詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「隠された記憶」について(再び)

2006-11-13 21:10:14 | 映画

「隠された記憶」については、7月11日、
http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/6c751bf496d3a2b91140594730e800c2
で書いた。
いろいろなブログを見ていて気がついたことがあるので、少し書き加えておきたい。
たとえば、
http://eigajigoku.at.webry.info/200605/article_3.html
の筆者「瓶詰めの映画地獄」さんは次のように書いている。

この映画、フライヤーや劇場予告篇などにもあるとおり、
“ラストカットに全世界が震撼”というのがひとつのウリになっているハズなんだけど、
あのラストカットのいったいどこに震撼すればよかったのか、
恥ずかしながら、正直ボクにはまるでわからなかった。
話によると、あの大学の玄関前の風景のなかに、
盗撮犯の正体につながるような何かが映っているらしかったんだけれど、
ボクはてっきり学生の集団の前に上からボトンと人が落ちてくるものとばかり思っていたので、
身構えているうちにまんまと見過ごしてしまったようだ。

私は、この反応はごく普通のことだと思う。
ラストシーンで主人公の息子と父親の知人の息子が親しげに話しているシーンがあり、そのことから2人が犯人ということらしい。そのことが「震撼」の理由らしい。
これは非常にふざけた話である。
2人が犯人なら犯人でかまわないが、こういう「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)のようなものに「震撼」してしまっては映画の面白みはない。
2人が犯人なら、もっと明確に二人の姿を映しだすべきだし、2人が会っているという伏線を明確に映像として先に提出しておかなければならない。
伏線も何もなしに、突然2人の姿を、群衆のなかでとらえ、2人が犯人というのでは観客をなめきっている。

もし、「震撼」すべきことがあるとすれば、その2人が会っているという最後の映像を誰が撮っているかということにこそ「震撼」すべきである。
主人公の家に送られてきたビデオと同じように、固定したカメラが2人をとらえている。それは犯人である2人が撮ったものではない。ということは、2人を「犯人」に仕立て上げようとしている人間が存在するということである。
それは、誰か。
監督である。脚本家である。カメラマンである。つまり、映画制作者である。
2人は監督によって犯人にでっちあげられている。「辻褄合わせ」(後出しじゃんけん)と私が批判する理由はここにある。
何もかもが監督の思いのまま、監督の辻褄合わせだけで犯人がでっちあげられる。そういう映画の作り方にこそ私たちは「震撼」しなければならない。
また、そうしたでっち上げをうたい文句にして映画を売り込む方法にこそ「震撼」しなければならない。

この映画が魅力的なところは、主人公の過去がしだいに主人公自身によって暴き出されところである。送りつけられてきたビデオが主人公の隠し続けていたものを誘い出すのであるが、あくまでそれは誘いだしであって、実際に暴くのは主人公自身である。
主人公が自分自身の秘密と向き合う。隠しておきたいものを隠しきれなくなる。人間には、そういう瞬間が来るのだ。
たとえば、ギュンター・グラスが「ナチスにいた」と告白しなければならないような、劇的な一瞬が。
そういうことを考えながら、もし、ほんとうに「震撼」すべき何かがあるとするなら、最後の2人の姿を手がかりに「震撼」すべき何かがあると仮定し、そこから「答え」を導き出すならば、ビデオは主人公自身がカメラを据えつけ撮影したもの、ということになるだろう。
自分の過去のいかがわしい部分、それを隠しきれず、つまり誰かに語ることによって、その重みを分担したいと願い、その分担してくれる人に語りかけるために、主人公自身が全てを企んだのだと考えるべきだろう。
ラストシーンを撮ったのが監督ではなく、それまでのビデオを撮った人間がやはり同じようにして隠し撮りしているのだと仮定したとき、そうした隠し撮りをできるのは主人公しかいない。主人公が2人を「犯人」にでっちあげることで、自分自身の過去を明るみに出すしかなかった責任を「犯人」に押しつけているのである。
自分自身の過去を清算するために、過去の告白を迫る「犯人」さえもでっちあげる人間がいる--それは確かに「震撼」すべきことではある。

しかし、書きながら、こんなことを書いても映画の批評にはならないなあ、と思ってしまう。
私の書いたことは「映像の論理」ではなく、「ことばの論理」である。
映画には少しも触れていないのだ。

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3 コメント

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こんばんは (ノラネコ)
2006-11-13 23:32:16
連作レビュー読ませていただきました。
とても面白い考察でした。
この作品は、映画を文章で語ることの難しさを、改めて認識させてくれました。
私は、物語の本質とは、語り手の問いかけであり、受け手との思考のキャッチボールにあると思っています。
その意味で、この作品は正しく物語でした。
返信する
こんばんは (栗本 東樹)
2006-11-15 01:43:36
よもや自分の拙文を
引き合いにされるとは思ってなかったので、
大変恐縮、というより恥ずかしい限りです。

本作の内容分析に関しては本篇よりも、
谷内さんの文章を読んでいる方がよほど面白く、
個人的に自分は、
このミヒャエル・ハネケという作家の思想、
というかスタンスの取り方が好きじゃありません。
「問題提起」とはよく言いますが、
それはスクリーンと観客との対話を促す一方で、
観客の思考を一時停止の状態にもします。
本作のラストはまさにそれじゃないでしょうか。
あんなラストを見せられても、
「それがどうした?」としか思えず、
それを「深い」「凄い」と評価されることにこそ、
自分は何か背筋がゾッとする薄ら寒さを感じます。

乱筆失礼致しました。
そして2度にわたるTBありがとうございました。
返信する
隠された記憶について (宮島)
2006-11-28 02:05:55
ミヒャエル・ハネケは、行間が綺麗に取れている作家です。
鑑賞の中で停滞していた疑問や感情は、映画見終わると噴出します。
鑑賞中は呆けているが、蓄積された感情が鑑賞後に湧くのは画中の行間が綺麗なのでです。
愛されるべき作家だと思います。
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