夢にも思いませんでした。

しかし、ここまではいいとしても、この上、もう一つの大役が来たらどうなるのか。いや、たいしたことはありません。もう、心の準備はできています。あれもこれもと大変かもしれないが、終わってみれば、「それなりにできました」ということになるでしょう。

こうして気が重く感じられたことも、神様に手紙を書き、神想観に励んでいるうちにこんな心境になれて嬉しく感じている次第です。

 私はさんざん心で葛藤した末にこのような心境になったのですが、その頃つくづく思いました。最初から、「ハイ(拝)」と受けられる人は素晴らしいなあと。それで、「我」のある人とない人の違いがわかり、それによって自分には「我」があることをはっきり知らされました。今まで本の中に「我を捨てよ」というようなことが書いてあっても、あまり気にとめてもいませんでしたが、今回、おかげで「我がある、ない」の違いを知るとともに、我のなくすことの大切さを教えられました。これから「我」をなくすよう心がけて行きたいと思っています。

 

○神の摂理として我々に来る所の総(すべ)ての経験の中には無限に賢き目的があるのである。≪中略≫世界はすべて神の摂理によって支配されているのであるから、若しその経験が不必要であるならばその経験は近寄って来ることはないのである。 『生活と人間の再建』P282

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嬉しくて,また寂しく

2016年06月06日 | 人生

6月1日、娘に二人目の子(二男)が誕生し、4日は最後に残っていた二男の結婚式だった。

「早く出て行け」と思っていたのに、結婚式が終わった翌日に続いて今日もなんとなくぽかんと穴が開いた感じ。

「とうとうお前も旅だったか」と思う。

 

 

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