詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三浦優子「Vanilla 」

2012-06-07 10:56:42 | 詩(雑誌・同人誌)
三浦優子「Vanilla 」(「現代詩手帖」2012年06月号)

三浦優子「Vanilla 」は書き出しの2連が、私には気持ちがいい。

柔らかいものが固いものと不意に
適切とはいいがたい出会い方をすると
独特の音がするのです
指先とボールでも
熟れた苺と銀色の匙でも
わたしとあなたの一部でも

たいてい鈍い痛みをともなったりするので
とっさに自分をかばおうとしてしまうけれど
すっかり春が来た花壇のように
ああもう自分にはなにもできることはないのだ、と
とろりと悲しく安らかになる瞬間も知っている

 わざわざ「わたしとあなたの一部でも」とことわって、それらしく書いているのだけれど、私はそれを「肉体」と受け取らなかった。肉体ではないものの方がより切実であると思った。
 ひとの体のなかで、固い部分があったり、柔らかい部分があったりというのは目に見える肉体だけのことではない。もっと奥底に何かがあり、その何かが、たとえば肉体の固い部分、柔らかい部分ということばになるだけだ。
 ほんとうはほかのことばになりたかったかもしれない。
 けれど、そのことばがみつからない。
 だから知っていることば、なじんでいることばについつい動いていってしまう。そのとき、ほんとうに動きたかったことばは、どうすることもできなくなって、

ああもう自分にはなにもできることはないのだ、と
とろりと悲しく安らかになる瞬間も知っている

 と、放心する。
 この放心、そしてそれを「とろり」と呼ぶときの不思議さ。
 この「とろり」を別のことば--つまり、私自身のことばで言いなおすことはむずかしい。三浦の書いている「とろり」にのみこまれ、そこでしばらくたゆたっている。
 「瞬間も知っている」か。
 ここにも、諦めがあるなあ。
 「知る」ということは、あきらめるということなのか。

 うーん、なんだか女になった気持ち。
 と書くと、女を一方的に枠にあてはめていると叱られるかもしれないが。

 3連目の終わり、

金雀児の茂みの向こうを
背の高い人が歩いていきます
時々姿が見えなくなったり透けて見えたりします
でも背が高いから歩いていることだけはわかるのです

 この「わかる」もいい感じだ。「知っている」は「わたし」のなかだけで完結する。けれど、この「わかる」はその背の高い人に向かって、こころが肉体のなかから飛び出していって、触っている感じがする。
 見ることは三浦にとって触ることなのだ。
 だからこそ、

シャツを木漏れ日の模様に染めて
金雀児の茂みの向こうから
あの人がやってくるところです
見失うことはありません
手には白いケーキの箱を持っています
目は、あまりよくありません
耳は、いい方です
触ってみるのは、少しこわい

 「見失うことはない」は触っているから。「触ってみるのは、少しこわい」はすでに触っているのだから、それを超越して「触る」とき、それはもう「肉体」ではない、「肉体以上」のなにかになる。
 そのとき「わたし」の肉体だって、肉体ではなくなる。
 でもね、触るんですねえ。そうして、

ただひたすらに香りたつものを信じるだけなのです

 そうか、「信じる」とはこういうときにつかうのか、と驚いた。


詩集 lyrics
三浦 優子
思潮社

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