スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

決断の解釈&現実的本性と哲学的肯定

2017-12-09 19:18:14 | NOAH
 SWSが設立されたときに,SWSを批判し全日本を守ろうとした山本の決断は,『1964年のジャイアント馬場』に書かれているように,山本が全日本のブレーンとして利益供与を受けていたからというわけではなくて,山本自身のプロレス観あるいは信念に起因していたという解釈に,一定の合理性を見出すことが可能です。ですからそれが真実であったのかもしれません。ただ,事実関係が詳細に明らかになっているというわけではないのですから,柳澤の記述を規準としても,もっと別の解釈,山本にとっては不利になるような解釈が不可能というわけではないと僕はみます。僕は柳澤の主張に合理性があることを認めますが,それを確実な真実と認定するわけでもないので,公平性を期すためにあり得る別の解釈も示しておきます。
                                 
 柳澤によれば,このときにSWSないしは天龍源一郎から利益提供を受けた記者が何人か存在したことになっています。すると山本はその事実を知り,自身も同様の利益提供を受けることを要求するという可能性がないわけではありません。この場合,山本はすでに全日本から利益を提供されていたのですから,それ以上のものを要求することになるでしょう。ところがその要求が利益を提供する側からみたときに過剰であった場合,過剰というのはたとえばあまりに高額の金銭とか,他に対する利益提供と大きく差があるような場合ですが,そのときは提供者はこの要求を拒否するのが自然であると考えられます。そこでこの交渉が決裂し,立腹した山本がペンの力でSWSを攻撃する側に回るというのは,可能性として完全に排除できるわけではありません。
 もちろんここに示したのは山本にとって不利になる一例であり,ほかの例も考え得るでしょう。ただ,僕は何が真実であるかということを決定したいわけではありませんし,そういう決定は不可能だと考えています。柳澤のいっていることは合理性があり,確かに真実かもしれませんが,それを真実と確定することは避けておくのが安全であろうということを示しておきたいにすぎません。ですからここに示したことが真実であると僕が主張しているわけではないということには注意しておいてください。

 善bonumを希求し悪malumを忌避することが,能動actioであるか受動passioであるかを問わずに人間の現実的本性actualis essentiaであるなら,現実的に存在する人間は自身にとっての善を肯定し,悪を否定するといっているのと同じことであると僕は考えます。いい換えれば現実的に存在する人間は自身に喜びlaetitiaを齎すものを肯定して悲しみtristitiaを齎すものは否定するといっているのと同じことだと考えます。これは,自然の多様性に対する哲学的肯定と相反するようにも思えるでしょう。実際に,多様性が肯定されるのであれば,悲しみを齎すものも肯定されなければならないという結論になるであろうからです。
 しかし,僕はこのふたつの事柄は矛盾していないと考えます。つまり,現実的に存在する人間は自身にとっての善を肯定し悪を否定するという現実的本性で生きているけれども,自然の多様性は肯定され得ると考えるのです。
 その根拠として僕が第一にあげたいのは,第四部定理一です。この定理Propositioが明らかにしているのは,たとえばAという人間の精神mens humanaのうちにXの真の観念idea veraがあるとき,それが理由となってXの誤った観念が排除されることはないということです。この定理の意味として,この場合にはXに対する誤謬errorについてはXの真の観念によって排除されるということはあるのですが,Xに関する虚偽falsitasは排除し得ないということがありました。したがって,Xの真の観念すなわち十全な観念idea adaequataと,Xの誤った観念すなわち混乱した観念idea inadaequataは,同一の人間の精神のうちで両立し得るということになります。
 次に,第四部定理六四により,現実的に存在する人間があるものを悪であると認識するなら,それは必然的にnecessario混乱した認識です。したがって,僕たちが悪を忌避するのは僕たちの現実的本性ですが,悪の忌避は必然的に混乱した認識から発生することになります。つまりAという人間がXを悪と認識し,Xを忌避する場合には,AはXを混乱して認識している,他面からいえば,AのうちにXの混乱した観念があるということになります。
 一方,多様性に対する哲学的肯定は,第一部定理一六を基に論理的に帰結するのであり,これは理性ratioによる認識なので十全な認識あるいは真の認識なのです。
コメント
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