スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&共通の公式

2016-04-28 19:13:38 | 将棋
 郡山で指された昨日の第9期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 加藤桃子女王の先手で室谷由紀女流二段のノーマル中飛車。後手が4筋の位を取って四間飛車に転換。先手がこれを許したのが大問題だったようです。
                                     
 後手が3三の角を上がったのに対して先手が2六の飛車を逃げて後手が四間飛車からまた回った局面。ここで先手は▲2四歩と仕掛けました。
 先手の陣形はいかにも中途半端。仕掛けるなら9八に香車を上がる前が自然ですし,香車が上がったのなら穴熊に組むのが自然。どちらの指し方もできずここで仕掛けざるを得なかったのなら作戦負けで,すでに第1図は後手が有利なのでしょう。
 △同歩に▲4六歩と突き△同歩▲同飛。これには△4二飛が振飛車の自然な対応。先手は▲4八飛と引いて△4七歩に▲2八飛と戻りましたがここでも△3三角が自然な対応。
 先手は▲5七銀と引き△7七角成▲同金で2筋の突破に命運を託しましたが△3三桂が絶好の活用。先手は▲6六角△5五歩の交換を入れて4八の地点を受けてから▲2四飛と走ったものの△4五飛と浮かれました。
                                     
 これは飛車を成っても△2五飛とぶつけられて無効。ここでは先手が相当に窮しているようです。
 室谷二段が勝って1勝1敗。第三局は来月9日です。

 第五部定理二三で,人間の精神は人間の身体の持続の停止とともに完全には破壊されないといわれていても,それは人間の精神は人間の身体より優越的であるというわけではないし,人間の精神に何らかの特権が付与されているわけではないという僕の解釈についてはその理由を説明できたので,本題の方に戻ることにしましょう。
 スピノザの哲学において永遠であるということを考えるためには,まず思惟の属性の様態,とりわけ第二部公理三により思惟の様態として第一のものである観念が,観念されているものとの関係を離れても実在性を有するということを前提しなければなりません。とりわけ人間についていうならば,人間にとって思惟の様態である人間の精神が,第二部定理一三によってその現実的有を構成している観念の対象であるその人間の身体を離れて実在的であり,かつ永遠であるということがさらに前提されなければならないわけです。したがってマルタンがスピノザとフェルメールの間に永遠に関するある公式いい換えれば定理を認めるためには,第一にフェルメールの絵画はその描かれた対象との関係を離れて実在的であり,第二にそれは描かれた対象が存在しなくなってもそれを永遠の相の下に表現しているということを示す必要があるわけです。
 マルタンがこのような公式を立てることができるかといえば,僕はそれはできないように思います。いや,正確にいうと,立てることは本当はできるかもしれません。しかしひとつだけ僕が確かだと思うのは,もしもマルタンがそのような公式を立てたとしても,スピノザはそれを認めることはしないであろうということです。後で少し説明しますが,前もって簡単にいっておくと,このことはスピノザによる絵画鑑賞の能力の問題に帰せられるかもしれません。つまりマルタンがフェルメールの絵画から鑑賞することができる要素を,スピノザは感じ取ることができないということと関係するかもしれません。だからそれはマルタンの責任ではなく,スピノザの責任である可能性があることは僕も認めます。ですがそれをスピノザはきっと認めないということは,僕にとってはことのほか重要なのです。
コメント
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