気の向くままに

山、花、人生を讃える

スター・デーリー 番外編(つづき)

2009年11月25日 | スター・デーリー

昨日の続き、

それは、デーリーが刑務所を出て、街頭演説をしていた時のこと。
一人の20代の女性が彼に近づいて来て、こう相談を持ちかけたそうです。
「私は酒場で働いていて、そこから抜け出したいと思うのですが抜け出せないのです」
デーリーは答えて言う。
「あなたは20代だというが、40代に見えるじゃないか。もう2年もここにいると、あなたは完全に破壊されてしまう。なるべく早く出なさい」
彼女「どうしたら抜け出せるでしょうか?」

そこでデーリーは、その女性と共に喫茶店へ行き、先ず祈ったそうです。
そして、次の如く言いました。
「ただちに街頭演説をせよ。そして今まで自分がどんな者であったかを、自分のところへ酒を飲みに来る人々に告げることだ!これができたら、あなたはこの酒場から出ることができる!」
すると、その女性は震えながら答えた。「あなたが一緒についていてくれるなら・・・」と。

そして、彼女は街頭演説に立った。そして「神」という言葉を口に出そうとした。が、どうしても出なかった。どんなに力を入れても、声にならなかった。スター・デーリーも、声が出せるよう彼女を励ました。そして努力を続けた。ようやく声が出た。その声は側にいるスター・デーリーにしか聞こえない小さな声だった。が、その瞬間、「神の精霊が天下り、ほとばしるように話し出した」とのこと。

その彼女の前には500人以上の人々が集まってきていたとのこと。話したことのない彼女が、ほとばしるように演説を続け、やがて彼女の話が終わった。終わった時には、「彼女はもう元の彼女ではなく、すっかり真人間に変わっていた」とのこと。そして、彼女自身だけでなく、「友達を1人救って、酒場から出ることもでき、その上9人の男を教会へ引っ張って行った」とのことでした。

私は、最初、スター・デーリーのこの話を読んだとき、いきなり20代の女性に街頭演説をさせるとは、ずいぶん無茶な思い切ったことをさせるもんだなあと思いました。が、谷口雅春先生の文章を読んで、スター・デーリーの、最初は声も出なかったということを知り、なるほどなあと思いました。

スター・デーリー自身が、同じ経験をし、失敗しているからこそできたことだなあと納得し、失敗に見えても失敗ではなく、その失敗と見えることが、このようなところで生きてくるんだなあ、無駄は一つもないとは本当なんだなあと、教えられた気持ちになりました。


○人間には愛が絶対に必要である。ただ愛のみが、すべての罪から人間を自由にするのだ。
・・・・中略・・・・
愛が、私の身体を閉じ込めていた刑務所の扉を開いたように見えるのだが、実は、愛が私の心の中にあった扉を開いてくれたのであり、私の魂の中から手錠をほどいてくれたのである。私の魂の中の扉が開かれ、私の身体が刑務所から解放され、自由の身になったのである。その上、愛は私の身体の病をすべて取り去ってしまった。肺病、心臓病、アルコール中毒などはすっかり消えてしまった。当時の私は唾を吐くと血が出ていて、半死半生の状態であった。愛こそ、この世の完全な“癒しの薬”である。

○誰の魂の中にも、完全な愛が既に宿っており、その愛にふれると、たちどころにどんな難問題でも、どんな病でも消えてゆき、癒されるのである。愛しがたい人もあるが、その人々を愛することによって、神と間断なく触れ合うことができるのだ。


このような文章に接すると、わたしは感動させられながらも、その一方では、自分には愛がないなあということをつくづくと感じさせられ、ちょっと悲しくなります。そしてまた考え直し、「いつかは・・・」と心に誓いつつ、遠い未来の自分を夢見ながら、ともかく信仰の道に入らせていただいていることを有難く思います。(合掌)

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スター・デーリー 番外編

2009年11月24日 | スター・デーリー

私が飛田給の練成を受けた時、一緒に練成を受けていた人から聞いた話ですが、高倉健主演の「網走番外地」のモデルと言われていた人が、生長の家の本部講師として飛田給練成道場に数年前までいたということでした。

確か、野尻なんとかという名前の人だったと思いますが、日本教文社から「炎の青春」だったか、そのようなタイトルの本も出しておられて、私も読んだ記憶があるのを思い出しました。

この人は網走刑務所に入っているとき、お母さんから差し入れされた『生命の実相』を読んで、それから信仰の道に入り、本部講師になられた人で、日本版スター・デーリーと言えるのではないかと、ちょっと思い出したので書かせてもらいました。

さて、今日は、スター・デーリーの話の番外編です。

スター・デーリーは金庫破りの名人だそうで、すっかり改心してから一度だけ金庫破りをしたことがあるそうです。
それはどういうことかというと、銀行の金庫が壊れて、アメリカ中の金庫の専門家が開けようと挑戦したのだそうです。ところが、誰も、どうしても開けることが出来ず、最後にスター・デーリーのところへ頼みに来て、それをスター・デーリーが24時間を費やして見事に開けたのだそうです。

このような金庫破りの技を、スター・デーリーは誰に教わったかというと、これがまた面白いのです。
それは、日本で言う「ねずみ小僧」のような、義賊の秘密結社があって、デーリーは13歳の時からその秘密結社の親分に教えられたのだそうです。そして、その秘密結社について次のように語っています。

○彼らは富める者から金を盗って、その全部を貧乏人に与える義賊であった。ベッドの上で寝ず、レストランで食べず、家庭と縁を切り、普通の人の社会とは交際せず、百億ドル以上の金を盗んだが、それを全部貧乏人に与えた。そして、一度もつかまらなかった。

のだそうで、彼ら自身は椀を持って乞食に行き、それで生活していたとのこと。
そして、デーリーが秘密結社に入った13歳からの5年間というものは、物凄い訓練で厳しい期間であったとも語っています。しかしその秘密結社も、酒呑みの一人が入って来たのがもとで、チームが乱れ、解散となったとのこと。

いやあ、惜しいことですね。
今もこのような義賊がいたら、やんやの大喝采でしょうけどね。
私なら、ノーベル平和賞を贈りたいぐらいです。いや、これは冗談。
やっぱり義賊と云えども、「横取り」はいけませんよね。
でも、その秘密結社は、貧しい黒人たちに学校まで建ててやっていたりしたそうですよ。

○世界をまたにかけた、最悪の泥棒の親分であったという彼の眼は、時々、チラッと昔を想わせる凄さを見せていた。(徳久先生)

さて、強盗の親分、拷問にあっても屈しなかったほど剛のスター・デーリーですが、驚く勿れ、最初、獄舎の中で演説をしようと演壇に立ったとき、どんな状態であったかというと、つい3日ほど前に読んだ谷口雅春先生のご文章の中にはこんなことが書かれていました。

○スター・デーリーはどんな強盗の首魁でも彼の名前を聞けば震え上がる程に、肝の据わった泥棒であった。しかし獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇に立った時には、その肝の据わりはどこへやら、ボーっとして周囲が見えなくなり、一語も発することができないほどに、恐怖心を感じたのであった。

のだそうです。ここでは、谷口雅春先生は、「時として人には到底克服できない嫌悪や不快や恐怖を抱く心の傷があるものである。そういう心の傷は労わってやるべきで攻撃すべきではない」ということをお説きくださっているのですが、私はこれを読んだとき、あの迫真の演説からは想像できないスター・デーリーの一面を知り、「へえー!」と思いました。と、同時にスター・デーリーの次の印象的な話が思い出されました。

長くなったので、続きは明日にします。

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スター・デーリー(4)

2009年11月09日 | スター・デーリー

下記はスター・デーリーの高知刑務所における話です。 (「生長の家」誌 昭和60年5、6月号からの抜粋)
(文章を短くするため、一部カットや編集をしています)

――高知の刑務所で――     
○私は、ここで皆様にお目にかかることを、本当は希望しない。皆様がひとり残らず自由になって、ここを出られることを、私は最も希望する。
私の盗んだ金は、私の精神を根本的に破壊した。そして係官は、「お前をまともな人間にすることは、絶対に不可能だ」とサジを投げた。私は常習犯の折り紙を付けられ、折り紙を付けられたとおり、14年間も常習的に犯罪を続けた。健康は完全に犯され、魂は完全に死んでいた。私は、日々神を恨み、社会を呪っていた。

(スター・デーリーの体験の話が続くが省略。その体験を語り終えた後)

○つまり、罪というものは、人間の“迷い”である。あなたがたは罪の子ではなく、神の子である。
今、ここにキリストが立っている。キリストは、あなたがたの前にも後にも立っていて、「お前は神の子である!」と告げている。現実の目には見えないかもしれないが、心の目が開くと、それを見ることができる。すぐ間近に見ることができる。キリストに従って生涯を送るなら、再び問題は起こらない。キリストの愛であなたがたを守ることができるし、キリストは、あなたがたを導くことができる。また、あなたがたを希望に満たすことができる。なぜなら、あなたがたは神の子だからである。

○アメリカにおける刑務所は、罪に対する罰を与えるだけで、何かの職業に導いてくれるというようなことは一切なかった。私が神の救いによらずに刑務所を出ていたら、自分で仕事は得られなかったと思う。しかし、神は常に私と共にあって私を導き給うた。私は病院で働き、結婚し、良い妻と娘をもっているが、それは神の導きによって得たものである。私の本は世界中で読まれ、アメリカのあらゆるところで講演し、あらゆるアメリカの刑務所でも話した。
極悪人と自分も他人も思っていた自分に、こんなことができるのは、キリストの愛によって、私が神の子であると教えられ、それを信じたからである。私は教育を受けていないが、アメリカ中の大学や高校で講演したし、一番大きい大学の教授としての席をもらっている。欲しいと思えば大学教授の椅子ぐらいは、5つや6つはすぐくれるところがある。私は学校の教育は受けていないが、神から直接教育された。

○私は1日、4~5時間の祈りをする。それは、神と自分とを直接つなぐ必要があるからである。
私が祈っている時には神と一緒にいる。神と共にあれば、神は私を導いてくれる。
神は戦後の日本に行け、と私に告げられ、その扉は日本の生長の家によって開かれた。そして今、日本の町々で講演をしている。そして、日本の各地の刑務所で話をしている。それは私の力ではなく、神の力によるものである。

○今、私はあなたがたに話をしているように見えるが、それは、私への“神のささやき”を伝えているだけなのだ。
私の心のままに話をすれば、誤りを犯すことになる。“神のささやき”を話した時のみ、それは真理である。
私はひとつの耳で“神のささやき”を聞きつつ、ひとつの耳で、あなたがたがどんなことを要求しているかを聞いているのだ。

○あなたがたが完全な神の子として生きようと思うならば、真理の本を常に読み、祈るが良い。そうすれば、神が私を導いたように、神はあなたがたを導くことは間違いないのである。そして神が、あなたがたがこの世に生まれてきた使命を果たさせるのである。

○キリストが処女から生まれたということを、不思議だという人もある。キリストは父をもたない。アダムは母をもたない。それはなぜか知らない。しかし、それを信じる。キリストの復活も、私はそれを絶対に信じている。
「キリストは、本当の救い主か?」と尋ねる人もいる。キリストは、罪を犯した人を救ったかどうか、私は知らない。
しかし、キリストが、この地上に神の愛から生まれてきたことを、私は絶対に信じている。事実、私はキリストを信じた時、赦されて、罪から解放された。
キリストを信ずることによって、キリストの力が現れて救われるのだ。キリストは、私に説明したり弁解したりしない。キリストは、天国の知識を私に与えなかった。キリストは自分についてもぜんぜん説明しない。ただ“われを愛せよ”と言った。私はそれを信じて、キリストを愛することによって、今まで予想もしなかった力を得た。
なぜ力を得たか、私は知らないが、事実が証明する。

――高知刑務所の講演を終えて――
○今日、刑務所で話をしている時、私と通訳の横田さんとの間にキリストが立った。そして、皆の前で話せよということを、ひとつひとつ私に告げてくれた。
聴衆の前の方にひとりの若者がいたが、彼の側にキリストが立った。彼は魂が救われたと私は信ずる。
今日の集まりは、今までにかつてない厳粛な集まりであった。聞く人たちもとても厳粛であった。
そしてキリストが私に、“皆、神の子である”と告げた。私はそれを皆に告げたが、皆それを信じてくれた。
二人の若者が来て私と握手をしたが、その時、私の魂が手を通じて彼らの中へ流れ入った。
二人は罪から完全に逃れることを、私は信じる。彼らは神の子である。彼ら自身が自分を神の子と信ずれば、その通り行動する以外に、なにもない。われわれは信ずる通りになるのである。

☆    ☆    ☆

以上ですが、私はこれを読んで、これを聞いていた受刑者たちの感動を思いました。そして、自分もそこにいて、この話を聞いていたら、どんな気持ちで聞いただろう思いました。きっと、感動に震えながらキリストを見るような目で見ていたのじゃないかなと思います。

しかし、今はだめですね。思いっきり、自由気ままにぬるま湯につかっていますから。
そんなことを思うと、刑務所に入るのも有難いことなのかなあと、不謹慎なことまで考えました。

しかし、そんな私でも、新風を吹き込まれたことは確かです。
「信仰をしている」と言いながら、本当は、ちっとも「信仰してないんだなあ」と思いました。
いえ、これは「自分はだめだ」と言っているのではなく、「こんなことではだめだ」と少しながらも発奮させられたということです。

読んでいただきありがとうございました。

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スター・デーリー(3)

2009年11月08日 | スター・デーリー

誰からもサジを投げられていたスター・デーリーは、キリストの愛(神の愛)によって、一瞬にして生まれ変わり、刑務所内でキリストの愛を伝える伝道者となりました。
(刑務所内での伝道の様子については『愛は刑よりも強し』に詳しい)

そして、最も重い20年の刑から模範囚として減刑され、6年あまりで刑務所の扉が開かれることになり、1930年にスター・デーリーは刑務所を出ました。刑務所を出てからは、生活のため10篇ほどの短編小説を書いたとのこと。お金を貯め、自分の生活を確保したうえで、神の道につくそうとスター・デーリーは考えていたそうです。

しかし、ある時、ある婦人の手伝いで、800キロも離れた山の上にある家まで、家具を運ぶ仕事をしていたときのこと、突然にタイヤが外れて車が道路から落ちるというアクシデントがありました。車から降り、転がってゆくタイヤをつかまえようと走ると、タイヤが壁に当たって止まった。そのタイヤをつかまえ、ふと、その壁を見ると、壁には
「お前は、今、ただちに神を求めよ!」と書いてあったそうです。
それを見たとき、「神にすべてをささげよう」と決意するのですが、とりあえず二人は(奥さんと)真剣に、「この仕事を無事に終わらせてください」と神に祈り、その仕事を終わらせることができました。しかし、終わった途端に4つのタイヤはみんなパンクしたそうです。

そういうことがあって、短編小説をやめ、「神のための本を書こう」と決意して書かれたのが『愛は刑務所の扉を開く』だそうです。

徳久先生が、
「金儲けのできる医者をやめて、生長の家へ入ったことをバカだという友人もいるが、私は絶対正しい道を歩んでいると信じ、生長の家に入らせて頂いたことを、心から喜んでいる」と語った時、デーリーは、

○自分も小説を書けば、金はいくらでも儲けることはできるが、それをやめて神の道へ入った。アメリカの大きい出版会社が2つも巨額の金を先払いするから小説を書かないか、という話をもってきたが断った。それは1932年だったが、自分としては一大決心だった。

と、語っています。

『愛は刑務所の扉を開く』は1934年に出版され、人々に大きな感動を与え、スター・デーリーはアメリカ中を講演してまわるようになりました。また講演だけではなく、大学からは「教授になってもらいたい」という誘いも、一つや二つではないとのこと。また、

○上院議員の牧師にきてくれという話もあった。アメリカの最も有名な、アブラハム・リンカーンの創立した教会の牧師であった。私はその教会のメンバーでもないのに、そのような申し込みを受けた。だから真理に立脚していれば、あらゆるものの扉は開かれる、ということを私は知った。

とも、語っています。
このように、「キリストの愛」によって救われたスター・デーリーですが、さらに自身の「神の道に生涯を捧げる」という一大決心が、彼自身の生涯に栄光をもたらし、また多くの人に感動と救いを与えることになりました。

≪余談≫
スター・デーリーの「一大決心」に至る経緯は、谷口雅春先生が「お金がたまってから」と考えておられたとき、「今立て!」との啓示を受けられた経緯とよく似ていると思いましたが、それと同時にその「一大決心」という言葉から、わたしは『神との対話』の中で語られていた、
「わたしからの啓示を受けながら、どんなに多くの人が沈黙してきたことか」
という一節を思い出しました。

谷口雅春先生も求道の末、最後に「物質はない!」から始まる啓示を受けられたわけですが、もし、世間からの批判を恐れたりして立ち上がられることがなかったら、「人間神の子」の教えに触れることもなかったわけで、それを思うと、単に「教え」の有難さばかりでなく、批判や中傷を恐れない、また面倒とも思わない、それにも勝る大きな愛や勇気があったればこそということを、あらためて感じさせられました。

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スター・デーリー(2)

2009年11月06日 | スター・デーリー

スター・デーリーは9歳の時から盗みをするようになり、盗みをしないと夜も寝られないぐらいで、寝つかれないときには起きて盗みに行くようになった。そして、少年院を卒業し、刑務所へ収監され、何度も出たり入ったりを繰り返し、合わせて14年間の刑務所生活を送ったとのこと。
そして、デーリーは刑務所について次のように語っています。

○刑務所が悪人を善導するものなら、私はとっくに善い人間になっていたはずだと思う。
刑務所の中では随分ひどい罰にあわされ、ひどい体刑にあわされたが、どんなひどい体刑にあわされても、私は善人になろうなどと、一回でも思ったことはなかった。

スター・デーリーにとっては全てが憎く、看守を恨み、神を恨み、自分の人生を恨んでいた。
アルコール中毒、アヘン中毒になり、裁判官からは、「この人は犯罪常習者で、気狂いである」と宣言され、また心理学者は「お前はもう望みのない人間だ」とサジを投げた。
そして、何よりもスター・デーリー自身がそれを認めていました。

○私は死ぬよりほかない人間であった。私は呼吸していた。しかし、死んでいた。心が死んでいた。心が死んだ時は、人間が死んだも同じである。精神の中枢が死んでいると、これを治す薬はない。いかなる人間もこれを治すことはできない。

と、語っている。
死ぬよりほかないと考えはじめたスター・デーリーも、刑務所では死にたくないと脱獄を企てます。
(脱獄はこの時がはじめてではないようで、大胆にも刑務所の金庫を破って脱獄した話もしています)
脱獄騒動を起こしたスター・デーリーは、いよいよ極悪人の入る地下の土牢に入れられます。それだけでなく、宙づりにされて改心することを迫られますが、そのような刑罰には屈せず、宙づりのまま最後は気絶します。

この時、スター・デーリーに、いよいよキリストが現れ、救われる時が来ました。
以下、徳久先生によってメモされたその感動的な場面。

○土牢で何日も何日もつるされて、私はとうとう気を失ってしまった。手をつるされた綱がほどかれて、殻の袋が下へ落ちると同じように、下へ落とされた。骨のなくなった肉の塊のようにコンクリートの上に落とされて、私はほとんど死んでいた。魂も、心も、良心も死んでいた。まるで死骸のように投げ出された。

○そのようにして死骸のように投げ出されていた時、私の頭部が自然に部屋の扉の方へ向いた。しかし、私は立ち上がれなかった。土牢の扉が開いて、一人誰かが入ってきた。それがだんだん明るく見えだした。そして近づいてきて、私を見おろしている。私の視線が上を向いて、彼の視線とあった。そこにキリストが立っていた。キリストをとおして神が現れたのだ。神の愛が、現れたのだ。神の愛が、キリストの目を通して、現れたのだ。キリストは、“愛のまなざし”で、私を見つめていた。罪人である私に、過去の多くの、数知れない罪を犯していることに一言も触れず、また、その罪を認めず、限りない愛を持って、私を、じっと愛深く見つめた。ただ、それだけのことであるが、その一瞬が私をすっかり変えてしまったのだ。今まで、私の心の中に巣食っていた、犯罪への欲望を、瞬間的に、すっかり取り去ってしまった。それ以来、私は罪を犯していないし、また、罪を犯したいという心が起こらなくなってしまった。小さい瓶一つでも他人のものを盗もうとは思わなくなってしまった。
それは神が、私の外も、内も、一瞬にして変えてくださったのだ。時計が、三つか四つ響く間に、今まで誰もなしえなかった、私を変えることが成就したのだ。それは1926年11月26日であり、結婚した妻の誕生日でもあった。それから、1930年3月30日、刑務所を出た。それ以来、私は刑務所へ入ったことは一度もない。

また、高知の刑務所では、その時のことを次のように語っている。

○キリストの愛深い“眼差し”が、私の視線を引きずり込んだ。キリストの“眼差し”の中に、神の愛が溢れていた。
「この人こそ、私が長いあいだ求めていた救い主だ!」
瞬間的に私は知った。
私は今まで、自分で自分をどうしても救いえなかったし、いかなる刑を受けても私の救いとはならなかったが、キリストを見た瞬間、“この人こそ、私の救い主だ!”と知った。
キリストの目に輝く愛で、私は完全に救われた。それは、一瞬の出来事であった。そのキリストが去った時に、その瞬間に、私は“神の子”として立ち上がったのだ。

○キリストの愛が、私の罪を犯す性格を全部消してしまった。酒を飲んで仕方のなかった性格、アヘンの中毒、バクチ打ちの習慣、そんな悪いものが、一瞬のうちに消え去ってしまった。その一瞬の間に、ぜんぜん新しい頭となり、魂は完全に新しく入れ替えられてしまった。キリストは、魂を一瞬のうちに復活させ、一瞬のうちに身体まで入れ替えてしまった。

いやあ、感動しました。
スター・デーリーの迫真の演説、耳に聞こえてくるようですね。
でも、彼の演説は、これからが本番になんですよ。

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スター・デーリー

2009年11月05日 | スター・デーリー

谷口雅春先生の『愛は刑よりも強し』を読まれた方は多いと思う。
この本は、先生が『愛は刑務所の扉を開く』とい本をスター・デーリーから贈呈され、その原書を読まれて書かれた本とのことです。

わたしも若い頃に、『愛は刑よりも強し』を読んだのですが、当時の私にはあまり面白く感じなくて、1回読んだだけでした。多分、その頃の私は愛国心に溢れて(かぶれて)いたので、アメリカ人のデーリーに興味を感じなかったからだろうと思います。

しかし最近、古い「生長の家」誌に徳久先生がそのスター・デーリーについて10回にわたって連載されている記事を読み、感動しました。

その記事は、昭和29年3月にスター・デーリーが来日し、徳久先生と3ヶ月にわたって日本の各地、刑務所などを講演してまわり、その移動の車中、宿泊地、講演などでデーリーが語った言葉を徳久先生がメモした、云わば『スター・デーリー語録』です。

スター・デーリーが来日した経緯は、昭和27年、ロスアンゼルスでの徳久先生の講演会場へ、スター・デーリーと親しくしていた日本人の生長の家の信徒、横田次男さんという方がスター・デーリーを連れて来て、そこで徳久先生ははじめてデーリーと会い、「是非日本に来て講演してもらいたい」と頼み実現したとのことです。

『愛は刑よりも強し』を読んで非常に感動していた徳久先生は、逢った瞬間、旧知の人に逢ったような親しさと、凄い迫力を感じられたとのこと。また、スター・デーリーもいつか日本へ行けるのを夢に見、「ぜひ、谷口先生にお会いしたい」と願っていたとのことです。

以下はその記事を元にしたスター・デーリーの話です。

スター・デーリーの母は彼を生んだ3週間後に産褥熱で他界します。そして、少し大きくなった幼いころ、継母に教会へ連れて行かれるようになり、そこで、罪と地獄の話をたくさん聞かされます。

○私は自分が罪を犯しているなどということは知らずに教会へ行ったが、帰るときには犯罪者になっていた。

教会で罪と地獄について教えられた幼いスター・デーリーは罪の観念に取りつかれ、死の恐怖に襲われるようになり、8歳になったとき教師を殺したいと思うほど恨むようになり、10歳の時に最初の犯罪を犯し、少年院に入れられ、やがては刑務所へ入ります。

○牧師の予言した「逃げることのできないところへぶち込まれて、監禁されるのだ」ということが、刑務所へ入ることによって実現した。それは、「お前は罪人だ!罪から逃れることはできないのだ!」と教えられて、社会的な罪を犯した結果だった。

と、スター・デーリーは言っています。

「生命の実相」には、生長の家が「人間、本来罪なし」と説くと、「罪があるからこそ宗教が必要なのに、それを罪がないなどと教えるのはけしからん」と言って怒る人あるが、「罪がないからこそ、その罪のないことを教えるのが本当の宗教である」と書いてあるところがありましたが、いや、ほんと、幼いころに罪や地獄、神の罰などと教えると、大変なことになりますね。

徳久先生自身も、小さいときに道端で小便したら、親戚のおばさんだったかに「そんなところで小便すると、罰が当ってアソコが腫れて来るぞ」といわれ、本当に腫れて来てエライ目にあいました」という話が講演テープにあったのを思い出します。

○罪を犯して私が刑務所に入ることになった時、父は一夜にして10年も年をとってしまった。父はげっそりして、苦しみと悲しみとを現し、目が苦しみ悲しみの涙で光っていた。私は完全に父を殺した。しかし、その時には、それをなんとも思わなかった。私自身が、魂の世界において死んでいたからである。

スター・デーリーはこう言っているのですが、ここを読んだとき、私も父のことを思い出さずにいられませんでした。
停学3回目で、無期停学をくらって父が学校へ呼び出されときの顔。そして名古屋に着いたとき、わたしが突然雲隠れして失踪し、名古屋港で働いていたのを同窓の先輩に見つけられ、10日ぶりに父と対面したときの顔など。

いやはや、あの頃は、ほんとうに私もほとんど反省してなかったなあと思う。
親には悪いと思っても、どうにもならんのだから仕方がないと思っていました。
後で母に聞いたところによれば、私が雲隠れして行方不明になっているとき、寒い冬の夜中に、風で物音がすると、その辺に私が隠れているのではないかと私の名を呼びながら「帰ってきたか?帰ってきたか?」と外へ出て探し回っていたという。

その頃わたしは、両親のことなど心配しないで、誰かに見つけられはしないかということだけを心配していました。無事でいた私の姿を見て、人前はばからず涙で顔を濡らしていた父を思うと、今頃になって胸が痛みます。

スター・デーリーの話が、自分の話になってしまいました。
続きはまたにします。




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