詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(24)

2015-05-23 09:10:40 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(24)(思潮社、2015年04月30日発行)


木と詩

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、私たちが言葉で目指すものは何だろう。木は私たちの外部に存在して
いるのだが、それを木と呼んだときから、木は私たちの内部にも存在する。
 では、木ではなく詩だったらどうか。詩というこの言葉が、目の前の現実の
この詩とは似ても似つかないということはあるだろうか。しばしばあると私は、
いや私でなくても断言する人は多いだろう。
 木は木という言葉に近づこうなどとは思っていないが、詩は詩という言葉に
近づこうとして日夜研鑽に励んでいる、のは私に限らない。詩という言葉と、
木という言葉はどうしてこうも違うのだろうか。
 しかし木が詩になることがある。言葉というもののおかげで、それが可能に
なるのだ。詩になることで木は倒れ朽ち果てたあとも、記憶に残る。しかしそ
れは絵や写真として残った木とはまた違っていて、本物の木とは似ても似つか
ないからこそ言葉上の木になっているのだ。
 木と詩、事実の世界では全く違う二つの存在が、人間の心の世界では相即の
関係にある。詩もまたそこで生まれる。

 散文で書かれている。テーマは「言葉とは何か」、あるいは「言葉と詩の関係はどこにあるか」。木を媒介にして、そのことが考えられている。「木という言葉/言葉の木」「木という現実/現実の木」。「現実の木」は「私たちの外部に存在する木」、「言葉の木」は「内部に存在する木」と言い換えられている。「内部」とは「意識」でもある。「外部=現実」「内部(意識)=言葉」という「対」が第一段落で書かれている。
 これが第二段落では、「木」を「詩」に置き換えて、考え直されている。「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの(意識が理想とする詩)」が対比され、それは「似ても似つかない」という「考え」で整理し直されている。
 第一段落では、「現実の木(外部に存在する木)」と「言葉の木(内部に存在する木)」は「似ても似つかない」と断定的に書かれている。「似ても似つかない」と「知っている」と書かれている。第二段落では「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」ことも「しばしば」ある、と書かれている。ということは「似ている」ということも、ありうるということだ。
 この微妙な「違い」の方へ、谷川は思考を動かしていく。「詩」の方に寄り添うようにして、「現実の詩=外部に存在する既成の詩(書いてしまった詩)」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」とき、その「似つかない」ものを修正し、「内部の詩=私が詩と思っているもの」に近づこうと「研鑽する」。「書いてしまった詩」を「意識が理想とする詩」に近づけようと推敲する。「詩」というものが「私の内部」で動くのに対して、「木」というものは「私の内部」とは無関係な「外部」に最初から存在しているので、「近づく」ということがない。
 動く(近づく)のは、あくまで「言葉(意識=内部)」の「述語」であって、「木」の「述語」ではないのだ。
 「木が詩になる」とは「現実の木」に対して「言葉(意識=内部)」が近づいてゆき、近づく力で「木」を「人間の内部」に取り込み、「木」そのものに育てる。「現実の木/外部の木」はそこにあるだけだが「内部の木」は「言葉」が近づくこと、「言葉」で描写すること、その運動の中で「木」そのものを少しずつととのえ、ととのえることで「内部の木(意識の木)は「木」らしく(木に似たものとして)「育つ」。「外部の木」と「木と思っているもの/こと」が「言葉」のなかで重なり、それが「内部で木になる」。何が「木になる」かといえば「(私が)思っていること」が「木になる」。だから、それは「私が木になる」ということでもある。「木が詩になる」とは「木が私になる/私が木になる」がしっかり結びついて、区別がつかない状態のことである。「木が私/私が木」であるからこそ、それは「記憶(肉体の内部)」に「残る」。それは写真や絵と違って「現実の木」とは「似ても似つかない」からこそ詩(言葉上の木)になっている。
 この「木が私/私が木」のことを谷川は「相即」と呼んでいる。「木即私/私即木」ということが起きているのが「詩」であると言っている。詩は「木即私/私即木」という「場」で「生まれる」と言っている。
 この考え方は、私にはとてもよくわかる。というか、とても納得できる。私は「木即私/私即木」という「一元論」こそが詩であると感じはじめていて、それを何とか自分のことばで言いなおしたい、と思いつづけている。だから、これは私の「誤読」からもしれない。自分の言いたいことを言うために、谷川の詩から自分の考えに都合のいいところだけを抜き出して利用しているだけかもしれないのだ。
 また、この詩集を読みはじめたとき(最初に「あとがき」について触れたとき)、「詩に就いて」の「就いて」は「即」かもしれないと書いたが、いまこの詩を読みながら、あ、やっぱりそうなのだと確信したのだ。「あとがき」に触れたとき、私はまだこの詩を読んでいなかった。谷川は「ついて」と書かずに「就いて」と書く。その「漢字」のなかに「即」がひそんでいる。その予感が、この詩を読んで「的中した」という感じだ。だが、だからこそ、私はまた、これは「強引な誤読」とも感じる。こんなに都合よく私がうすうす感じていたのと同じ「即」が出てくるのは、どこかで私が間違っているのだとも思う。
 「論理」というのはいつでも「自分勝手」というか、「自分の都合」にあわせて「事実」をねじまげていく。ねじまげた「こと」を「事実」と信じ込んでしまう。「脳(頭)」は自分自身に対して「嘘」をつく。都合のいい「現実」をつくりあげる。

 こんなこと、私がいま書いていることを信じてはいけない、と私の直観は言う。

 だから、違うことを書いてみる。私はいま谷川の「論理」を追ってきて、それは私の考えている「一元論」の「詩論(?)」をそのまま代弁してくれているように感じ、また、そう呼んでしまい、酔ったような気分になってしまったが……。
 その「論理」を追う前、私は谷川のことばに激しくつまずいたところがある。

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、

 そうなのだろうか。
 私は実は「木という言葉」と「現実の木」が「似ても似つかない」とは、自分からは意識したことがない。谷川がそういうので、確かに「木という言葉」には木の形、色、匂い、手触り、音(風に揺れたり、叩いたりしたときにでる音)、味(葉っぱを齧ったときに感じる)がないと思う。しかし、そういうことを言えば「絵や写真」にしても同じである。絵や写真は「形/色」を「似ている」ものとして表現しているが、それを「似ている」と勘違いするのは人間だけかもしれない。猿は絵に描いた木に上ろうとするだろうか。犬においかけられた猫は写真の木を攀じ登るだろうか。そんなことは、とうていありえない。そうだとすると、絵や写真の木も、一種の「言葉」であって、人間がかってに「内部」に存在させているものに過ぎない。絵や写真の木はたいていは現実の木よりも小さい。それを私たちは勝手に拡大して、現実の木を想像している。それは「木という言葉」を聞いて現実の木を想像するのと差がない。「視覚」に頼って木を想像するかどうかの違いがあるだけだ。
 ここで踏み止まって、「ことば」とは何かということを考え直さないといけない。きっと、ここに「つまずきの石」がある。

 余分なことを、もうひとつ書いておく。
 私は何度か谷川は「定型」からことばを動かしはじめると書いたことがある。この詩でも、

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、

 というのは「定型」である。「木という言葉」は、絵や写真のように「現実の木」とは似ても似つかない。「形」が似ても似つかない。「似る」という「動詞」を考えるとき、多くの人は「視覚」で「似る」を判断してしまう。音が似ている、匂いが似ている、味が似ているという表現もあるはずなのに、「現実の木とは似ても似つかない」と聞いた瞬間に「視覚」を動かして、谷川のことばを信じてしまう。私たちが情報の多くを「視覚」に頼っている証拠である。谷川は、こういう人間の認識の「定型」をすばやく掴み取って利用する。
 ただし、その「定型」をそのまま動かしつづけるのではなく、それを途中で叩き壊して別なところへ動いていく。この詩も「形」が「似ても似つかない」と出発しながら、「形」を超えた次元で「相即」ということばを動かしている。
 だから、感動してしまう。
 この感動の中にとどまれば、それは詩を楽しむことになる。
 この感動が人間とどんな関係にあるか、この感動が人間をどんなふうに動かし、ととのえていくのかを考えるとき、それは詩の「批評」になる。





詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社


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