詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』

2009-11-14 00:00:00 | 詩集
文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社、2009年10月25日発行)

 とても新鮮な「息」を感じた。「呼吸」を感じた。詩集の冒頭の「落花水」の中に「息」「呼吸」ということばが出てくるが、その影響かもしれない。

透明なストローを通して美術室に響く
“スー、スー”という私の呼吸音。
語りかけても返事がないのなら
こうして息で呼びかけてみよう。

 美術の時間(?)、画用紙に絵の具を溶かした水をたらし、それを息で吹きかけて模様をつくる。そういうときの様子を描いているのだと思う。
 そうした「現実」のなかから何を選びとるか。何をことばとして書き留めるか。文月は「呼吸」「息」を選んでいる。そして、その呼吸、息は、「口臭」をもっていない。透明である。だからこそ「透明な」ストローを通る。「美術室」という特別な教室も、「透明」である。自分の部屋ではなく、教室。美術のための教室。そこは、「現実」でありながら、少し「現実」から離れている。「美術室」には、文月の「体臭」「体温」「生活」にそまったものがない。共有の場。そこで、文月は文月自身がもっている「肉体」のほとんどを捨てる。「日常」の「肉体」とはちがった「肉体」になる。「透明」な肉体。その「透明」な肉体から吐き出される「息」「呼吸」は、したがって「透明」でしかありえない。それは「必然」なのだが、その「必然」がとても「自然」に感じられる。

 そして、この「透明さ」は、私には、なつかしいなつかしいオードリー・ヘップバーンを思い出させる。ほんもの・ヘップバーン、いや、キャサリン・ヘップバーンがきちんと「不透明」な「女性」であったのに対して、オードリーは「透明」な輝き、不透明さを超越した「少年」であった。
 文月のことばは、その、オードリーの姿を連想させる。「少女」を脱いで「女性」になるのではなく、「少女」を脱いだら、「性」が消えて「少年」になる。

(彩る意味を見いだせないこのからだ。
「お前に色なんて似合わない」
そう告げている教室のドアを“わかってる”と引き裂いて、焼けつくような紅
を求めた。古いパレットを、確かめるように開いてみるけれど、何度見てもそ
こには私しかいない。それは、雨の中でひっそりと服を脱ぐ少年の藍)

 「少年の藍」。そこに出てくる「少年」。これは「男の子」ではない。「男子中学生」ではない。「性」という「肉体」をもたない「透明」な存在なのだ。
 この「透明」は絵の具を溶かしている「水」そのものの「透明」でもある。

色に奪われた私の息吹が
画用紙の上で生き返る。
水になって吹きのびていく。

 「水になって」の「なって」がすばらしい。「透明」な「息」「呼吸」は絵の具にそまった水であることを拒否して「水」になる。どんな絵の具をも溶かしてしまう「水」そのものになる。絵の具にそまった水溶液を「水」、「透明」そのものに「する」ために、文月は息を、呼吸をストローで吹き込む。
 「する」と「なる」が文月の「息」「呼吸」によってひとつに融合する。そのなかでことばが動いている。

この水脈のたどりつく先が
誰かの渇いた左胸であれば、
私もまた、取り戻せるものがある。
取り戻すための入り口が
まぶたの裏に見えてくる。
「水になりたい!」
風に紛れて、雲をめざし駆けのぼる私。

 この引用部分の最初の5行は「不透明」である。そこには「少年」ではないものがまぎれこんでいる。けれど、その「少年」ではないものによって、さらに「少年」がより強調される。

「水になりたい!」

 その不思議な気持ち。欲望というには、ちょっとちがう感情の疾走。そのさわやかな「透明」。
 そこには「むり」があるかもしれない。「背伸び」があるかもしれない。「少年」ではないものを振り切ろうとするときの、一種の「困難」があるかもしれない。しかし、それがまた、なんともいえず「少年」っぽい。
 「むり」「せのび」をするとき、「肉体」を「感情」が引き延ばす。その、引き延ばされた部分か、透明な光を反射する。
 オードリーみたいでしょ? 
 キャサリン・ヘップバーンは「むり」をするとき「背伸び」をしない。逆に、ぐい、と「肉体」を押さえつける。そうすると、その「肉体」の押さえつけられた部分に、感情が凝縮し、淀みのようにひとを誘い込む。手招きする。
 オードリーは同じ水であってもきらきらと反射し、水面にうつるひと(オードリーと観客)を輝かせる。
 ヘップバーンは静かに暗い色で、水面をのぞきこむひ(キャサリンと観客)とに陰影を刻む。
 どちらの「一体感」がいいかは、どうでもいいこと。ひとがひとを引き込むときの「一体感」のあり方には、そういう違いがあるということ。そして、文月は、キャサリンではなく、オードリーの方なのだと私は思う。
 疾走し「性」をふりきり、「透明」になる。その「透明」さは、これからどんな「性」でも選びとることができるという「自由」でもある。どんな「色」でも、その「色」の透明感を生かして輝くことをめざしているのだろう。

 「水になりたい!」その1行に、そんな夢を見た。

 よくよく考えてみれば「息」「呼吸」のなかに「水分」はある。「息」「呼吸」が「水」になるのは必然でもある。きっと、文月は「新しい水」になって、世界そのものを輝かせるに違いない。



適切な世界の適切ならざる私
文月 悠光
思潮社

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 田原『石の記憶』(4) | トップ | 文月悠光『適切な世界の適切... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事