すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

待ちながら書く、書きながら…

2022年08月01日 | 読書
 「待つ」存在でありたい。しかし、いったい何を…。時間が経過することによって変わりゆくものは仕方ない。自分の身体はもちろん、目に映る万物もまた同様だ。ゆっくりとこの本に向き合い、湧き上がってくる想念を焦らず綴ってみよう。その中で、生まれるいや見落としていた何かがきらりと光るかもしれない。


『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書396)

 「まえがき」P9より
せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着をみようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。



 三十代前半、校内授業研の折だったろうか、実践派で知られるベテラン教員が「久しぶりに、間のある授業を見た」と褒められたことがある。今でもその事を覚えているのは、それが仮に相対的事実であったとしても、当時「待てない」自分に苛立っていたからだと思う。優れた教師の条件までほど遠さを感じていた。


 数多く参観した名人、達人と称される教師の授業の多くに共通していたことの一つは「待つ」であった。そして今改めて思い返すと、それは単に物理的な時間ということだけでなく、精神的な広さや深さを意味していることに気づく。子どものどんな応えに対しても、受け入れ受けとめ、それを「道」として認める…。


 問いを発し、答えを待つ。そのとき何を思っているかと言えば、予め想っていた反応しかない。それ以外の言葉や動きに余裕を持って接することができても、自分の思い描いていた「未来」に誘導しただけではないか。僅かに納得できる場合があったとすれば、それは子ども自身が「問い」「願い」を持った時だったと…。