詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陳黎「日々の暮らしの片隅に」

2010-02-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
陳黎「日々の暮らしの片隅に」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 「現代詩手帖」2010年02月号に「アジア現代詩祭2009」に参加した詩人のアンソロジーが掲載されている。私はアジアにどんな詩人がいて、どんな作品が書かれているかまったく知らないので、とても興味深く読んだ。
 陳黎「日々の暮らしの片隅に」は「詩のことば」そのものをテーマにして書かれている。詩を詩で書いている。あ、北川透みたいだ、と思った。
 2連目。
 
対象と対象は互いに相手のことは聞いても付き合う必要はない
浮き上がってきてできたイメージが別のイメージに
好意を示し肉体関係を求める 声と匂いはしばしば事前につるみあい 密かに気脈を
通じあう 色はもじもじしている幼い姉妹たち そいつらは家にいて
カーテンベッドカバーバスローブランチョンマットをきちんと用意し 旦那様のお帰りを待って 明かりを
点さねばならない 一篇の詩は 一つの家のように 甘ったるい負担である
愛情も欲望も苦痛も憂いも全て引き取り 甲斐性の有る無しに関わらず包容する

 ことば、イメージが「肉体関係を求める」。これって、北川透そのままでしょ? 3連目には、北川さん、台湾では「陳黎」というペンネームで詩を書いているんですか?と質問したくなるような行がある。

そいつらは保険所で避妊手術を受けたりコンドームを買ったりする必要はない

 ほんとうにびっくりしてしまう。たぶん、台湾と日本の「現実」が似ているから、ことばは国境を超えて響きあうのだろう。
 --ということを書きたくて、実は、この作品を取り上げたわけではない。国を超えて、「現代詩」が似てしまうのは、まあ、当たり前かもしれない。
 私は、その「事実」よりも、2連目に出てくるあることばに、はっ、と驚いたのである。
 ことばは(イメージは)……

声と匂いはしばしば事前につるみあい 密かに気脈を/通じあう

 陳黎の書いている「声」「匂い」が具体的にどういう「文脈」から生まれてきたものか、私は推測できないが、私はつねづね、ことばはそれぞれ独自に「声」をもっていると感じている。「流通言語」では「独自の声」は消され(奪われ)、「意味」にしばられているが、ことばそのものは本来それぞれが「意味」とは無関係に独自の「声」をもっていると感じている。詩とは、その「独自の声」が「流通言語」の「意味」から解放されて、暴走するときに姿をあらわすと感じている。(陳黎は、「声」にくわえて「匂い」も書いてるが、まあ、ほかにもいろいろあるかもしれない。とりあえず、「声」だけに「代表」になってもらうことにする。)
 その「声」が「事前につるみあい 密かに気脈を/通じあう」。
 こういうことは、私は、ある、と思う。
 ことばというのは、どうしても「意味」へ向けて動いていくものだが、そういう「意味」をめざして動く前に、「意味」にならない前に(事前に)、「気脈を通じあう」。「気脈」とは「連絡」と似たようなものだが、「連絡」に比べると「気脈」はことばにならないものだろう。「意味」として「誰にでも」わかるものではないだろう。わかりあえるものにだけ、わかる。共通言語(流通言語)以前の、ことばになる前の、ことば。ことばは、いつでもそういうものを通じ合わせて動いている。
 そういう「気脈」が、次々にことばを呼び寄せる。
 「もじもじ」もそうだし、「甲斐性」も「避妊」も「コンドーム」も、ことばの「肉体」が呼び寄せる。
 1連目には「区役所」だの「戸籍」だのが出てくるが、それは3連目では「倫理道徳」というような形にかえて、集まってくる。ことばの「声」が「気脈」のつうじることばを集めてきて、そこに「自由国家」をつくる。それが詩なのである。
 陳黎が詩を書いているのではない。ことばが、かってに自分たちで「気脈」をつうじあわせて、動き回る。「自由国家」をつくる。陳黎がなにかをするとしたら、それは「流通言語」を破壊し、ことばを「意味」から解放するということだ。
 陳黎と北川透が似ているのは、その表現が似ているのではない。その「肉体」が似ているのだ。「意味」ではなく、ことばの「気脈」がかってに動くように、「流通言語」を破壊するという「思想」が通じあっているのだ。ことばには、ことば自身の「声」が(匂いが)ある。それを復活(?)させようとする「意思」が気脈のようにして通じ合っているのだ。

 あ、こういう考え方って、アジア的?
 私はアジアも西欧も区別がつかないので、よくわからないが。

 最終連は、かってに動いていったことばの、いまのことろの「最終」の「場」なのだろうけれど、この数行は美しいなあ。「気脈」云々なんて、書いてきたことが恥ずかしくなる。ことばの気脈も肉体関係も、なんにも関係がない。ただ動いたことばが、こんなところに出てしまった、という感じ。こんなところって、どこ? 知らないさ。どこ、って特定できたら「流通言語」の「意味」になってしまう。そういうものとは「無縁」、無縁であることによって成立する「無意味」の無垢さ。
 明るくて、へこたれない健康さ。
 ことばは「流通言語」から解放されて自由になれば、こんなふうに輝けるのである。

トマトがひとつ寂しくレジに載っている。君は言う
素晴らしいじゃないか トマトがひとつ寂しくレジに載っている
一行が一家を成している
こいつは日本、いやひょっとして絶句の盛唐からの移民ではないかと訝る
君は一切気にしない 一切気にせずそいつらを洗いざらい
小さな買い物袋に詰め込んでしまうのである




 トマトが出てきたついでに。(飛躍だらけの、補足)
 アルモドバル監督の「抱擁のかけら」という映画にトマトが出てくる。アルモドバルの大好きなスペインの赤--その赤の象徴としてのトマト。その上に一滴水が垂れる。つーっと、流れる。それが、ふいに、セックスの絶頂の最中に(たとえばペネロペ・クルスのような絶世の美女のセックスの前兆の最中に)、官能で熟れきった肌を流れる一筋の汗のようにみえる。トマトが絶世の美女の、輝かしい肌にみえる。
 これは、映像における「気脈」が通じたシーンである。
 そういうことが、ことばでも起きる。そういうことをことばで実現する--それが詩である。


現代詩手帖 2010年 02月号 [雑誌]

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