詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河原修吾「隣の奥さん」

2012-05-26 09:24:22 | 詩(雑誌・同人誌)
河原修吾「隣の奥さん」(「コオサテン」2、発行日不詳)

 河原修吾「隣の奥さん」は軽快である。ことばが意味にならずに、というと誤解を与えるかもしれないが、意味であるより音として輝いている。

奥さんが春を纏っていた
手を伸ばして歩道の草を取っている
お尻の線の円周率くっきりと
微分して直線に
積分して曲線に歩く
ぼくの足の音に
奥さんはふりかえった
きらきら光る汗 両手の草
奥さんの胸と躰が無防備に曝け出された
ぼくの朝の陽がまっすぐに立った
まぶしさを包んだ視線が
奥さんにあたって
空の一角を貫く
夜の露を溜めた草が揺れて落ちる
奥さんの草をぼくは踏んでいた
あっという小さな声が世界から漏れる
空の群青がそよぎ
ぼくは横を駆け抜けた

 明るい春--を通り越して、まばゆい春。光がいっぱいの春だなあ。

お尻の線の円周率くっきりと
微分して直線に
積分して曲線に歩く

 という3行。具体的(?)には何のことかわからないけれど、わかるなあ。奥さんのお尻を見ている。まるい。円周率、なんていうことばがふいにやってくる。あわせて、微分積分、も。数学は、しかし関係がない。関係があるとすれば、微分、積分を習っている「青春」の肉体と関係があるといえるかもしれないけれど。
 まあ、どうでもいい。
 意味はどうでもよくて、円周率はともかく、微分・積分なんて、まるいお尻とは縁遠いもの(いわゆるナントカの出合い)が、そこにある「肉体」を突き破って出てくる。そのスピード感覚がいい。
 詩のことばはスピードがいのちなのだと思う。

きらきら光る汗

 これは、いわゆる「流通原語」だけれど、その前に微分・積分があるので、とても新鮮に見える。「きらきら」が疾走する。

奥さんの胸と躰が無防備に曝け出された
ぼくの朝の陽がまっすぐに立った

 うーん。「手」からはじまり、「お尻」をへて「胸」。そのあとの「躰」--この「躰」って何? 「体」ではなくわざわざむずかしい「躰」という漢字で書きたいものは何? 「無防備」って何?
 どうしたって、「躰」は「裸」である。
 つづいて「まっすぐに立った」ものは「ぼく」の性器である。勃起したんだなあ。「まっすぐに」が元気でいいなあ。性、セックスは夜のものではなく、朝のものだ。朝、一番新しい光をあびて、きらきら輝くセックスをする。
 そんな「ぼく」の夢想を、奥さんが「まぶしい」感じでみつめ返す。
 あ、これは実際の肉体の交合よりも、たのしいねえ。

空の一角を貫く

 この「貫く」の主語は2行前の、奥さんのまぶしい視線なのだけれど(文法的には)、「ぼく」の勃起したペニスにも思えるなあ。奥さんを貫くだけではなく、空まで貫いてしまう「まっすぐに立った」ペニス。

 そんなことは、どこにも書いてない?

 書いてないからこそ、書かれているのである。ほんとうのことは、だれも書かない。大事なことは誰も書かない。わからないように書く。そして、わからないように書くから誰にでもよくわかるのだ。わかるように書いたものは、よくわからない。--深遠な哲学書(思想書)って、わかるように書かれたものでしょ? でも、わからないでしょ? 反対に便所の落書き。猥雑ななぞなぞ。肉体が、わかってしまうでしょ? 肉体で、わかってしまうでしょ?

夜の露を溜めた草が揺れて落ちる

 これだって、いろいろに読めるねえ。「露」は何色? 「落ちる」の主語はほんとうに草?
 でも、そういう「遅延する夢」を突き破って、河原のことばは疾走する。そのスピードが、この詩を清潔にしている。

奥さんの草をぼくは踏んでいた
あっという小さな声が世界から漏れる

 この「世界」は、きのう読んだみえのふみあきの「世界」とはまったく違うね。「ぼく」と完全に一体化している。区別がない。「世界」そのものが「ぼく」であり、「ぼく」が「世界」だ。「ぼく」と「奥さん」の区別も、もちろん、ない。すべてが「ぼく」なのだ。「すべて」が「ぼく」だから、河原のことばは立ち止まっているひまなどない。

空の群青がそよぎ
ぼくは横を駆け抜けた

 「駆け抜けた」の主語は「ぼく」だけれど、それは「ことば」でもある。

 で。(かなり唐突な断言だが。)

 主語が「ことば」であるもの--それが詩である。
 ことばが駆け抜けるとき、そこに詩がある。

 で。(というのは、変な接続詞だが……。)
 私は、河原の詩を読みながら、吉増剛造の「出発」を思い出したりした。

ジーナ・ロロブリジタと結婚する夢は消えた
彼女はインポを嫌うだろう

 書かれていることが「ほんとう」かどうかなんて関係がない。ことばが「ほんとうの意味」を拒絶して、かってな意味になる。読んだ人間の「肉体」を駆け抜け、射精のように、その「肉体」さえ裏切ってどこかへ飛んで行ってしまうとき、その飛んで行くスピードそのもののなかに詩があるのだ。
 これは書く側にとっても同じ。自分の書きたいことを突き破って、ことばがかってに暴走する。自分のものではなくなってしまう。
 そのときが、詩。
 作者のものではなくなったことば--それが、詩。
 だから、読者はどんなふうに「誤読」てしもかまわない。「誤読」さえも拒絶して増殖していくのが詩なのだから。




ふとんととうふ―詩集
河原修吾
土曜美術社出版販売

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