INSIDE SORAMAME

私の頭の中のキオクを綴っていくつもりです・・

趣に赴く(29)

2009年11月18日 |    ┣ ひっそりと趣に赴く
(つづき)
福岡県太宰府市の西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」の前にあるバス停。
「都府楼」とは、駅の北東約800mにある大宰府政庁(跡)のことである(歴史的用語なので、「太宰府」ではなく「大宰府」)。

駅北東側を通る国道3号(関屋高架橋の側道)上には西鉄(博多駅~甘木を結ぶ「400番」)の「都府楼前駅」バス停(写真左)が、駅前ロータリーには太宰府市コミュニティバス「まほろば号」の「西鉄都府楼前駅」バス停(写真右)が、それぞれある。

西鉄電車の「都府楼前駅」には「前」の文字が入っており、バス停名として、「駅」の後に「前」を付けると、「(西鉄)都府楼前駅前」(とふろうまええきまえ)と、かなりくどい言い回しになってしまうことから、駅前のバス停であるものの、最後に「前」を付けずに、「都府楼前駅」「西鉄都府楼前駅」ということだろうか。
同様に、JRの「九州工大前駅」、北九州モノレールの「徳力公団前駅」についても、その最寄りバス停には「前」は付いていない。

昨年春に「筑前新宮駅」から名称が変更されたJR鹿児島本線の「福工大前駅」については、西鉄の最寄りバス停はそれまで「新宮駅前」であったが、駅名の変更により、「福工大前駅前」ではなく「福工大前駅入口」となった。
駅とバス停の位置関係は全く変わっていないにもかかわらず、駅名に適応させて「前」から「入口」になった訳で、「前」や「入口」という接尾辞が結構いい加減であることを示しているといえるのかもしれない。
ただ、地元の感覚に合っているのであればそれでOKだと思うので、「もっと厳密に使い分けをするべき」と言うつもりは全くない(福工大前については、「前」よりも「入口」のほうが適切な気もするし)。
ちなみにJR筑豊本線(原田線)の「山家(やまえ)駅」の前のバス停にも「前」は付いていない。

「都府楼前駅」付近は、国道3号(関屋高架橋とその側道)、県道112号(旧国道3号)、及び西鉄の線路が、絶妙な位置関係で立体交差していて、その「立体感(?)」がなかなか面白い。
そして、「400番」で福岡市中心部からやってきてここで降り「まほろば号」に乗り換えるというプロセスは、平田から「23番」に乗り換えようかとか、五条から星ケ丘線に乗ろうかとか、水城から大城に抜けようかとか、天満宮で梅ケ枝餅を買おうかとか…、いろんなプランが湧いてきて、このワクワク感も面白い。 

以前書いた記事に対してTokyo Chikushiさんから、「国道3号線のバイパスが都府楼前駅横を通るようになった時(1980年頃だったか)に、ここを乗換駅として空港へ行くバスがあるとよいのに、と思ったものです。そのバスの起点を太宰府とすれば、空港からの太宰府観光の直通ルートにもなるのにとも思ったものです」というコメントをいただいた。
この路線、私も大賛成であり、ぜひとも検討していただきたいものである。
(つづく)


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4 コメント

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Unknown (Tokyo Chikushi)
2009-11-16 15:28:39
以前の私のコメントを引用していただき、ありがとうございます。性懲りもなく、もう少しコメントします。

この付近の道路の交差の変遷は、実に興味深いと思います。県道112号(当時の国道3号)と電車の立体交差は、西鉄大牟田線の立体交差としては、相当に古いものだと思います。コンクリートでなく盛り土であることからもわかります。他には、平尾の旧筑肥線との交差部、井尻雑餉隈間のJRとの交差部などがありますが、道路との交差というだけで、立体交差となっているのは、当時はここ関屋くらいだったと思います。
その盛り土に孔を空けて大きな道を通し(これが1980年頃)、とても便利になったと思ったら、今度は盛り土道路の上にさらに高架の道路を造り、ノンストップで通れるようになった。

元々は旧国道3号から、太宰府へ行く県道が分かれる交通の要衝で、一見三叉路ですが、もう1本狭い道が北西方向に向けて県道112号に平行して走るというものでした。この狭い道こそが、更なる旧道であったと思われます。この狭い道から関屋交差点に出るところには、大きな鳥居がありました。今もありますか?

この関屋交差点は、当時の国道3号線の交通の要衝の一つで、特に正月は渋滞のメッカでした。
私にとっては母の運転するクルマで、トラックと接触し横転という思い出があります。幸い乗っていた3人とも無傷でした(昭和40年頃の話)。

バス停は、地図に大町ビルと書かれている付近の上下に「関屋」バス停があるだけでした。といっても、バスの本数は相当なものです。それと、太宰府方面に分かれてすぐの、地図に秋吉外科とあるあたりの上下に、二日市(宇美)線の「関屋」バス停がありました。そうしてその道を太宰府方向に行った次のバス停が「都府楼前」であり、正に名のとおり、大宰府政庁跡の真ん前でした。
3号線の方は、バス停の間隔が長く、「関屋」の北は「水城」(都市高速が終わり、県道112号と交差してくるあたり)、南は「六反」(二日市の町並みに入る入り口あたり)でした。

都府楼前の駅前には狭い道の踏切があるのみで、駅舎も小さく、共働タクシーの車庫があり、電車から降りた客を待っているという感じ。反対側は水城病院があり、その先は行き止まりだったと思います。

「都府楼前」にしろ、「水城」にしろ、バス停の命名は、汽車や電車の駅名と離れた地点に、同じ名称を全く独立してつけるものなのだなぁ、間違えないのかなぁ、などと幼心に感じておりました。

「都府楼前」駅は、今や西鉄大牟田線の中では、跨線橋などで階段を上下することなくホームにたどり着ける数少ない駅となってしまいました(白木原はどうですか?)。だからこそ、大きな荷物を持って空港行きのバスに乗り換えるのには適しているとも思うのですが…
キャリーバッグをごろごろ転がして踏切を渡り、レールの間に挟まれて動けなくなったりしては困ると考え、西鉄としては、空港バス路線を引くのに二の足を踏むのではないかと、最近では考えるようになりました。
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Unknown (soramame)
2009-11-16 22:42:17
Tokyo Chikushiさん、こんにちは。

貴重なお話をありがとうございます。
時代とともに道路も重なっていく様子が面白いですね。
なお、一番「上」を走る「関屋高架橋」ができたことによる3号線の時間短縮効果はかなり大きかったようで、(新)3号線を通るバスの復活(400番)につながっています。

関屋交差点の鳥居には、現在はまほろば号が通っていて、都府楼前駅と太宰府政庁跡(かつての「都府楼前」バス停)方面を結んでいます。
旧3号線や県道筑紫野太宰府線にも、現在は西鉄の40番の時代よりも短い間隔でまほろば号のバス停が設置されていますが、(コミュニティバスなので仕方ないですが)いずれも市域内のみの運行です(北は国分・水城の住宅地へ、南はJR都府楼南駅へ)。

ちなみに白木原駅は高架工事中で、現時点では都府楼前駅と非常に似た感じになっています。
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Unknown (Tokyo Chikushi)
2009-11-17 02:24:46
私の祖父は、国分の少し上の方に住んでいました。祖父の家に遊びに行くのに、駅からの道が遠くってまだ子どもだった私には、ずい分つらいものでした。しかも上り坂だし。
「なしておじいちゃんはこんな遠い山に住んどおとかいな」などと思っていました。

後になって聞いた話では、祖父は昭和31年頃に、そこに建て売り住宅を買って、それまで住んでいた地行から引っ越したとか。その時の不動産屋からの勧誘の決め手が、もうすぐ駅からのバスが通るようになるとのことだったそうです。
祖父の家からさらに登っていくと、そのまま四王子山へ登る道となります。祖父の家の数軒先あたりで台風による鉄砲水が発生し、10人近い死者が出ました(昭和48年だったかな)。

「まほろば号」が走るようになって、なるほど確かに国分の上のほうまで、バスが走るようにはなったのですが、すでに祖父が他界した数年後のことでした。
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Unknown (soramame)
2009-11-19 12:28:24
Tokyo Chikushiさん、こんにちは。

昭和30年代に「もうすぐバスが通る」という話で勧誘して、実際通ったのが平成11年ですから、今だったら宅建業法などで罰せられそうですね…。
でも考えてみれば、私も子供の頃、実家の前の道に「バスが通るかも」という噂がありましたが、結局現在も通っていませんから、昔はその手の「勧誘」が多かったのかもしれませんね。

同じ太宰府市でも、星ケ丘地区には、まほろば号以前から西鉄の小型バスが乗り入れるようになっていて、このあたりの「差」の原因は何なのか気になるところです。
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