最近、かって繋がりのあった人との再会が非常に大切に思えてきて、学生時代に一緒に汗を流したり遊んだ友人たち、一緒に会社で仕事した人や、園芸関係のボランティア活動で共に苦労した人たちとのOBOG会的な集まりの実現に積極的に動いています。
私もツレアイも元気だった数年前までは、この種の集まりはそれ程重要視していなかったのですが、最近少し心境の変化です。
昨年末にツレアイがあっけなく亡くなった時に、命の儚さというものを体験しましたし、ツレアイの以前の友人知人たちが沢山弔問に来て下さったり、その後も何かと気遣って下さる様子を体験し、人との繋がりの大切さを実感したこともありますが、同時に高齢化と共に私の周りの色々な変化もあります。
今年になってからでも、高校時代に同じ運動部で苦楽を一緒にした仲間が亡くなっていたり、同期に会社に入った人が亡くなっていたり、或いは死亡や寝たきりまでは至らなくても体のあちこちの故障で外出もままならない友人知人が増えたりしているのが余りにも多いことに気付きました。
更に、毎日行っているジムのサウナ仲間でも今年になってから顔を見なくなった人が3名はいますし、私がブックマークに登録し楽しみにしていた同年代の方のブログでも3名ほどの方がブログ更新を辞められました。
そういう事が重なり、友人知人たちとは出来るだけ会える時に会っておこうという気持ちも起こり、幹事役というか連絡役を買って出ています。
一言で言えば、昔「俺たちに明日はない」という映画がありましたが、これに習うと『私たちに“また今度!”という言葉はない、会える時に会っておこうよ』という心境です。
私がこのような心境に到った最大の要因は勿論ながら自分だけでなく親しい友人知人たちが同様に高齢化していることですが、もう一つコロナの影響もあるでしょう。
コロナのお陰で、友人知人たちと会う機会が極端に少なくなり、お互いの変化を知るのが随分後になってからということが多いのです。
更に、これに拍車をかけているのが、世の中には80近くになると年賀状を自粛するという風習が結構多い様で、相手の近況が判らなくなっているという状態が多いことも影響していると思います。
会社関係の儀礼的な付き合いならいざ知らず、苦労を共にした友人知人たちには、例え悪い状況であっても何とか生きているのだというお知らせとしても年賀状を続ける意味は非常に多いのではないかと思います。
現に、先日も40年以上ぶりに会ったかっての仕事仲間とも、年一度の年賀状で近況を知らせ合っていただけに、スムースな会話に入れましたし、年賀状に拠る状況交換の効果は非常に大きいものであることを再認識しました。
高齢者にとって、年末の忙しい時期に煩わしい行事かも知れませんが、可能な限りは少しでもお世話になったり自分を気遣ってくれている人には、何とか年賀状を続けて行こうと思っている今日この頃です。(まさ)