詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細見和之『家族の午後』

2010-12-19 23:59:59 | 詩集
細見和之『家族の午後』(澪標、2010年12月20日発行)

 細見和之『家族の午後』の巻頭の「手前の虹」はとてもおもしろい。

結婚して間もないころ
妻とふたりで城崎へ出かけた
福知山線の丹波大山駅を過ぎたところで
窓の外に虹が見えた
山の彼方ではなく
山の手前
ほとんど手で掴めるすぐそこに
その虹はかかっていた

その後三年で
私たちは早々と破局を迎えていた
私は昼間翻訳の仕事にかかりきりで
夜はひたすら酒をあおっていた
私が飲み疲れて眠るころ
ようやく妻は外の勤めから戻ってきた
やがて妻は
いくつかの家財道具とともに
家を出た

それから
月に一度だけ妻と食事をしたり
映画を見たりする日々が続いた
右往左往ののちに
私たちは元の暮らしにもどったが
その間たがいに
虹の話はしなかった
これからもきっとしないだろう

私たちのまなざしに
ぼんやりとした
その始まりと終わりまでを
まるで無防備に差し出していたあの虹

 私は3連目がとても好きだ。特に、「その間たがいに/虹の話はしなかった」というところが好きだ。もっと厳密にいうと、「その間」が好きだ。
 「その間」って何?
 「学校教科書文法」から言えば、月に一度食事をしたり、映画を見たりする「間」、ということになる。別居して、右往左往して元の暮らしにもどるまで、ということになるかもしれない。
 ところが、私の「印象」では、そうはならない。
 「その間」は、「学校教科書文法」の指し示す「その間」とは違う。「その間」ではなく、むしろ、「その後」である。元のように二人で暮らしはじめてから以降、そのときから「いままで」である。
 だからこそ「これからもきっと」ということばが続くのだ。
 別れて、またくっついてから「いままで」虹の話をしなかった。だから、これからも話しはしない。しないだろう。

 「その間」は別れてからくっつくまで(もとにもどるまで)ではない--ということは、また別の意味も持ちはじめる。別れて、くっついて、それからいままで、であるなら、「その間」は、また「別れる前」をも指しているかもしれない。ごたごた(?)がある前--つまり、虹を見て、それから別れるまでの間、その間も二人は虹の話をしなかったのだ。二人は一度も虹の話をしていない。
 けれど。
 その、虹を見た記憶は、話さなくても二人に共有されている。
 私には、そんなふうに読めるのである。私はそんなふうに「誤読」してしまうのである。

 このとき「手前」ということばが不思議な感じでなまなましく生きはじめる。

山の彼方ではなく
山の手前
ほとんど手で掴めるすぐそこに
その虹はかかっていた

 ここにあるのは不思議なレトリックである。
 虹は山の彼方であろうが、山の手前であろうが、「ほとんど手で掴めるすぐそこに」など、ありはしない。手に掴めるところにある虹は、水道管が破裂したときにできる虹くらいなものである。列車が走りながら見る虹は、どんなに山の手前にあっても手に掴めるはずはない。
 「手に掴める」はレトリックである。そうであるなら「山の手前」もレトリックである。「山」と「私」の「間」が「山の手前」であり、そこにあるのは「はっきりしない間(ま)」である。そして、はっきりしないからこそ、その「間(ま)」はなまなましく動く。「間(ま)」の距離、広がりは、存在しながら、存在しない。「距離」は存在しないが、隔たっているという感覚は存在する。
 「間(ま)」は感覚なのである。「手前」も感覚なのである。「私」が感じている「もの」なのである。
 この存在しながら存在しない「間(ま)」--それこそが、二人がくっついたり、わかれたり、そしてまたくっつくときに、二人の間(あいだ)にあるものなのだ。
 それは明確にしてはいけないもの、明確にはならないものなのだ。ただ、あ「間(ま)がある」と感じて、それを受け止めていくしかないものなのだ。

私たちのまなざしに
ぼんやりとした
その始まりと終わりまでを
まるで無防備に差し出していたあの虹

 この最後の4行は、虹のことを語ってはいない。ふたりのことを語っているのである。ふたりは、ふたりの関係を、その始まりと終わりまでを、まるで無防備に、たがいに差し出している。その始まりと終わりはぼんやりしているけれど、つまりことばにしようにも明確にはならないものだけれど、「肉体」のなかではしっかりとわかっていることである。どこを踏み外せばまた別れるのか、どこに手をさしのべればこのままつづいていくことができるのか--そういうことが「手で掴む」ではなく「手に触れる」ようにわかるのだ。それは、いわば「手の前」にあるのだ。
 1連目「山の手前」は「山の」「手前」ではなく、「手の前」であり、その手の向こうに(手の彼方に)山があるのだ。

 細見にとって、大切なものはいつでも「手前」、「手の前」にあるのだ。「手前の虹」とは「手の前の虹」である。





アドルノの場所
細見 和之
みすず書房


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