気の向くままに

山、花、人生を讃える

スター・デーリー(4)

2009年11月09日 | スター・デーリー

下記はスター・デーリーの高知刑務所における話です。 (「生長の家」誌 昭和60年5、6月号からの抜粋)
(文章を短くするため、一部カットや編集をしています)

――高知の刑務所で――     
○私は、ここで皆様にお目にかかることを、本当は希望しない。皆様がひとり残らず自由になって、ここを出られることを、私は最も希望する。
私の盗んだ金は、私の精神を根本的に破壊した。そして係官は、「お前をまともな人間にすることは、絶対に不可能だ」とサジを投げた。私は常習犯の折り紙を付けられ、折り紙を付けられたとおり、14年間も常習的に犯罪を続けた。健康は完全に犯され、魂は完全に死んでいた。私は、日々神を恨み、社会を呪っていた。

(スター・デーリーの体験の話が続くが省略。その体験を語り終えた後)

○つまり、罪というものは、人間の“迷い”である。あなたがたは罪の子ではなく、神の子である。
今、ここにキリストが立っている。キリストは、あなたがたの前にも後にも立っていて、「お前は神の子である!」と告げている。現実の目には見えないかもしれないが、心の目が開くと、それを見ることができる。すぐ間近に見ることができる。キリストに従って生涯を送るなら、再び問題は起こらない。キリストの愛であなたがたを守ることができるし、キリストは、あなたがたを導くことができる。また、あなたがたを希望に満たすことができる。なぜなら、あなたがたは神の子だからである。

○アメリカにおける刑務所は、罪に対する罰を与えるだけで、何かの職業に導いてくれるというようなことは一切なかった。私が神の救いによらずに刑務所を出ていたら、自分で仕事は得られなかったと思う。しかし、神は常に私と共にあって私を導き給うた。私は病院で働き、結婚し、良い妻と娘をもっているが、それは神の導きによって得たものである。私の本は世界中で読まれ、アメリカのあらゆるところで講演し、あらゆるアメリカの刑務所でも話した。
極悪人と自分も他人も思っていた自分に、こんなことができるのは、キリストの愛によって、私が神の子であると教えられ、それを信じたからである。私は教育を受けていないが、アメリカ中の大学や高校で講演したし、一番大きい大学の教授としての席をもらっている。欲しいと思えば大学教授の椅子ぐらいは、5つや6つはすぐくれるところがある。私は学校の教育は受けていないが、神から直接教育された。

○私は1日、4~5時間の祈りをする。それは、神と自分とを直接つなぐ必要があるからである。
私が祈っている時には神と一緒にいる。神と共にあれば、神は私を導いてくれる。
神は戦後の日本に行け、と私に告げられ、その扉は日本の生長の家によって開かれた。そして今、日本の町々で講演をしている。そして、日本の各地の刑務所で話をしている。それは私の力ではなく、神の力によるものである。

○今、私はあなたがたに話をしているように見えるが、それは、私への“神のささやき”を伝えているだけなのだ。
私の心のままに話をすれば、誤りを犯すことになる。“神のささやき”を話した時のみ、それは真理である。
私はひとつの耳で“神のささやき”を聞きつつ、ひとつの耳で、あなたがたがどんなことを要求しているかを聞いているのだ。

○あなたがたが完全な神の子として生きようと思うならば、真理の本を常に読み、祈るが良い。そうすれば、神が私を導いたように、神はあなたがたを導くことは間違いないのである。そして神が、あなたがたがこの世に生まれてきた使命を果たさせるのである。

○キリストが処女から生まれたということを、不思議だという人もある。キリストは父をもたない。アダムは母をもたない。それはなぜか知らない。しかし、それを信じる。キリストの復活も、私はそれを絶対に信じている。
「キリストは、本当の救い主か?」と尋ねる人もいる。キリストは、罪を犯した人を救ったかどうか、私は知らない。
しかし、キリストが、この地上に神の愛から生まれてきたことを、私は絶対に信じている。事実、私はキリストを信じた時、赦されて、罪から解放された。
キリストを信ずることによって、キリストの力が現れて救われるのだ。キリストは、私に説明したり弁解したりしない。キリストは、天国の知識を私に与えなかった。キリストは自分についてもぜんぜん説明しない。ただ“われを愛せよ”と言った。私はそれを信じて、キリストを愛することによって、今まで予想もしなかった力を得た。
なぜ力を得たか、私は知らないが、事実が証明する。

――高知刑務所の講演を終えて――
○今日、刑務所で話をしている時、私と通訳の横田さんとの間にキリストが立った。そして、皆の前で話せよということを、ひとつひとつ私に告げてくれた。
聴衆の前の方にひとりの若者がいたが、彼の側にキリストが立った。彼は魂が救われたと私は信ずる。
今日の集まりは、今までにかつてない厳粛な集まりであった。聞く人たちもとても厳粛であった。
そしてキリストが私に、“皆、神の子である”と告げた。私はそれを皆に告げたが、皆それを信じてくれた。
二人の若者が来て私と握手をしたが、その時、私の魂が手を通じて彼らの中へ流れ入った。
二人は罪から完全に逃れることを、私は信じる。彼らは神の子である。彼ら自身が自分を神の子と信ずれば、その通り行動する以外に、なにもない。われわれは信ずる通りになるのである。

☆    ☆    ☆

以上ですが、私はこれを読んで、これを聞いていた受刑者たちの感動を思いました。そして、自分もそこにいて、この話を聞いていたら、どんな気持ちで聞いただろう思いました。きっと、感動に震えながらキリストを見るような目で見ていたのじゃないかなと思います。

しかし、今はだめですね。思いっきり、自由気ままにぬるま湯につかっていますから。
そんなことを思うと、刑務所に入るのも有難いことなのかなあと、不謹慎なことまで考えました。

しかし、そんな私でも、新風を吹き込まれたことは確かです。
「信仰をしている」と言いながら、本当は、ちっとも「信仰してないんだなあ」と思いました。
いえ、これは「自分はだめだ」と言っているのではなく、「こんなことではだめだ」と少しながらも発奮させられたということです。

読んでいただきありがとうございました。

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