気の向くままに

山、花、人生を讃える

今のうちに、愛妻孝行

2019年05月30日 | 人生

月刊誌に次のような人生相談が書かれていた。

 

≪相談内容≫

30年連れ添った妻に先立たれて1年、子供もいないので一人ぼっちの生活になり、心に穴が開いたような状態となり、毎日ため息ばかりついています。妻は明るく社交的な性格だったため、「いつまでも落ち込んでいては妻が悲しむ。外に出て何かしないと」と思いながらも、その気が起きません。どんな気持ちで毎日を過ごしたらいいのでしょうか。(55歳、男性)

 

と、こんな内容の相談である。

 

すると、その回答者もまた、18年間連れ添った妻に病気で先立たれ、そして子供もいなかったので、1年ほどは寂しい思いをしたとのこと。しかし、1周忌が過ぎてからは気持ちを入れ替え、奥さんの供養に勤めながら、何事も明るく前向きに思い、念じ、その様に日々の生活を送っているうちに、「人間の生命は永遠生き通し」という教えが心に染みて来て、気がつけば悲しみも薄れ、普通の生活が送れるようになったとのこと。

 

まあ、寂しさに負けないだけの強い意志が必要なようだが、これを見習うことができるかどうか私には自信はない。
それよりも、今のうちに後悔しなくてもいいように、できるだけ、愛妻孝行を心がけていこうと、そんな気持ちになったことでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男は女性の支えあればこそ

2019年05月27日 | 人生

NHK「歴史秘話ヒストリア」、副題「日本人ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」を見ました。

 

日本が鎖国から転じて開港した件について、今まで武力を背景にしたペリーの恫喝に屈して開港した、というのが一般的な理解と思うが、この番組では、日本側もこの日の来るのを予期し、そのためのできるかぎりの準備もし、残された日米交渉の記録をたどりつつ、幕府も武力衝突とならない程度によく交渉し、健闘していることを紹介していました。

 

これは日本人にとってうれしい話でしたが、もう一つそれとは別の嬉しい話がありました。

 

それは、ペリー艦隊に水や食料を寄付した浦賀在住の一人の漁師がいたというのでした。
大きな黒船を目の前に見て、ただ驚くいているばかりの日本人を想像していましたが、なんと一人の漁師が水と食料を寄付したというのですから、実に素晴らしいと思いました。そして、船で使っていた鉄の大鍋がペリーから御礼としてその漁師にプレゼントされたとのこと。その大鍋がテレビで紹介されていました。

 

多くの外国人が日本見聞記の中で、「日本人は人懐っこく、いつもにこにこしている」という様な意味合いのことを書いているらしいが、ここでも、その敵意をもたない人懐っこい一面が現れているように思う。

 

また、横浜で幕府側と交渉していた当時、ペリー自らが農家(名主)に遊びに出かけたらしく、その時、名主の妻や妹からお菓子や酒のもてなしを受けたようで、その時の日本女性の印象についてペリーはこう記しているとのこと。

 

○若い娘は、姿良く美しく、その振舞いは活発である。また女性は周りから大切に扱われ、本人も自覚し、品位を保っている・・・・と。

 

ときどき、日本の国柄の一つとして、「男尊女卑」「封建的遺物」ということが言われますが、わたしはそういう一面があることは認めますが、必ずしもそうではないと思っていて、このペリー提督の見聞記もそのことを証明している気がします。「男尊女卑」は明治から云われるようになったと聞いていますが、私が尊敬する勝海舟も、山岡鉄舟も「男尊女卑」という見方に対して、本の中で「それは正しい見方ではない」と反論していたのを思い出します。それは言わば、人々の注目を浴びやすい野球のピッチャーと、それを陰で支えるキャッチャーの様なもので、それを男尊女卑とみるかどうかは、人それぞれの解釈ではないかと思います。 

 

ところで、番組の中のこれらのエピソードを「へえ~!」という気持ちで見ていて、思い出したことがありました。

 

それは今から17年前、私が53歳の時、自宅を火事で焼き、火災保険は入ってなくて銀行のローンで、すぐ新築しました。それから3年後、わたしは以前から、「船の仕事を辞めたい」と思っていましたが、そのせいか、ある面白くないことがあって、本当にやめたくなりました。しかし、生長の家の教えでは、「嫌なことや辛いことがあっても、その嫌なこと辛いことはあなたを磨くために起きて来るのだから、そこから逃げてはいけない。あなたがその事を卒業しない限りは、たとえ逃げても、環境は心の影だからまた同様なことが起きてくると」いう様に教えられています。

そんなわけで、逃げてはいけないと思っても、自分が辞めたいと思っているせいか、心の奥から「お前は会社をやめたいと思っているくせに、経済的に心配だから辞めることもできず、このまま会社にしがみついていくつもりか。それでは男として情けないだろう」という囁きがきこえてくるのでした。

 

それで、辞めるべきか、辞めざるべきか、ずいぶん悩みましたが、最後は「迷っていても仕方がない、何とかなるはずだ」と、思い切って辞める決意をし、家内にそのことを話しました。家内は突然の話に心配そうでしたが、反対もせず、「お父さんがそうしたいなら・・・」と承諾してくれました。

 

この様に、家内も了解してくれたことが、自分にとってどんなに救いだったか。もし、「辛いだろうけど、何とか頑張って」などといわれていたら、ずいぶん苦しい立場になっただろうと思います。そして今更ながら、その時のことを有難く思うのです。

 

そして、このあとはこちらが就活もしないのに、祈りがきかれ、驚いたことに或る会社から「是非わが社に来て欲しい」という電話をいただき、そこに再就職しました。

 

その会社は横浜にある日本一の客船桟橋をホームポートにする会社で、近くに「山下公園」、「港の見える丘公園」があり、辞めるには惜しくもありましたが、3年勤めた後、60歳になったのを機に、その会社も退職しました。この時も、家内としてはまだ働いて欲しかったはずですが、何も言わず、「いいよ」と言ってくれたので、本当に助かりました。

 

それからもう一つ、現役を退いた後、女性と接する機会も多くなり、家内から「女の人を敵に回すと怖いよ」と度々脅かされ、いや、教えられ、できるだけ女性を敵に回さないよう心掛けている次第です。(笑) 

ま、それはともかく、言いたかったのは、男尊女卑というよりも、男は女に支えられているということでした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成万葉集「女と男」より

2019年05月25日 | 平成万葉集

「平成万葉集」第2部「女と男」の中で、こんなナレーションがありました。

平成時代の特徴として、
○50歳までに一度も結婚したことのない人は、男性では4人のうちの1人、女性では7人のうち1人・・・・と。

 

女性の「7人のうち1人」でも多いと思うが、男性の「4人のうちの1人」というのは、予想外を通り越して「それ本当の話?何かの間違いでは?」と疑いたくなるような数字です。それで、そのコーナーではこんな歌が紹介されていました。

 

    恋をしてほしい息子は恋をせぬ  ゆっさりと夏のケヤキみたいで

    結ばれることはそんなに正しいか  未も既も消して非婚と書けり

 

勿論、結婚しなくたって問題があるというわけではないが、その数が多いとなれば話は別で、「何か変」という気がしてきてもおかしくないと思う。ところが、この頃の若い人は恋愛もしないのかと思うとそうでもないようだ。例えば、こんな歌が紹介されています。

 

    ソックスを忘れた土曜の昼間でも  一番ホームの君を探している

    コーラにもカレー粉にもある香料の  ように私に必要な君 

    海のくせに黙って引いてゆくなんて  意気地なしって言えずに泣いた

    待ち受けを空から海へ変えている  会いたくて仕方がない夜である

    ケータイを畳み両手で胸に当て あこがれこがれこわがるなかれ

    大嫌い何度も思った帰り道 でも君意外とは喧嘩はしない

    永遠の時間をかけて君が好き  北斗七星は明日も七つ

 

こういう歌を見ると、「青春て、いいなあ」と思うし、応援したい気持ちにもなります。

ところが、人生は複雑であって、いや、人の心が変わりやすいのか、こんな歌も出て来ます。(笑)

 

    ホームラン打ったつもりで結婚し 三十五年試合は続く

    家じゅうにお節介なる声のする  家電いずれも女のしゃべる

    この世には弱い女はいてません  はかなげ見せこそ最強の人

    妻と毒字画似ておりあなどるな  目には見えねど牙を持つ

    緒の切れた堪忍袋携えて  今週も行く熟年離婚講座

 

 と、いうように、思わず「同感!」と笑ってしまうものもあります。

まあ、いろいろありますが、どれも人生の一断面。

『神との対話』によれば、人間は、喜びも悲しみも、いろいろ経験しながら、何がほんとうの自分かを経験的に知るのだと・・・。

そして、悲しみの経験が人を育てる、大きくするということも事実。(だからといって「悲しみ」を経験したいとは思わないが)

 

人の歌の紹介ばかりでは申し訳ないので、わたしも作ってみました。まじめな歌なので絶対笑わないでいただきたい。

 

    お前のこと今でも好きと言いたいが 何とかならぬかそのおせっかい

    あな嬉し「長生きしてね」に喜べば  年金たくさんもらえるからだって

    昔ヒデハルさん今お父さん  一度やさしく「あなた」と呼んで

 

え~、可笑しいと思ったら、どうぞご遠慮なくお笑いください。笑うのは健康にもいいそうですのて。

泣くのも良いそうだが。


それでは最後に、お口直しで(前の)天皇・皇后陛下のお歌です。

 

    人々に見守られつつ御列の  君は光の中にいましき               (平成21年 皇后陛下   即位の日を思出して)  

    五十余年吾を支え来し我が妹も  七十七(ななとせなな)の齢迎えたり     (平成23年 天皇陛下) 

    去れる後も如何に思わむこの苑(‘その)の  光満ち君の若くませし日      (平成30年 皇后陛下)

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある夫婦の物語

2019年05月21日 | 平成万葉集

平成20年に愛する奥さんに先立たれた永田さんは現在71歳で、細胞生物学の世界的権威であるとのことです。以下に紹介するのは、NHKで放送された「平成万葉集」の第2部(女と男)の中で紹介された、そのご夫婦の間に交わされた歌です。

 

≪二人が結婚する前≫ 

 

     陽にすかし葉脈くらきをみつめおり  二人の人を愛してしまへり   (奥さん)

    君に逢う以前の僕に遭いたくて  海へのバスに揺られていたり    (ご主人)

    たとえば君ガサッと落葉をすくうように  私をさらって行ってくれぬか  (奥さん)

 

≪平成14年、奥さんの病気が見つかった時≫

 

      何という顔してわれを見るものか  私はここよ吊り橋じゃない   (奥さん)

 

この時のことを日記に次のように書いているらしい。

奥さん:京大の病院で受診したがすぐに乳腺外来に回された。マンモーグラフを見ていた医師が向き直って「悪性です」と言ったときは、すぐに事態が呑み込めなかった。診察を終えて病院横の路上を歩いていると、向こうから永田(夫)がやって来た。彼とは30年以上暮らしてきたが私を見るあんな表情は初めて見た。痛ましいものを見る目、この世を隔たった者を見る目だった。

 

一方のご主人はその時のことを次のように語っています。

ご主人:私は見事に平静を演じきったと思っていたのに、私の顔はどこか歪んでいたのだろうか。引きつっていたのだろうか。目の前にいる河野を正面から見られなかったのかもしれない。「私はここよ 吊り橋じゃない」が、切なく、痛い。手術の後もできるだけ普段の生活を変えない、河野を病人として扱わない、そういうふうに接してきたと思うんですけど、後になってみると、それが河野を苦しめていたというか・・・――とご主人の永田さんは語る。 

      平然と振る舞うほかはあらざるを  その平然をひとは悲しむ   (ご主人)

 

≪病気療養中の奥さんの歌≫    

     あの時の壊(こわ)れた私を抱きしめて  あなたは泣いた泣くより無くて    

     生きてゆくとことんまでを生き抜いて  それから先は君にまかせる 

     この家に君との時間はどれくらい  残っているか梁よ答へよ  

     長生きして欲しいと誰彼数へつつ  つひにはあなたひとりを数ふ

     手をのべて「あなた」とあなたに触れた時  息が足りないこの世の息が  (逝く前日)

 

≪ご主人の歌≫ 

     一日が過ぎれば一日減っていく  君との時間もうすぐ夏至だ

     かくも悲しく人を思うということの  わが生涯に二度とはあるな

 

 

奥さんが入院中のことについて永田さんは次のように語っています。

永田:精神がバランスを崩して、かなりひどい時期がありましたね。僕に対して最終的には「ガンになったのはあなたのせいだ」みたいな感じで、まあ、乳がんていうのは、本当は旦那が気がつかないとダメみたいなところもあって、それが河野(奥さんのこと)の中でどんどん膨らんできて、かなり不安定になって激昂するようになって、僕を責め立てるようになって・・・。それをひたすら耐えて待っているというのはとても辛いことだけど、ある時河野が歌を作ったんですよね。この歌ですべてを許せると思ったし、「ああ、耐えてきてよかったんだ」だという思いはしましたけど、その歌は、

     あの時の壊(こわ)れた私を抱きしめて  あなたは泣いた泣くより無くて

という歌で、絶対彼女はもうろうとしていましたから、覚えていないと思っていたんですけども、それをちゃんと覚えていてくれた、本当に救われたという感じがしましたね・・・と。

 

そして、「特にありがとう」という様な事は言わなかったが、歌を通じて私の気持ちは分かってくれていたと思う、と語った後、「一つだけ、あなた可愛かったよ」と言ってやればよかったと思ってますけど・・・と言ってテレ笑いしていました。

 

≪奥さんが他界された後の歌≫

    抱きたいと思へる女性(ひと)がどうしよう  どこにもなくて裕子さん、おい 

    訊くことはつひになかったほんとうに  俺でよかったのかと訊けなかったのだ

    おばあさんになったあなたを見たかった  庭にちひさくまどろむような

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生の光となった言葉」から

2019年05月18日 | 人生

生長の家の月刊誌に「人生の光となった言葉」というコーナーがあるのですが、そこに次のような体験が書かれていました。
とても良い話なので、紹介させてもらいます。

 

 

今から20年前、Aさんは青年会全国大会の会場準備をしている時、警察から「高校生のお嬢さんを補導した」と連絡があったとのこと。
その娘さんは友人とカラオケに行き、タバコを吸ったらしい。

 

Aさんがその電話を受けたとき、とっさに思い浮かんだのは。本の中の次の1節だったとのこと。

 

○「信じていたのに騙されました」という人があるものだが、その人は信じてはいたけれども、屹度善念を送らなかった人に違いない」
                                                 (生長の家創始者 谷口雅春著『光明道中記』)

 

それでAさんは、「日頃、仕事にかまけて、6人の子供たちのことは放りっぱなしだったことを反省しました」と書いている。

 

そして、帰りの電車の中で、同書に書かれていた、

○子を信ずるとは放っておくことではない。『善い子だ、ありがとう』と念じ称え、感謝の念を送ることである。

 

と書かれていたのを思い起こし、必死に念じ続けたとのこと。

そして、Aさんは次のように書いている。

 

帰宅し、殴られるかもしれないと覚悟をしていた娘には、「二度とするな」とだけ言って寝ました。
すると翌日、娘は金髪を元の黒髪に戻し、超ミニスカートも改め、煙草もやめました。
そして生長の家の役も引き受けるようになったのです。今その娘は2歳の娘を育てながら青年講師として頑張っています。

 

と、このように書き、最後は、こう結んでいます。

 

あの時以来、私は「皆神の子で素晴らしい」という教えを忘れることなく、すべての人への礼拝を心がけています。

 

ということでした。これは「言うは易く行うは難し」ですが、しかし、いくら難しくても、自分自身が幸福になるためにも、そして自分の接する人たちの幸福のためにも、努力していかなければならないと改めて思いました。

 

「自分はこの程度の人間だ」「あいつは、あの程度の人間だ」などと思っている限りは、いくら良くなろうと思っても、よくなれっこないことは、はっきりしているのだから。

 

わたしは近頃、「虹のじゅもん」というブログの詩のコーナーにある「「海の誓い」という素晴らしい詩の一節を思い出したりしながら、自分を勇気づけることが多くなりました(年のせいかな)。

 

      海はきっと覚えている
      真剣なまなざしを
      固い誓いを

      海は待っているに違いない
      叶った夢の報告を
      叶わなかった夢の報告を
      新しく見つけた希望を

      海は信じているだろう
      私達が本気で生きていると
      一生懸命生きていると

 

全文を読みたくなった方は、ここをクリックして下さい。(「海の誓い」に直通します)

https://blog.goo.ne.jp/xanadu-23/e/e14dc9389880a2db5c99f27b9e2c58cf

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある、いい話

2019年05月16日 | 人生

10日(金)~12日(日)は嬉しい楽しい練成会があった。

 

11日は県外からのゲスト講師を招いていたので、特にこの日は200人を超える参加者があり、道場に入りきれないぐらいの大盛況だった。わたしはパソコンに張り付いて参加者の名前などを入力しながら、ゲスト講師の話を聞いていた。以下はその覚書です。

 

 

或る一人の女性が空港の売店で、何となく本を買い、お菓子を買った。そして椅子に腰を下ろし、買った本を読み始めた。そして、お菓子をバッグから出してつまみ始めた。と彼女は思っていた。

彼女の隣には男性が座っていたが、彼女がお菓子をつまむと、隣の男性も、そのお菓子をつまんで食べる。彼女がつまめば、男性も同じようにつまむ。

その男性の様子に、彼女は「なんて図々しい男」と思いながら、素知らぬ顔で本を読み、お菓子をつまんでいった。その繰り返しで、ついにお菓子は最後の1つになった。

彼女はその最後の1つを、隣の男性はどうするだろうと思い、その一つには手を出さないことにした。

すると男性は、その最期のお菓子を手に取って、半分に割り、その半分をニコニコと彼女に差し出した。

彼女はその男性の、まるで自分のお菓子を人さまに分けるかのような、悪びれもしない平然とした態度に、ますます「なんて図々しい奴」といよいよ腹が立った。が、彼女は何も言わず、搭乗時間が来て機内の人になった。

そして落ちついてから、何かを出したくなってバッグを開けると、なんと、先ほど食べたと思っていたお菓子が、バッグの中に入っているのに気がついた。

それでようやく、自分のお菓子だと思って食べていたのは自分のものではなく、隣にいた男性のものだったと初めて気づき、恥ずかしさでいっぱいになった。そして、男性に謝りたいと思ったが今となってはどうにもならなかった。

そして最後に、彼女がこの経験から学んだという結論的な話があり、それが思わずホロリとなるとても良い話だったが、そこがどうしても思い出せない。あとは自分で想像するよりほかはないのだが・・・まるで何も浮かんでこない。

それとは別に、この男性は、「なんて図々しい女」とは思わず、最後の一つを半分に割り、ニコニコと彼女に渡すとは、実に素晴らしい紳士がいるものだと感心させられた。

 

話が長くなるが、ここまで書いてきて、10年ぐらい前の私の兄の話を思い出した。

 

兄の車のボディーに少し傷がついていて、「私がどうした?」と聞くと、

「小さい子供を乗せた若い母親にぶつけられた」という。

「それでどうした?」とさらに聞くと、

「何も言わずに許してやったよ。最後に、運転席に乗った母親に、あんたいい人にぶつかってよかったなあといってやったら、嬉しそうに笑っていたよ」と愉快そうにいう。わたしは大いに感心して、

「ふ~ん、偉いねえ!」と言うと、

「自分の娘と思ったら、文句も言えんだろう」

とのことだった。そう言ったときの笑った顔が実に良かったのである。それで、もし自分にもそんなことがあったら、「あんたいい人にぶつかってよかったなあ」とにっこり笑って、同じセリフを吐いてやろうと思ったのでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「参拝」と少しだけ「花巡り」

2019年05月08日 | 

前回の記事の続きです。

「藤祭り」を見学した後、すぐ近くにある津島神社に参拝、さらに隣接するお寺にも参拝。この寺にはよく手入れされた庭があり、季節の花が見られるので、神社に参拝したときには、たいがい、こちらの寺にも参拝させてもらいます。

 

以下はその時の写真です。

 

津島神社 夏の尾張津島天王祭は有名です。結婚式もこの式場でした。例年初詣この神社に参拝します。

 

左下に砂利の部分が見えるが、以前、初夏の頃になると、朝早く、段ボール紙を敷いてここに座り、神想観という座禅的瞑想をよくやった。

 

神社の境内を取り巻く堀に咲く花菖蒲。

 

寺の庭から見た神社の門。

 

お寺の庭のスズラン

 

 これも花菖蒲?

 

黄花菖蒲

 

黄花菖蒲

 

 

 

≪お・ま・け≫ NHK 平成万葉集 第1回「ふるさと」 より

    

    へその出るジーンズの孫が「只今」と 

               玄関に立つ春の休みは

 

    雨上がりみたいに終わりはくるのだろう 

               明日の予定を手帳に記す

 

    ここち良き朝の目覚めに百歳を 

               目指してまだまだ負けてたまるか

 

    百歳への夢追いながら草を引く 

               去り行く平成懐かしみつつ     

 

                    (最後の歌は、前の記事で紹介した99歳の八重子さん(仮名)の短歌)

 

   

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤祭り

2019年05月07日 | 

昨日は混雑さけ午後4時頃、近くの津島市天王側公園の「藤祭り」に行きました。

この天王側公園は桜祭りの時にも賑わいますが、近年「藤祭り」も有名になってきました。

津島市は家内の故郷ですが、私たちが結婚した頃はまだ藤棚はなく、その後、いつごろかに藤棚がつくられ、年々拡張され、「藤祭り」としても有名になり、ずいぶん大勢の人が訪れるようになりました。わたしは3年ぶりにきましたが、今年は外国人もたくさん来ているようでした。そして広い敷地には本当にたくさんのいろいろの屋台が店を連ねていました。

写真ではそれほど賑わってもいないようですが、散策するには4時過ぎがピークを過ぎてちょうどよい。

 

以下はその時の写真です。

 

藤棚の中は光が遮られてうす暗いが、日陰になって散策にはありがたい。 

 

 藤棚の下を歩いていると、ときおり藤の匂いがブーンとしてきます。

 

藤棚の延長距離は結構長くて300mはありそう。

 

抹茶席もあります。饅頭一つ付いて500円。

 

スタッフの話では、一番の見頃は例年4月の終わりとのこと。

 

見事な1本立ちの藤

 

これは桜の頃の天王川。私が小学校1年の時の春の遠足がここでした。

 

≪おまけ≫ NHK平成万葉集 第1回「ふるさと」より

 

      「そちらはもう慣れましたか」

              あなたまでメールが届きそうな空です

 

      背伸びして生きてきました

              ふるさとに踵おろせば土のぬくもり   

 

      受話器からふるさと訛り聞こえきて 

              景色懐かし我を励ます

 

 

私も作ってみたくなったので、作ってみた。

 

      故郷の空にも見えた天の川

              夢かなうならよみがえれあの空   

 

  

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK総合の「平成万葉集」より

2019年05月06日 | 平成万葉集

何時頃だったか、ずーと以前に、「昭和万葉集」なるものが出版されたことがあります。

昭和に詠われた短歌を集めたものですが、時代を反映して、戦争に関しての歌がたくさんありました。

 

そして時代が変わり、つい最近、NHK総合テレビで「平成万葉集」と題した番組が放送されました。
NHKによると日本の短歌人口は100万人らしいですが、その中から厳選したという短歌が3回にわたってこの番組で紹介されました。

第1回「ふるさと」、 第2回「男と女」、 第3回「この国に生きる」というサブタイトルでした。

私は録画しただけでまだ第1回の半分しか見ていませんが、以下に紹介するのは、その第1回「ふるさと」の前半で紹介されたその一部です。

(以下NHK「平成万葉集」より)

 

74歳の春子(仮名)さんは兵庫県に住んでいるが、故郷は岡山県の山奥とのこと。その春子さんの歌。
(テレビでは実名で紹介していたが、ここでは仮名)

 

     早蕨(さわらび)の萌ゆるを待ちて故郷へ

             アクセルを踏む陽のやわらかし

 

春子さんの母、八重子(仮名)さんは、現在、御年99歳。その八重子さんのご主人は35年前に他界され、それから一人で生きてきたという。その八重子さんの歌

 

     家五軒住人四人の雪の村

               声かけ合うて春を待ちいる

 

八重子さんの村は、多い時には40人いた。そしてご主人が病気になって入院したときには村のみんなが農作業から家事まですべてを手伝ってくれ、それがとても嬉しかったと笑顔で話す。しかし、平成になり1人減りまた1人減りで、今は村で八重子さんがただ1人暮らしているという。八重子さんには4人の娘さんがいてかわるがわる心配して見に来てくれるらしい。

同じく八重子さんの歌2首

 

     娘(こ)が来れば家事一切を取りしきり

               客は私でおいしく食す

 

       次々と空き家となりて吾ひとり

                     強く生きんと今日も鍬(くわ)振る

 

 

短歌ノートをかかえてはにかむ八重子さん

 

 

次は74歳の娘、春子さんの歌

 

              永遠(とこしえ)に続けと祈るふるさとは

                    緑かがやく春にしあれば

 

99歳、八重子さんの歌

 

     大正から農一筋に生きてきて

              心新たに御世を寿ぐ   (御世は御代の間違いではないかと思う人もいるかもしれませんが、字幕は御世でした)

 

取材の記者と歩きながら「わたしの方が早いね」と笑う八重子さん。

 

99歳と74歳の母と娘、短歌を通して通い合う心、そして山奥で、ひっそりと一人生活しながら、歌を友とする八重子さん。

世の中にはこんな人もいるのかと、感動させられました。

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

緑の散歩道

2019年05月05日 | その他

長い休日ですが、休日の様な、休日でないような・・・。

連休の4月中は東京から長男が帰って来て、孫の相手をし、1日の午前中は「生長の家」の月次祭(つきなめさい)に出席、2,3,4日の午前中は庭や畑の草取りをし、気になっていた畑の草取りができてようやくほっとしているところです。

 

3日の午後は、「防災、減災チャリティー・コンサート(休憩含めて2時間)」があって、家内に誘われ付き合いで参加すると、ピアノ、バイオリン、チェロ、箏、太鼓演奏、女性ボーカルに男性のコーラス等、曲は知らないものばかりだったが、みんないい曲で、特にバイオリン演奏が素晴らしく、思いがけない良い時間を過ごさせてもらいました。音楽は誰にでも喜ばれるものだから、楽器を演奏できる人が羨ましく思います。

 

4日の昨日の午後は、気分転換に、近場のいつものところ「ワイルド・ネイチャー・パーク」に行き、森林浴をしてきました。

以下はその時の写真です。

 

 

駐車場とバーベキュー広場ですが、4時の時点でまだこの賑わい。

 

木立はエノキ。緑がきれいです。

 

同じくエノキ

 

写真では見分けがつきませんが、エノキとムクノキです。

 

緑の遊歩道。すぐ右川に木曽川が流れていて、川風が気持ちがよい。

 

此処から向こうがバーベキュー広場。バーベキューを楽しんでいる人々を見ると、こちらまで愉しくなります。
「見るだけで楽しい」というのは道具も何もいらないからいいね!(笑) 
しかし、温暖化防止のために肉食はできるだけ減らしましょう。

 

バーベキューを楽しむ人々。

 

ゆたかに流れる木曽川。研究者たちはこのままでは世界が水不足になると警告を発しています。水が豊かな日本ですが、安心はしておれません。

 

よく見られる花ながら、見ればなかなか凝った造形美。
おめかししても自分からは動けないので、こちらから近寄って称賛してあげましょう。
すると、そよと風が吹き、かわいい花弁をゆすって喜んでくれます。(笑)    花の名前はシャガ。

 

 

≪おまけ≫

NHKで「平成万葉集」なるものが3回にわたって放送された。

次の短歌は19歳の乙女がうたったもの。

   

         海のくせにだまって引いていくなんて

                意気地なしって言えずに泣いた

 

 青春て、いいなあと思いました。(笑)

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする