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62歳、方丈記を読む

2019年03月03日 | 読書
 先日読了した『この先をどう生きるか』(藤原智美)の中では、鴨長明のことが「孤独の探求者」という形で紹介されている。書くことにより観察と思索を深めていった先駆者という位置づけだ。この2冊は意図なくまとめて注文したのだが、つながっていた。鴨長明は62歳で没している。あと数日は同齢の私が読む。 


2019読了23
 『方丈記』(鴨長明・蜂飼耳訳 光文社古典新訳文庫)



 多数の人が諳んずることのできる冒頭の一節「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。この古典を読んでみようと思ったのは、訳者に興味があったからだ。今は読んでいないが以前雑誌連載で興味を覚えた詩人はどう訳したか…。中高生の頃接した訳文とはまた別の面持ちで、綴られた文章世界を想像できた。


 今まで持っていたイメージは、無常観、達観といった言葉に集約される。しかし前半はともかく、後半を読み進めていき、終盤に差し掛かると、なんだかこの人、未練たらたらじゃないかと正直に思ってしまった。訳者も「葛藤」と書くように、正直な気持ちも吐露されている。イメージは冒頭文章で作られてきた。


 ただ、三大随筆に数えられ親しまれてきた作品の良さは損なわれるものではない。無常観や仏道の教えを書きつつ、「たもつところはわづかに周梨槃徳が行にだにおよばず(精神的な段階は、釈迦の最も出来の悪かった弟子にも及ばない)」と明記し、その胸の内を曝け出してみせる。その正直さゆえに響く箇所が多かった。


 蜂飼の解説によれば、長明が方丈庵に託した希望は、単なる「閑居生活の充足」ではない。居そのものの作りに意味があり「嫌になったらいつでも他所へ移れる、そんな可能性を秘め」ていたようだ。そこには無常に苛まれ葛藤しつつ、ある意味飄々と生き抜く軽さも感じる。身の丈に合う動きを作りだす心の持ち方だ。