川口晴美『半島の地図』(思潮社、2009年07月30日発行)
「半島」という作品の、終わりの方。27ページ。
私は、この部分を「誤読」した。私はもともとカタカナ難読症でカタカナを正確に読めたことがないのだが、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と呼んでしまった。その前には、「水島」という漢字の表記があるにもかかわらず、である。
その前後を含めて引用する。
自分の肉体(?、「こころ」というひともいるかもしれないけれど……)のなかにある自分から離れたもの。偶然できてしまった離れ島。きちんとした「比喩」になっている。「ミズシマ」と正確に読むことができない私がいけないのだが、私は、ふいにおとずれた「ミズスマシ」を、しかし、捨てる気になれないのである。
自分の肉体のなかにある、自分から分離した肉体。その分離してしまった肉体は水に浮かんでいる。その水面を腕をひろげて、小さな水紋をつくって、すーっ、つつーっとすべりながら行ったり来たりする小さなミズスマシ。それこそが川口の描く「わたし」に見えてくるからである。
この詩集には、「半島」にかぎらず、「わたし」と「わたしから離れて行くもの」が描かれている。あるいは、「わたし」が「わたしではなくなる」という瞬間をみつめる「わたし」が描かれている。
巻頭の「サイゴノ空」は殺され死んでいく「わたし」の思いを描いているが、そのいくつかの行。
「わたしはわたしじゃないものになる」。分離するだけではなく、わたしではないものになる。「サイゴノ空」では「明け方の空のようなもの」と書かれているが、「半島」では、「水島」ではなく、「水島」をつくる「海」(水)になっているのではないのか。それは「わたし」と「わたしじゃないもの」の間に横たわる何かである。「肉体」である。「わたし」と「わたしではないもの」の区別は、つくようで、つかない。それは分離するけれど、完全に分離しない。逆に、接近してきて合体することがあるけれど、完全にはひとつではない。いずれも、「わたし」と「わたしじゃないもの」は「不完全なひとつ」である。「不完全なひとつ」の接着剤(分離剤?)のようなものが、そういう運動をするものが「肉体」である。「肉体」で「わたし」と「わたしじゃないもの」が出会うのだ。
そして、そのとき、そこに「明け方の空のようなもの」が出現し、陸と島のあいだにある「水」のようなものが出現する。
そういう場としての<わたし>。そういう場を動き回る<わたし>。それが「水」のあるところで、「ミズスマシ」となって動いているのは、悪いイメージではないと思う。そしてこのとき「ミズスマシ」とはいうものの、じっさいに、ミズスマシをみるときそうであるように、私は、ミズスマシそのものではなく、水にひろがる小さな波紋、同心円のすばやい動きを見ている。ミズスマシとは「昆虫」ではなく、水のありかと、水の上の波紋の運動だ。
川口の詩は、「わたし」と「わたしじゃないもの」の間にひろがる水面を動き回るミズスマシの運動だ。
「わたし」と「わたしじゃないもの」と言いながら、そこには重さがない。重さがないというと変だけれど、そういう深刻なテーマの割りには軽い。ことばが軽快である。すーっ、つつーっと動く。
胸にずしりと落ちてきて、そのことばを何度も反芻しなければ、しっかり受け止めることができない--という印象がない。
本当は重くなるかもしれないものを、川口は、重くなる前に自分で否定している。ある意味では「わたし」と「わたしじゃないもの」を分離することで、川口は「安寧」を保っているのかもしれない。もちろん、そういう安寧の保ち方、自分自身の維持の仕方には、それなりの哀しみがあるのだと思う。工夫、苦心があるのだと思う。
この哀しみをきちんと批評するには、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と誤読するのとは違う読み方が必要なのだと思う。
たとえば、「ドライヴ」の、
という行などを中心にことばを追えば、もっと違った形で川口の肉体の哀しみに接近できたのかもしれない、と思いはするのだが、その場合でも、私は、じっさいにそのことばを追いはじめたら、きっと「樹木の陰を縫いながら細い道を辿って来たあいだに」の「あいだ」に視点が動いてしまうだろうなあ、と思う。
だが、私はミズスマシではない。ミズスマシのように水面にきれいな波紋を移動させながら動き回ることはできない。ばしゃばしゃと水しぶきをあげながら泳ぐ人間である。
あ、静かで、きれいな哀しい詩集だ、という印象しか語れない。私が書くと「誤読」が増幅するだけである。読書ではなく、「誤読」が私の趣味なのだけれど。
「半島」という作品の、終わりの方。27ページ。
ミズシマ
私のからだのなかにいつもある
わたしから離れていこうとするものを
そんな名で呼んでみようか
私は、この部分を「誤読」した。私はもともとカタカナ難読症でカタカナを正確に読めたことがないのだが、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と呼んでしまった。その前には、「水島」という漢字の表記があるにもかかわらず、である。
その前後を含めて引用する。
水島
というそこは昔は半島に連なっていた土地が
波の浸食で離れ島になったのだと
駅の案内板にあったのを思い出す
離れてしまったもの
つかのま泳ぐだけの場所
揺れる光の先にある
わたしのような
ミズシマ
私のからだのなかにいつもある
わたしから離れていこうとするものを
そんな名で呼んでみようか
遠い
駅へ向かう車をひろうために
わたしは
半島のような腕をあげる
自分の肉体(?、「こころ」というひともいるかもしれないけれど……)のなかにある自分から離れたもの。偶然できてしまった離れ島。きちんとした「比喩」になっている。「ミズシマ」と正確に読むことができない私がいけないのだが、私は、ふいにおとずれた「ミズスマシ」を、しかし、捨てる気になれないのである。
自分の肉体のなかにある、自分から分離した肉体。その分離してしまった肉体は水に浮かんでいる。その水面を腕をひろげて、小さな水紋をつくって、すーっ、つつーっとすべりながら行ったり来たりする小さなミズスマシ。それこそが川口の描く「わたし」に見えてくるからである。
この詩集には、「半島」にかぎらず、「わたし」と「わたしから離れて行くもの」が描かれている。あるいは、「わたし」が「わたしではなくなる」という瞬間をみつめる「わたし」が描かれている。
巻頭の「サイゴノ空」は殺され死んでいく「わたし」の思いを描いているが、そのいくつかの行。
涙がこぼれて
あたたかいと一瞬だけわかる
だけど頬に張りついた髪の毛にさえぎられながら首筋まで伝う頃には感覚がぼやけて
わたしの涙はわたしのものではなくなった
いいえこれまで一度だってわたしのものだったことがあっただろうか
いいえいいえわたしのものだった何かなどひとつでもあっただろうか
もう一度会いたいかどうか
わからないわたしはどんどんわたしじゃなくなって
川の水が流れてゆきます
わたしとわたしじゃないものの境界がきしんで
わたしじゃないものはわたしにやさしくしようとしているのではなく
わたしを思い通りにしようとしているんだと気づいた
境界はなくなりわけのわからない世界とまじりあうわたしは形をなくして
世界のひとかけらになってゆく
わたしはからっぽになる
わたしはわたしじゃないものになって
それはからっぽで晴れた明け方の空のように青ざめている
「わたしはわたしじゃないものになる」。分離するだけではなく、わたしではないものになる。「サイゴノ空」では「明け方の空のようなもの」と書かれているが、「半島」では、「水島」ではなく、「水島」をつくる「海」(水)になっているのではないのか。それは「わたし」と「わたしじゃないもの」の間に横たわる何かである。「肉体」である。「わたし」と「わたしではないもの」の区別は、つくようで、つかない。それは分離するけれど、完全に分離しない。逆に、接近してきて合体することがあるけれど、完全にはひとつではない。いずれも、「わたし」と「わたしじゃないもの」は「不完全なひとつ」である。「不完全なひとつ」の接着剤(分離剤?)のようなものが、そういう運動をするものが「肉体」である。「肉体」で「わたし」と「わたしじゃないもの」が出会うのだ。
そして、そのとき、そこに「明け方の空のようなもの」が出現し、陸と島のあいだにある「水」のようなものが出現する。
そういう場としての<わたし>。そういう場を動き回る<わたし>。それが「水」のあるところで、「ミズスマシ」となって動いているのは、悪いイメージではないと思う。そしてこのとき「ミズスマシ」とはいうものの、じっさいに、ミズスマシをみるときそうであるように、私は、ミズスマシそのものではなく、水にひろがる小さな波紋、同心円のすばやい動きを見ている。ミズスマシとは「昆虫」ではなく、水のありかと、水の上の波紋の運動だ。
川口の詩は、「わたし」と「わたしじゃないもの」の間にひろがる水面を動き回るミズスマシの運動だ。
「わたし」と「わたしじゃないもの」と言いながら、そこには重さがない。重さがないというと変だけれど、そういう深刻なテーマの割りには軽い。ことばが軽快である。すーっ、つつーっと動く。
胸にずしりと落ちてきて、そのことばを何度も反芻しなければ、しっかり受け止めることができない--という印象がない。
ひろったタクシーの窓越しに見上げると胸の内側にあるものが吸い上げられていく。胸の内側に何があるのかなんて自分でもわからないのに。 (「夏の獣」)
本当は重くなるかもしれないものを、川口は、重くなる前に自分で否定している。ある意味では「わたし」と「わたしじゃないもの」を分離することで、川口は「安寧」を保っているのかもしれない。もちろん、そういう安寧の保ち方、自分自身の維持の仕方には、それなりの哀しみがあるのだと思う。工夫、苦心があるのだと思う。
この哀しみをきちんと批評するには、「ミズシマ」を「ミズスマシ」と誤読するのとは違う読み方が必要なのだと思う。
たとえば、「ドライヴ」の、
いったいわたしたちはどこに来たんだろうねと呟くと年下の男は振り向いて
ハンドルに老いた手を健やかにひらいた
あかるい日射しを受け取るように
軽々とひらかれる掌が眩しいのは
樹木の陰を縫いながら細い道を辿って来たあいだにわたしの頬や額が
深い緑に濡れてつめたく
ほんの少し死んでいるひとのようにつめたくなっていたからかもしれないと気がつく
という行などを中心にことばを追えば、もっと違った形で川口の肉体の哀しみに接近できたのかもしれない、と思いはするのだが、その場合でも、私は、じっさいにそのことばを追いはじめたら、きっと「樹木の陰を縫いながら細い道を辿って来たあいだに」の「あいだ」に視点が動いてしまうだろうなあ、と思う。
だが、私はミズスマシではない。ミズスマシのように水面にきれいな波紋を移動させながら動き回ることはできない。ばしゃばしゃと水しぶきをあげながら泳ぐ人間である。
あ、静かで、きれいな哀しい詩集だ、という印象しか語れない。私が書くと「誤読」が増幅するだけである。読書ではなく、「誤読」が私の趣味なのだけれど。
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