老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

6年経過したのに、その2   ~専門家と“想像力の欠如”~ 

2017年03月12日 20時22分55秒 | 原発関係
 その1で見てきたように、事故から6年も経過したのに、避難生活をされている方の今後の生活に対してはっきりとした予定提示もできず、事故処理の方法・期間・金額なども把握できていない状態でしょう。

 別な角度から見ると、いままでこの原発を推進してきた“専門家”というのが、彼らが対象とするのが万一の場合に悲惨な結果を招く危険極まりないものなのに、その制御・対応方法も判らない、言わば“木を見て森を見ない”類の、ごく狭い部分のことしか判らず、全体を把握できない無能で無力な想像力が欠如した、いわゆる専門バカと称される人たちであったのかと驚く他ありません。

 それにも、関わらずこの国の政府は、まだ従来通りに“専門家”なるものに頼って(或いは利用して?)少しだけ基準をいじっただけで、原発依存への姿勢を変えようとはしていません。

 住民や国民にあれほどの苦しみを与えている福島原発を経験しながら、人間の想像を超えた自然の力の恐ろしさや原発事故の恐ろしさなどを何も学んでいない、“想像力の欠如”を露呈した、“専門家”や“政治家”にこれ以上任せることの不安を誰よりも感じているのは、福島の住民でしょう。

 馬鹿の一つ覚えみたいに“万一の事故対策費を含めても、原発のコストは安く、CO2対策からも必要”と繰り返す政府ですが、これが本当なら福島原発の事故処理費を広く国民に求める必要などないでしょう・・・

 確かに、石油や石炭の比重を高めればCO2の排出は増えるでしょうが、原発関係で要する莫大な資金を投入すれば、日本の技術でこの問題はクリアーできると期待しますし、これらの過渡期を乗り越えて、一刻も早くCO2の排出のない再生可能エネルギーに切り替えの舵取りするのが、想像力があり、国民や世界のことを考慮した政治ではないでしょうか。

 まだ原発事故に遭遇していない、欧州や台湾などが、いち早くこの方向に舵切りをしたことは、国民の不安や政治リーダーの見識の高さを表すものでしょう。


 今日(12日)の新聞は、事故発生6周年になる昨日(3月11日)の出来事を色々と報じていますが、その中で私の眼にとまった象徴的な記事は

◆東京都内で開催された東日本大震災の政府主催の追悼式に出席した安倍総理は、その式辞の中で「原発事故」という言葉を一言も使用せず、「復興は着実に進展していることを実感します」「福島においても順次避難指示の解除が行われるなど、復興は新たな段階に入りつつあることを感じます」と、その1で触れた様な住民の痛みなどに配慮しない、通り一遍の発言だけだったようです。

◆一方東北大震災に対して、多大の義援金を送っていただいた台湾では、台北市などで「脱原発」のデモがあり、数千人が参加されたようです。(まさ)