気の向くままに

山、花、人生を讃える

「皇居清掃奉仕」の思い出

2019年04月30日 | その他

いよいよ今日は平成最期の日。

 

ニュースで天皇・皇后両陛下のお姿を見ると、何度か参加している家内に誘われて、5年前に皇居清掃奉仕に参加したのですが、その時のことが懐かしく思い出されて来ます。

 

皇居は江戸城のあったところだし、現代では天皇陛下のおられるところでもあるので、一度は皇居内へ入らせてもらいたいと思っていたので、思い切って参加させてもらったのでした。

 

4泊5日の清掃奉仕は、奉仕というより、見学させてもらっているという印象の方が強いのですが、参加して本当に良かったと思います。

 

とにかく皇居内は5月と季節も良かったせいもあるかもしれませんが、木々の緑がとてもきれいで、それだけでも感激でしたし、江戸城の面影を残した所も残っていて、自分が今その江戸城内にいると思うと、タイムスリップしたような不思議な感じがして4泊5日の毎日が本当に夢のようでした。

 

さらに、3日目には、皇太子ご夫妻がお住いの赤坂御用邸も見学(奉仕)させていただいて、皇太子殿下のご挨拶をいただき、また4日目には天皇・皇后両陛下のご挨拶もいただく幸運に恵まれました。
わたしは奉仕団のその他大勢の一人でしたが、両陛下とはほんとうにわずか3、4メートルの至近距離でした。(お言葉をいただいている間は恐れ多いので、下を向いていました)

 

ご挨拶が終わって部屋を退出される時、両陛下は部屋の中ほどのところで、一度振り向かれて奉仕団全体に向かって御会釈され、そして出口のところでまた振り向かれて御会釈されました。そのご様子を、恐れ多いことながらせっかくの機会と思い、じっと見ていました。

 

家に帰って一晩寝て朝起きると、何か夢を見ていたような、本当に浦島太郎の気分でした。
そして泣きたくなるような気分で、昨日までのことを思い出していると、両陛下が退出されるときのあの光景と眼差しが目に浮かんできて、涙がこぼれて仕方がありませんでした。

 

自分でも驚きでしたが、天皇陛下の有難さを身近に感じさせていただくことができて、本当に貴重な体験でした。

 

平成最後を迎えるにあたり、多くの皆様と共に、心より感謝申し上げたいと思います。

 

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楽しみな連休

2019年04月26日 | その他

いよいよ連休に入りますね。

 

4月から字の役員になり、ますます気ぜわしくなってきましたが、しばらくはのんびりさせてもらえそうです。

 

昨日は雨上がりで、午前中は幸い何も予定がなかったので、ここぞとばかり草取りに専念。
やり始めると止まらなくなり、いい加減に膝が痛くなっても、もう少し、もう少しと3時間近くも頑張った。
そして誰も褒めてくれないので、「我ながらよくやる」と自己讃嘆した。

 

草といくら格闘しても勝ち目はないので、いっそのことタンポポが一面に咲き乱れる公園のように、土が見えなくなるほどに、草の緑に覆われるに任せておこうかとも思ったりもするが、なかなかその勇気がわかないのである。

 

こうして、草取りにも精を出さなければならないが、新緑の気持ちの良い時でもあるので行楽にも出かけたい。
ということで、楽しみな連休である。

 

 

気がつくと、いつのまにかアイリスの花が咲いていた。

誰も同じと思うが、私もこのアイリスの花が好きである。

単に「花が美しい」というだけでなく、季節感があるのがまた良いのかと思う。

 

 

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人間はあらゆる年齢において美しい

2019年04月19日 | 人生

このブログを開始したのは10年前の4月11日、つまり10周年を迎えました。

今日までよく続けて来られたと思いますが、これも訪問してくださる方がいればこそと、心より感謝申し上げます。ありがとうございます。

 

さて、先日古希を迎えた私ですが、わたしはこの年になっても夢、理想持って生きていられることを幸せに感じ、有難く思っています。今現在は満足できないところが多々あるけれども、まだまだこれからいくらでもよくなれるという希望があるということは、ありがたいことだと思う。一度だけでなく、幾度もこの世に生まれて来て、経験を積み重ねながら向上し、素晴らしくなっていくのが人間ではないかと思う。

 

先日、わが家に掛けてある生長の家の日訓に、

「人間はあらゆる年齢において美しい」とありました。

 

とても美しい言葉だと思う。以下はその詳細ですが、私と同じように、このような美しい人間観、人生観を喜んでくださる人もいると思い、本から抜粋したものをここに掲げさせていただきます。

 

実相の表現身としての根本的願い:なぜ、われわれはいつまでも若く美しくありたいと願うのであろうか。それはわれわれの生命の実相(実のそのままの相)が、いつまでも、若くして美しいからなのである。なぜなら人間は大生命(すなわち神)の分身であり、神は永遠に老いることなく、永遠に美しいのであるからである。われわれの肉体はその永遠に若く老いず美しき実相が、時間空間面に映像されたところの表現身であるからである。表現身が実相身の永遠の美と若さとを表現したいと欲するのは当然のことなのである。

 

人間はあらゆる年齢において美しい:≪前略≫ 実相永遠の美は現象身の一時期だけに限ってあらわれるのではないのである。何も青春時代の肉体や容貌にのみ“神の子”の実相の美しさがあらわれて、老年の肉体や容貌には“神の子”の実相が現れないわけではないのである。人間はあらゆる年齢において美しいのである。(以下略) 

 

神の最高傑作としての人間:まだ充分語ることも歩くこともできない幼児の美は誠にも“神の傑作”と言ってもよい美である。幼児で、外敵や気候の変化に対して抵抗力をもっていないで、誰かの助けを借りなければ死んでしまうような赤ん坊が大人から愛されて護られて生きのびることができるのは、その肉体や容貌に表現されている幼児美の魅力の力である。
 幼児の美は、青春の美と種類が異なる。青春の美には、どこかセクシーな美が感じられる。美の表現にもその生命体の表現の時期に応じて、異なる雰囲気を伴っているものである。異なる美の表現をしながら、いずれも神の傑作なのである。それは善とか悪とかの問題ではないのである。生命体の“中心”に“変わらない不変のもの”があり、その“不変の実相”の美しさの“いろいろの面”が時期や年齢を通じてあらわれるのである。(以下略)

 

人体の美・精神の美・魂の美:≪前略≫ かくのごとくして人間の表現の美はいろいろの時期の段階に随って変化してくるのだけれども、その表面の変化の奥に変わらない「その人なるもの」――生命の実相が一本“幹”として貫いて存在するのであって、その人の年齢や時期においてあらわれてくる美は、それは樹木に喩えれば、同じ変わらない幹から生じたところの季節によって芽を吹いたる異なる美、春の若芽のふくらみの美から、やや若葉が開いた時の新緑の美、それから盛夏になって… ≪中略≫ それぞれの時期に発現する美は、他の時期にはみられない“代替えすることのできない美”であるから、それは絶対美であって比較を絶した美しさなのである。

 

人間の美の最も根源的なもの:人間の遺伝の根源的なものは、“人間の生命は神より発祥したものであり、その神の万徳を継承する”というのが根源的遺伝であり、その神からの遺伝の中に最高の美があり、それを“神の子・人間”は継承しているのである。環境、境遇、教養等の変化によってそれ以外のものが遺伝するように見えても、それは第二次的なものであることをわたしたちは知らなければならないのである。

 

以上は生長の家の創始者谷口雅春著「如意自在の生活365章」からの抜粋でした。

 

        ≪夢≫

      

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古希を迎える

2019年04月09日 | 人生

先日(6日)、古希の誕生日を迎え、娘夫婦に会食料理のご馳走でお祝いをしてもらいました。

自分もいつの間にかそんな年になってしまったのか、というのが実感です。

 

なんとなく60歳までは元気でいられるという気がしていたし、保険などに頼りたくないという気持ちもあって、健康保険、生命保険も入らずにきましたが、結局70になった今も元気で、薬や医者のお世話にもならず、よくここまでこれたなと思います。

 

娘のことですが、彼女が就職するとき、

「お父さんはどんな会社に就職してもらいたい?」と聞くので、

「自分の就職したいところに就職すればいいんじゃないの?どうしてそんなことをお父さんに聞く?」と言うと、娘は

「私の友達の親はみんな、大きな会社がいいと答えるそうだよ」と言うので、

「大きな会社がいいとは言えないよ。どんな部署に配属されるかもしれないし、どんな仕事をするのかもわからない。反対に小さい会社でも、頼りにされて働き甲斐ができていいかもしれない。それに、大きな会社でも業績が悪化することもあるし、今小さくても、成長することもあるから、小さい大きいにこだわらず、自分が就職したいと思うところへ就職できるのが一番だと思うよ。

 

と、そんな話をしたことがありました。娘は独身時代、楽しげに会社の話をよくしてくれ、また結婚してからも、数年後に旦那の田舎に新築し、その自宅から歩いて通える距離の会社に就職しましたが、そこでも大事にされているらしく、産休中に一人目の子供を連れて会社に挨拶がてら遊びに行ったりまでしている話を聞くと、ほんとうに恵まれている奴だなあと思います。

 

ついでに二男の話をしますが、結婚した相手の娘の親と一緒に食事をした時、「本当にいい息子さんで、どうやって育てたんですか」と聞かれたことがありました。普通ならお愛想と思い、「いえいえ、不束な息子で」と答える所かと思いますが、その時、わたしは「僕も、自分にどうしてこんな息子が生まれてきたのか不思議に思っている」と正直に答えたものでした。

 

それどころか、ある奥さんからは、お宅の息子さんが仕事をしているのを見て、こんな人をぜひうちの娘の相手に欲しいと思って、息子さんの後をつけたことがあるんですよ。その時の車がお宅の庭に止まっているのでびっくりしました。お宅の息子さんだったんですねえ。といわれたこともありました。

 

家内の育て方がよかったのか、あるいは親父の私が、家にいないことが多く、それが良かったのかもと思ったりしているわけですが、ともかく、この私が古希を迎え、そして、年寄り臭く、恍惚気分で娘、息子自慢をせっせと書いている。何か本当に年寄りになったような変な感じです。

 

                ≪古希の花束≫

                             

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気分は春満開

2019年04月04日 | その他

天候もようやく落ち着き、満開の桜便りがきこえて来ますが、今季は花見もままなりません。

ここのところすっかり山にもご無沙汰しているので、「山恋しや」と思いつつ、過去の俳句をながめていたら、すっかり春満開の気分になりました。

というわけで、過去に散発的にアップしていたものを、ここにまとめてアップする気になりました。見ていただければ幸いです。

  

    妥結して悲しくもあり草萌ゆる

 

    春泥を浴びて信濃路ひた走る  

 

    花束や毛深き男の目に涙 (友人の退職)

 

    カタクリにしばし安らう峠かな

 

    懐かしき日々よ声なき花吹雪

 

    尾根行くや近江の湖(うみ)は花曇り  

 

    ケキョケキョと睦び交わすや春の山  

 

    妖精の声ひそひそと春の山

 

    谷を行き尾根踏み越えて春惜しむ  

 

    花の下やすらう人の仏がお  

 

    春風や人も華やぐ山の道  

 

    春風や良いこといっぱい来る予感

 

    残雪を握り惜しまん解けるまで

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