誰も書かなかった西脇順三郎(162 )
『豊饒の女神』のつづき。
「豊饒の女神」の書き出しは西脇の音楽をとてもよくあらわしている。
もし、1行目、その書き出しが「二月なのに」だったら、この詩は動いていかない。「なのに」「だのに」は「意味」は同じ。同じだけれど、響きがぜんぜん違う。
二月「な」のに、だったら、あき「の」はれは「の」と「な行」が響き、次は「ね」がする、と読んでしまうかもしれない。
二月「だ」のに、だから、あきのかれはのお「と」がする、とつづき、それが次の行の、ぜいむしょへ「だ」すけいさんを「た」のみに、とつながり、さらに3行目の「で」んえんのさかのま「ち」をさすら「っ」「た」と響いていく。
この3行には「だ」のに、「ぜ」いむしょ、「だ」す、「で」んえんという濁音の響きも美しく響いている。そして、これが「な」のにだとしたら、4行目の野薔薇、の「ば」ら、の濁音が登場する理由がなくなる。「だ」という濁音が、の「ば」らという濁音を呼び寄せている。また、「だ」という濁音が、「野薔薇の海で」の「で」を許しているである。
というのは、なんとも華々しいイメージで、絵として見るには芸術的というよりは、かなり毒々しい。うるさい。けれど、これを音楽から見るとまったく違う。
「のばら」は「オペラ」のためにあるのだ。絵画的イメージを超えて、ここでは音楽が優先しているのである。
のば「ら」、おぺ「ら」は、さらに、て「ら」してい「る」という「ら行」につながっていく。
このとき「だ行」(た行)ではじまった音楽が「ら行」にかわっているのだが、ここには西脇の出身地、新潟の「音」の影響があるかもしれない。「た行」と「ら行」は「ら行」をRではなくLで発音するとき、とても接近する。
私は西脇自身の声を聞いたことがないが、私の生まれの富山の東部、つまり新潟よりの人が「ら行」をLで発音するのを聞いた記憶がある。「オペラ」は外国語そのものはRの音だが、RとLを基本的に区別せず同じ音として聞いてしまう日本人には、Lで発音してしまうということもあるかもしれない。西脇自身は英語の人間なので、明確に区別するだろうけれど。
まあ、ここには、私の感じている音楽と、西脇の耳とのすれ違いがあるのだけれど、すれ違いと感じながらも、先の引用が次のように展開していくとき、私はそんなにずれたことを書いているのではないという気持ちにもなる。
突然の変化。「先をよこぎるものがあつた」の「先」。これはもちろん「目の先」なのだろうけれど、私には「音の先」(耳の先)のようにも感じられるのである。
「た行」と「ら行」、その揺れ動きのなかにLとRが交錯して動く。あれは何?
「猫」と「虎」。まあ、似ているね。LとRのようなものかもしれない。
私の書いていることは、たぶん強引な「誤読」というものだろうけれど、私はどうしてもそんなふうにしか読めない。
ひとがことばを動かすとき、「意味」だけでは動かせない。
「二月なのに」と書くか「二月だのに」と書くか、そのとき、そのことばを選ばせているのは「意味」ではない。肉体にしみついた音楽である。
この行の「びつこ」は今ではたぶん西脇も書かないだろうけれど、そのことばが選ばれているのも「び」つこ、ろう「ば」という音のためなのである。
この「老婆」から詩のテーマ、「豊饒の女神」が動きだすのだが、テーマそのものは私にはあまり関心がない。だから、書かない。

『豊饒の女神』のつづき。
「豊饒の女神」の書き出しは西脇の音楽をとてもよくあらわしている。
二月だのに秋の枯葉の音がする
税務署へ出す計算をたのみに
田園の坂の町をさすらつた
夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている
もし、1行目、その書き出しが「二月なのに」だったら、この詩は動いていかない。「なのに」「だのに」は「意味」は同じ。同じだけれど、響きがぜんぜん違う。
二月「な」のに、だったら、あき「の」はれは「の」と「な行」が響き、次は「ね」がする、と読んでしまうかもしれない。
二月「だ」のに、だから、あきのかれはのお「と」がする、とつづき、それが次の行の、ぜいむしょへ「だ」すけいさんを「た」のみに、とつながり、さらに3行目の「で」んえんのさかのま「ち」をさすら「っ」「た」と響いていく。
この3行には「だ」のに、「ぜ」いむしょ、「だ」す、「で」んえんという濁音の響きも美しく響いている。そして、これが「な」のにだとしたら、4行目の野薔薇、の「ば」ら、の濁音が登場する理由がなくなる。「だ」という濁音が、の「ば」らという濁音を呼び寄せている。また、「だ」という濁音が、「野薔薇の海で」の「で」を許しているである。
夕陽は野薔薇の海で
街路をオペラの背景のように照らしている
というのは、なんとも華々しいイメージで、絵として見るには芸術的というよりは、かなり毒々しい。うるさい。けれど、これを音楽から見るとまったく違う。
「のばら」は「オペラ」のためにあるのだ。絵画的イメージを超えて、ここでは音楽が優先しているのである。
のば「ら」、おぺ「ら」は、さらに、て「ら」してい「る」という「ら行」につながっていく。
このとき「だ行」(た行)ではじまった音楽が「ら行」にかわっているのだが、ここには西脇の出身地、新潟の「音」の影響があるかもしれない。「た行」と「ら行」は「ら行」をRではなくLで発音するとき、とても接近する。
私は西脇自身の声を聞いたことがないが、私の生まれの富山の東部、つまり新潟よりの人が「ら行」をLで発音するのを聞いた記憶がある。「オペラ」は外国語そのものはRの音だが、RとLを基本的に区別せず同じ音として聞いてしまう日本人には、Lで発音してしまうということもあるかもしれない。西脇自身は英語の人間なので、明確に区別するだろうけれど。
まあ、ここには、私の感じている音楽と、西脇の耳とのすれ違いがあるのだけれど、すれ違いと感じながらも、先の引用が次のように展開していくとき、私はそんなにずれたことを書いているのではないという気持ちにもなる。
おつ 先をよこぎるものがあつた
突然の変化。「先をよこぎるものがあつた」の「先」。これはもちろん「目の先」なのだろうけれど、私には「音の先」(耳の先)のようにも感じられるのである。
「た行」と「ら行」、その揺れ動きのなかにLとRが交錯して動く。あれは何?
猫ではなかつた
射られた虎が足をひきずつて
森へにげこむように
貧しいびつこの老婆がよこぎつた
「猫」と「虎」。まあ、似ているね。LとRのようなものかもしれない。
私の書いていることは、たぶん強引な「誤読」というものだろうけれど、私はどうしてもそんなふうにしか読めない。
ひとがことばを動かすとき、「意味」だけでは動かせない。
「二月なのに」と書くか「二月だのに」と書くか、そのとき、そのことばを選ばせているのは「意味」ではない。肉体にしみついた音楽である。
貧しいびつこの老婆がよこぎつた
この行の「びつこ」は今ではたぶん西脇も書かないだろうけれど、そのことばが選ばれているのも「び」つこ、ろう「ば」という音のためなのである。
この「老婆」から詩のテーマ、「豊饒の女神」が動きだすのだが、テーマそのものは私にはあまり関心がない。だから、書かない。
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