青山南『アメリカ短編小説興亡史』の影響で、本日はおススメのアメリカ文学を その2

2018年10月27日 | 

 青山南『アメリカ短編小説興亡史』を読む。

 前回(→こちら)は、サクサク読めて、アメリカ文学史も学べる本書を激プッシュしたが、今回は私自身が読んでおもしろかったアメリカの小説や、その他の本を紹介したい。



 猿谷要『ニューヨーク』



 アメリカの歴史入門といえば、この人の本ははずせない。

 日本と密接な関係というか、偽悪的にいえば「宗主国サマ」であるアメリカだが、ヨーロッパと中華編重の学校世界史では、意外とになってるのが米国史(今はどうなのかな?)。

 それを、読みやすく、また知性的な視点で語れる猿谷先生の著作は、まさに必読。

 このほかにも、

 

 『物語アメリカの歴史』

 『ハワイ王朝最後の女王』

 『アトランタ (世界の都市の物語)』

 『北米大陸に生きる』

 

 などなど、猿谷要にハズレなし!



 ☆柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』



 ご存じ、人気翻訳家であり、エッセイストとしてもすばらしい仕事をこなす、柴田先生。

 現代文学のイメージが強いが、この本ではポーメルヴィルなど、定番の古典を解説。

 金原瑞人さん、岸本佐知子さん、鴻巣友季子さん等、翻訳家というのは文章自体も達者な人が多い。

 それはロシア語通訳でもある、米原万理さんの言うように



 「外国語で仕事をするのに大事なのは、日本語力」

 

 だからかもしれないが、ある意味作家以上に

 

 「どうすれば、わかりやすく伝わるか」

 

 これに腐心する作業をしているからではないか。

 ここでも、「文学」という一見かたくるしそうな材料を、まるで楽しい茶飲み話のように料理する、柴田先生の腕が見事。

 フォークナーなんて、全然知識も興味もなかったけど『アブサロム、アブサロム!』が無茶苦茶に読みたくなった。



 デイビッド・ハルバースタム『さらばヤンキース―運命のワールドシリーズ』


 1964年の大リーグでは、無敵の覇者であったニューヨークヤンキースが苦戦を強いられていた。

 主砲ミッキーマントルのおとろえや、チームの若返りの失敗。

 差別の歴史を乗り越え、新たな戦力となるはずだった、黒人選手へのかたくなな忌避の反応など、さまざまな「経年劣化」が原因だ。

 それでも、地べたをはうようにしてリーグを制したヤンキースだったが、ワールドシリーズでもセントルイスカージナルス相手に勝ちきれない。

 もつれたシリーズは、とうとう3勝3敗となり、ついに運命の最終戦に突入するが……。

 新しい時代を理解できず、またかたくなに拒否した「古き名門」が、その波に飲まれていく様を、硬派なジャーナリストでもあるハルバースタムが、静かに描いていく。

 平家物語ではないが、栄ゆくものもいつかは滅び、そしてその古きものはいつの時代も、かならず同じあやまちと、あがきをくり返す。

 題材は野球だが、これはスポーツにかぎらず、人間不変の真理を描いているところが、厚みとなっている。

 そう、「古き良き時代」をなつかしむ人は、その時に美化されがちな過去の幻影にしばられ、新しい波の中、その「良き記憶」に復讐される。

 それは、いつまでたっても変わらない、人という生物の「業」のようなものなのであろう。



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青山南『アメリカ短編小説興亡史』の影響で、本日はおススメのアメリカ文学を

2018年10月24日 | 

 青山南『アメリカ短編小説興亡史』を読む。

 前回(→こちら)は、サクサク読めて、アメリカ文学史も学べる本書を激プッシュしたが、今回は私自身が読んで、おもしろかったアメリカの小説や、その他の本を紹介したい。



 ★スティーブン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』



 幻想的な作風が特徴である、ピューリッツァー賞作家の短編集。

 流しのナイフ投げ芸人、自動人形や、安い移動遊園地。

 などなど、見世物小屋的モチーフが散見されるところから、レイブラッドベリを連想させるが、文体はリリカルなレイより、やや硬質な印象。

 妖しげで夜っぽく、それでいてどこか官能的。

 ポーやデュ・モーリアなど、ゴシックロマンとか好きな人は、絶対気に入ると思う。

 「辺境作家」高野秀行さんも、おススメの一品。
 
 お気に入りは「夜の姉妹団」。

 真夜中に、少女たちがこっそり家を抜け出して、秘密の会合を行っている、という噂が町に流れる。

 そこではみだらな行為が蔓延している、と大人たちは想像していたのだが、調べてみると実は……。

 背徳っぽく、ちょっと百合的な期待もありながら、最後はある種、痛快でもあるという一遍。

 


 スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』



 タイトルの通り、シカゴを舞台にした短編集。

 敬愛する柴田元幸さんが、自分の訳書の中で一番のお気に入りだったというのだから、手に取らざるを得ない。

 ニール・サイモンBB三部作』や、マキャモンのような「少年時代」を感じさせ、『右翼手の死』という作品が好きだが、この本の個人的に魅力な点は、個々の物語とともに間奏のように流れる、短編未満のような断章

 ここで私が下手な紹介をするより、手に取って最初の『ファーウェル』を読んでみてほしい。

 5ページほどの短いものだが、そのあまりのイメージの美しさに、惹きこまれること間違いなし。

 「キエフのパン屋」という散文的な単語が、これほどまでに抒情的に響くとは。

 私が作者なら、もうここだけで「勝ったも同然」という気分になることだろう。
 



 ☆マイク・ロイコ『男のコラム』

 アメリカ文芸といえば、短編ともう一つはずせないのがコラムの魅力。

 重厚な文学もいいが、のんびりしたい休日や、ちょっとした待ち時間をつぶしたいときなどには、軽くてシャレたコラムが合う。

 日本では、中島らも東海林さだお大槻ケンヂ玉村豊男米原万理といった面々の雑文を愛読しているが、アメリカ代表といえば、やはりロイコおじさんに尽きる。

 シカゴの名物コラムニストだったマイクは、とぼけたユーモアをまぶした、切れ味鋭い舌鋒が売り物の「戦う」コラム。

 自分は多額のギャラをもらいながら、スタッフには「のために働くな」とアジるジェーン・フォンダを皮肉り、杓子定規な公務員にものもうす。

 「行き過ぎた」レディーファースト嫌煙に対抗し、飲みとシカゴカブスと、ジョンウェインの古風な西部劇を愛する。

 ケラケラと笑わせながらも、世にはびこる権威の横行や理不尽を、アイロニカルにやっつけてしまう、その腕前の見事さ。

 アメリカのコラムといえば、ボブグリーンがまず上がることが多いけど、スタイリッシュなだけで、あんまし中身がないよね、ボブって。

 私はマイク・ロイコを一押しします。


 (続く→こちら


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青山南『アメリカ短編小説興亡史』 「レイモンド・カーヴァーの文体」は誰のもの?

2018年10月20日 | 
 青山南『アメリカ短編小説興亡史』を読む。
 
 日本だと、昨今
 
 「短編集は売れない」
 
 出版業界を悩ませているそうだけど、アメリカでは短編は、
 
 
 「a national art form」
 
 
 であると、大変重んじられていたそうな。
 
 その理由は、まだ映画が生まれる前、アメリカの娯楽の王様といえば雑誌
 
 中でも、そこに掲載されていた短編小説というのが、売上を左右するほど注目されていたからとか。
 
 たしかに、名前くらいは知ってる『ニューヨーカー』などは、かなり色濃く短編のイメージがあり、日本で言うマンガやアニメのような「国民的お家芸」といえる時代が長かった。
 
 で、本書ではその一端を、翻訳家の青山さんが、歴史や裏話などまじえてレクチャーしてくれるのだが、これがおもしろいのなんの。
 
 たとえば、アメリカでは短編が「a national art form」ではあるが、それゆえに原稿料もべらぼうで、ともすると粗製乱造になりやすい。
 
 実際、短編は「のためにを売る」一面もあったらしく、スコットフィッツジェラルドなど、
 
 

 「昨日も、短編という『ショート』で一発やって大金を手に入れました」

 
 
 なかなかに、きわどい表現で、自虐していて笑えたりする。
 
 とはいえ、アメリカの短編、それもシャレた都会派小説というのは傑作も多く、やはり評価も高いことも事実。
 
 それゆえに人気作家といっても簡単に「金のため」に書き飛ばせるわけでもないようで、特にうるさ型の『ニューヨーカー』は編集側もきびしいらしい。
 
 アーウィンショーや、アンビーティといった大御所もボツを食らいまくり、
 
 

 「さすがにうんざりします」

 

 
 手紙でなげいたりしている。
 
 作品は洗練されまくっているが、その内実はなかなかシビアなよう。
 
 シビアといえば、レイモンドカーヴァーと、編集者ゴードンリッシュとの関係も、まさにそう。
 
 カーヴァーといえば村上春樹訳で有名だが、あの独特の無表情な文体は、その無機質ともいえる世界観と実にマッチしている。
 
 読んでいて底知れない空虚感や、ときにホラーめいた恐怖を感じることすらある。
 
 ところがどっこい、実際のカーヴァーの文体は無表情どころか、かなりセンチメンタルなものであったらしく、それをリッシュが、
 
 
 「こんな浪花節でええと思てるんか!」
 
 
 とばかりに叱責し、ガンガンを入れまくっていたそうなのだ。
 
 それでできあがったのが、あのカーヴァー節ともいえるクールな作品群。
 
 でも、ホントはちがうどころか、真逆の作風だった。
 
 そう聞くと、
 
 「え? じゃあもうそれって、レイの小説じゃないじゃん!」
 
 といいたくもなるが、実際にカーヴァーは、
 
 

 「もうこれ以上書き直さないでくれ。僕の好きにやらせてくれ」

 
 
 そうリッシュに懇願し、ついには袂を分かつことに。
 
 文学史的には、後期のカーヴァーは
 
 「ずいぶんとセンチメンタルな作風になった」
 
 とされるそうだが、なんのことはない。
 
 こっちこそが「本物のレイモンド・カーヴァー」だったのだ。
 
 なにやら、「作家と編集」ってなんだろうというか、これ自体が一片の短編小説になりうる、深みと怖さをたたえているではないか。
 
 他にも、「大学の創作教室」に対する作家や読者の反応や、女性先住民黒人ヒスパニックといった、なかなか表に出られなかったマイナー文学の曙、などなど興味深い話題が盛りだくさん。
 
 なにより、青山さんお得意の、サクサク読める軽妙洒脱な文章が、お見事すぎる。
 
 どうやったらこんなに楽しく、それでいて役に立つものが書けるんだろう。あこがれるなあ。
 
 読みやすく、勉強になって、素人でも
 
 「アメ文、ちょっと読んでみっか」
 
 と思わされること間違いなしのオモシロ本。おススメです。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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地獄の大阪決戦! ビートルジュースvsおすべり様 in ユニバーサル・スタジオ・ジャパン その2

2018年10月17日 | 海外旅行

 前回(→こちら)の続き。

 気の置けない友人たちに誘われて、初のUSJデビューを果たした私。

 ジョーズにスパイダーマンなど定番のアトラクションを楽しみ、次は観劇と行こうと「モンスター・ライブ・ロックンロール・ショー」の会場に入ったら、そこにまさにこの世の地獄という恐ろしさが待っていた。

 いや、ビビったのはドラキュラやフランケンではない。それよりも、舞台に登場するにおいては貞子やジェイソン以上の恐怖をもたらす化け物、その名も「おすべり様」のせいだ。

 おすべり様到来は、開始5秒でわかってしまうことがある。

 この日がまさにそうだった。ショーのMCをつとめる、ティム・バートン監督でおなじみのビートルジュースが登場した途端、「あ、ヤバいかも」と感じさせられた。

 これからライブがはじまるというのに、観客の温度が低いままだからだ。

 危惧は当たった。ゆかいなノリで出てきたビートルジュースは跳ねまわったり、楽しいジョークを披露したりして客席をあたためようとするが、ほとんど反応がないのだ。

 理由はよくわからない。外が寒かったせいで客のテンションが低いのか、それともビートルジュースが不調なのかは不明だが、観客はうんともすんともしない。

 「つかみ」はものの見事に失敗していた。おそらくはプロのアンテナで瞬時に「アカン空気」を察したであろうビートルジュースはそこから関西弁を交えてみたり、客席の子供をイジってみたり、拍手やウェーブをうながしたりするが、相手はビクともしない。

 嗚呼、ダメだ、完全に「おすべり様」が降臨している。

 客席がしだいにザワザワし出した。おそらくは全身冷や汗でビッショリのビートルジュースはなんとか取り戻そうともがくが、そこを頑張れば頑張るほど、ますます空回りである。

 子供が不安げな顔をする、アジアから来た観光客が言葉がわからないなりに異変を感じ取っている、隣のカップルなど瀕死のMCから話を振られないよう、ずっと下を向いてる始末だ。

 私はここで、大声をあげたくなった。なぜなら、自分もヤングのころはアマチュアで、演劇をやったり落語をやったりして舞台に立ったことがあるので、

 「舞台ですべる」

 ということの恐ろしさを体験したことがあるからである。

 今でもおぼえているのが、高2の文化祭の1日目。

 不運というか、学校側もなんとかせえよと気もするけど、その日は校舎改築の工事が行われていたのだ。

 これがキツかった。われわれだけでなく、文化系クラブや舞台で出し物を企画していたクラスなどはみな被害にあったろうけど、どんな感動的なお芝居も、ブラスバンドの熱演も、軽音のライブも、放送部の朗読会も、そのすべてが、

 「ガガガガガガガガ! ガン、ガン、ドン、ガンガン、ガガガガガガ!

 という工事の騒音にかき消される。演劇部がシェイクスピアを熱演し、

 「おおロミオ、あなたはなぜロミオなの!」

 と1年の練習の成果を披露しようとも、窓の外から、

 「山本さん、ちょっとそこのドリル取ってんか」。

 という職人さんの指示の声にかき消されるのだ。あれは今考えてもひどかった。

 さらにいえば、この日の午後の部では客に「クラスのイケてる男子」が大量にやってきて、これにもえらい目にあったもの。

 というと、「そんなリア充な子ならノリもよくて、盛り上げてくれるんじゃないの?」

 なんて声が聞こえてきそうだが、これが逆。

 他の地域は知らねど、関西では10代の男子はほぼ間違いなく、

 「自分が世界で一番笑いのセンスがある」

 そう思いこんでるから、こりゃ大変。そんな人がズラリと並ばれた日には全員が、

 「さあ、このセンスの塊であるオレ様の前で、凡人諸君はどんな出し物を見せてくれるのかな」

 といった「テレビ局の偉い人」みたいな態度で接してくるから、もう勘弁です。お願いやから帰って、と言いたくなる。

 そんな嫌な記憶を、ビートルジュースは喚起させてくれて、もうこっちは舞台はいたたまれないわトラウマは刺激されるはで、ダメージも2倍。

 でも、ビートルジュースを責める気にもなれない。だってわかるもの。全身が冷え切って、それでいてやたらとイヤな汗だけはふき出して、

 「さらし者」

 「生き地獄」

 「公開処刑」

 という単語が目の目でグルグル回る。嗚呼、今ここに爆弾でも落ちへんやろか、そしたらみんな死んでオレ助かるのに、なんて物騒なことすら考えてしまう。

 げに恐ろしきは「おすべり様」到来で、おまけにダメを押すようにドラキュラがどういう不始末なのか、全然声が出てなくてそこでもドッチラケになったりと、まあなかなかな修羅場でした。

 この体験のあまりのインパクトに、すっかり初USJの記憶はミニオンでもハリー・ポッターでもなく、

 「色んな意味で恐怖のモンスター・ライブ・ロックンロール・ショー」

 に占拠されることとなった。

 オーコワ。あんなん、ジェットコースターなんかより、全然恐いですわ! デヴィッド・フィンチャーあたりに映画化でもしてほしいものだ。私はよう見ませんけど。
 


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地獄の大阪決戦! ビートルジュースvsおすべり様 in ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

2018年10月16日 | 海外旅行

 「ビートルジュースがすべっていたなあ」。

 というのが、記念すべき初USJの感想であった。

 昨年、大阪市此花区にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパンを、初めておとずれることとなった。

 私は生まれも育ちも大阪という、バリバリの浪速っ子にもかかわらず、なぜかUSJには縁がなかった。

 それは、こういうところに行きそうなリア充的友人に兵庫県在住が多く、遊ぶとなるとどうしても、そっちに出かけることになるせいだが、このたびようやっとデビューすることができたのである。

 苦節17年、長きにわたって未踏の地であったUSJの感想はいかがなものなのかと問うならば、冒頭のそれでビートルジュースが盛大にすべっていた。

 これが実につらかった。

 最初はよかったのである。勝手知ったる仲間たちと、ワイワイいいながら園を散策。

 スパイダーマンやジョーズといった定番のアトラクションを楽しみ、11時のパレードではミニオンと一緒にダンスも踊った。

 ここまでは順当すぎるほど順調な足取りだったのだが、ここでだれかが、パンフレットを見ながらこんなことを言ったのだ。

 「あ、もうすぐモンスター・ライブ・ロックンロール・ショーがはじまるよ」

 モンスター・ライブ・ロックンロール・ショー。

 ティム・バートン監督作でおなじみのビートルジュースをはじめ、ドラキュラにフランケン、狼男といった怪物ランド……じゃなかった恐ろしい西洋のモンスターたちが夜の闇にまぎれてロックンロールをぶちかますというイベントだ。

 おお、これはいかにも楽しそうではないか。会場がミニオンのパレードからすぐに行ける位置ということで、その流れで入ってみることに。午前中ということでか、さして並ばされることもなくいい席を取ることができた。

 中はいかにもホラーショーらしく、なんともおどろおどろしい作りである。もうすぐここで、恐ろしくもゴキゲンなロックを堪能できるのだ。

 私はシートに深々と身を沈めながら感慨にふけった。

 嗚呼、ついに私もUSJデビューか。

 先も言ったが友人で、いわゆるリア充的な遊びを好むのは、なぜか大阪ではなく兵庫県人にかたよっており、そのため休日となればこちらのホームである難波や梅田ではなく、

 「飲み会の集合場所は西宮北口」

 「六甲山でバーベキューパーティー」

 「夏は須磨海岸で海水浴」

 などと、片道だけで1時間半くらいかかる場所に呼び出されることになることが多い。

 ちょっとデートなどしても、イキって

 「家で待ってていいよ、オレがむかえに行くから」

 なんてうっかり言おうものなら、2時間以上かけて加古川(尼崎市、西宮市、芦屋市に神戸市を抜けたその先)まで行く羽目になったり、

 「みんなで猪鍋を食べようよ」

 なんて誘われて、

 「おお、猪鍋といえば落語『池田の猪飼い』を聴いて以来のあこがれや」

 とホクホク顔で出かけると、行先が三田市で(神戸から六甲山を山越えした向こう側)コケそうになったりと、とにかく

 「ワシャ、昭和のモーレツサラリーマンかいな」

 と、その「遠距離通勤」にヒーヒー言わされていたのだ。リア充はいいけど、もっと近くで遊びたいよ!

 なんてボヤくと、

 「じゃあ、地元の仲間と行けばいいじゃん」

 なんて声も聞こえそうだが、これが大阪の友人となると今度は反対方向にかたよっていて、嗜好が妙にマニアックなノリが強く、

 「男色専門の古本屋散策」

 「第七藝術劇場で『ザ・コーヴ』鑑賞」

 「オウム真理教のコンサートを体験」

 といった、サブカルチャーな香りのするイベントに連れていかれることになる。

 ちなみに、同じ私の友人同士なのに、大阪組と兵庫組は接点が全然ないどころか、おたがいに「あの人ら、なに?」と牽制し合っています。

 当然といえば当然というか、どっちもに顔を出す私のことも、おそらく「変なヤツ」って思われてるんだろうなあ。

 なんてことを考えているところに、舞台が暗くなって、いよいよショーの始まりである。

 おどろおどろしい音楽とともに、稲妻の音が鳴りひびき、雰囲気は否が応でも盛り上がるというもの。

 で、そこからが地獄の始まりだった。モンスターのではない。舞台に出て来るには「オペラ座の怪人」以上のもっとおそろしい化け物、その名も「おすべり様」がご到来されたからだ。


 (続く→こちら


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近藤史恵『サクリファイス』は自転車ロードレースの入門編にも最適なミステリ

2018年10月13日 | スポーツ
 近藤史恵『サクリファイス』を読む。

 最近、自転車ロードレース観戦を新たな趣味にしているが、そのきっかけになった一冊が、なにをかくそうこれなのだ。


 ぼくに与えられた使命、それは勝利のためにエースに尽くすこと――。

 陸上選手から自転車競技に転じた白石誓は、プロのロードレースチームに所属し、各地を転戦していた。そしてヨーロッパ遠征中、悲劇に遭遇する。

 アシストとしてのプライド、ライバルたちとの駆け引き。かつての恋人との再会、胸に刻印された死。青春小説とサスペンスが奇跡的な融合を遂げた!  大藪春彦賞受賞作。




 自転車レースのおもしろさに、エースの総合優勝争いや、ゴール前の白熱したスプリント勝負といった、我々素人にもわかりやすい要素はあるが、それと同じくらい、いやコアなファンにとってはそれ以上に興味深いのが「チームの力」。

 そう、一見個人競技のように見える自転車は、実はエースを支えるチームの総合力がものを言う、サッカーやアメフトのような団体戦なのだ。

 一番わかりやすいチームメイトの仕事は「風よけ」。

 自転車を高速でこいでいると、その空気抵抗はかなりのものがある。そのため一人だとなかなかスピードも出ず、「空気の壁」に逆らって進まなければいけないため疲労度もぐっと増してしまう。

 車に乗って、窓から手だけ出してみればわかるが、風の威力と空気の持つねばっこさというのは、相当な圧になる。アシストになる選手は、前で位置してペダルをこぐことによって、それからエースを守っているわけだ。

 そして最後は「あとはまかせた」と、すべてを託して前線から消えていく。そのはかなさとストイックさが、特に日本人的琴線にふれるところ大なのである。

 そのことが理解できると、このスポーツの奥深さというか、観戦する際の厚みのようなものが、ぐっと増してくる感じだ。

 この『サクリファイス』はまさにその、縁の下の力持ちともいえる「アシスト」を取り上げた物語。

 ジャンルとしてはミステリなのだが、同時に良質な青春小説でもあり、またよくできた「自転車ロードレース入門」でもある。

 ざっくりいって、前半は主人公の自転車の関わりや葛藤。後半はいよいよレース本番と、そこを舞台にしたミステリに分かれる。

 メインディッシュもいいが、この小説の達者なのは前半部分だ。

 後半につなげるための、主人公の人となりの紹介や伏線といった物語の序章部分の役割もきっちりと果たしながら、その実しっかりと、

 「自転車ロードレースは、どこがおもしろいのか」

 という部分が、過不足なく、しかも小説としての魅力をそこなわないまま、表現されているからだ。そこが、なんともあざやかで感心してしまう。

 ふつうは、こういった「説明部分」はどうしても退屈というか、お勉強っぽくなりがちであるが、『サクリファイス』はその部分こそが、むしろ一番おもしろく感じられるのだからたいしたものではないか。

 ミッキー・ローク主演の大傑作映画『レスラー』は、素人の私などが、プロレスファンからどう熱く説明されても心からはピンとこない、

 「プロレスラーというのが、いかにすごい存在か」

 ということを、冒頭数十分のほとんど画だけで見事に説明してくれたのが感動だったが、この小説もその「いかにすごいか」の描写がすばらしいのだ。

 最初の100ページを通すと、間違いなく

 「よっしゃ、ちょっと今度、一回自転車レース見てみよっかな」

 そういう気にさせられます。

 それにくわえて、後半の謎解き部分も腰が入っており、さすがは鮎川哲也賞作家と舌を巻くことにもなる。うーむ、お見事というしかない。

 自転車レースの醍醐味、屈折した青春、ラストの「おおー」とうなる解決編。ページ数はさほどないにもかかわらず、コンパクトにまとまって、一粒で何度もおいしい良作。

 近藤さんの自転車シリーズは短編も良作ぞろい。本書にハマれば、ぜひ『エデン』など短編集や、斎藤純さんの傑作『銀輪の覇者』などにも手を伸ばしていただきたい。



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『静かなる決闘』で黒澤明を再評価! (でも『七人の侍』と『生きる』が苦手なのはナイショ) その2

2018年10月10日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 『七人の侍』『生きる』がおもしろくなく、

 「黒澤明は合わない」

 と思いこんでいたが、地味な人間ドラマ『静かなる決闘』で、その想いが払拭された私。

 やっぱり、黒澤はおもしろいんやなあ。そう心入れ替えた私は、そこから、「黒澤リベンジマッチ」を企画し、とりあえず未見のものを中心に、黒澤映画をガンガン見ることにした。

 で、その開口一番が『用心棒』だったんだけど、これが大当たり。

 もう開始10分で叫びましたもんね。

 「うわああああ!!!! 三船敏郎カッコエエエエエエエ!!!!

 刀かついだ三船が出るだけで、もうシビれた。これだけで名画決定。とんでもない存在感。

 続けて、仲代達矢が登場したところで、二度目の大歓声。

 仲代達矢といえば、『不毛地帯』や『日本海大海戦』、あと『包丁人味平』のコック役とか(それはちょっと違う)で観て、昭和の俳優らしいその存在感は知っていたけど、この映画の仲代さんは、ちょっと次元の違うカッコよさだった。

 だって、ゴリゴリの時代劇なのに、首に涼しげなスカーフまいてんの。

 おまけに、手には刀ではなく拳銃。スミス&ウェッソンなんだよ。このミスマッチが、下手な役者や演出家がやると「ねらいすぎ」になってあざといんだろうけど、それを見事に着こなしてるの。

 こんなもん見せられたら、もう目はハートよ。そのセンスがすばらしすぎる。仲代さん、抱いて!

 でもって、舞台がもう、モロに西部劇。私は西部劇ファンではないけど、それを時代劇で換骨奪胎すると、こんなにもシブくなるのか!

 最後の決闘で、三船と仲代一派が風に吹かれながら登場するところなど、マカロニ! もうマカロニ! 笑ってしまうくらいにセルジオ・レオーネ風!

 ……って、いうまでもなく、黒澤がマカロニ風なんじゃなくて、『荒野の用心棒』が『用心棒』を勝手に丸パクリしたことは、映画ファンならだれでもご存じだけど、こんなどストレートにいただいてるとは(笑)。

 つまり、


 ジョン・フォードとかハワード・ホークス的西部劇
          ↓
 一回黒澤はさんでからの
          ↓
 もっかい今度はイタリアで西部劇



 という仕組みだ。芸術というのは、パクリパクられで発展する見本ともいえる玉突きだなあ。

 まあ、『用心棒』みたら、パクりたくなる気持ちもわかりますが。それくらいにカッケーのよ。セルジオ無罪。オレだってマネしたいよ。

 おまけに、懸案だったテンポも、直球娯楽作ということかサクサク進み、観ていて全然ダレない。めちゃくちゃにおもしろかった。

 先頭打者ホームランで勢いのついた私は、その後も『椿三十郎』『天国と地獄』『隠し砦の三悪人』『赤ひげ』『わが青春に悔いなし』といった作品を次々と鑑賞したのだが、これがまたホームラン続きで感動。

 特に『椿三十郎』は、『用心棒』の続編という位置づけだが、今度はコメディータッチであり、黒澤こっちでもすんごくお上手。

 もう、あの母娘の天然ボケに苦い顔をする三船が激萌え! 奥さんを塀から外に出すところか、椿の色をあれこれ検討するのに「どっちでもええねん!」ってキレるところとか。

 よく映画史の本で、

 「この役は三船敏郎がやる予定だった」

 「監督は三船に出演を熱望してたが果たせず」

 なんて書いてあることがあって(『スターウォーズ』とか『ベスト・キッド』とか)、

 「外人さんは、三船が好きやなあ」

 なんてボンヤリ思ったもんだけど、黒澤映画観まくってわかりましたよ。そら、あんなイカした役者なら、使いたくもなりますわ。

 そんなわけで、今ではすっかり「やっぱ黒澤は天才や!」と、転びバテレンのごとく語りまくっている私だが、ひとつおもしろいのは、今回見直しても、やっぱり『七人の侍』と『生きる』は退屈だったこと。

 他のはすっかり堪能したのに、どうしてもこの2作だけはダメだった。念のために、春日太一さんの話とかも聞いてみたけど、やっぱりおもしろさが響かない。

 よりにもよって「合わない」のが、代表作2本とは運が悪かった。こういうこともあるんやなあ。

 でも間に合ってよかった。次は『野良犬』観ようっと。


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『静かなる決闘』で黒澤明を再評価! (でも『七人の侍』と『生きる』が苦手なのはナイショ)

2018年10月09日 | 映画
 黒澤明って、ホンマはおもしろかったんやなあ。

 というのは、映画『用心棒』を観ての感想であった。

 世の中には、「すごいらしいけど、自分にはハマらない映画や小説」が存在する。

 ジム・ジャームッシュって本当に「オシャレ」なの? 村上春樹がノーベル賞取りそうだけどイマイチ良さがわからない、ジブリの映画ってみんな本当に「理解したうえ」で絶賛してるの?

 かの宮部みゆきさんも、『2001年宇宙の旅』を、


 「すごい映画なのはわかるけど、どうしても途中で寝てしまう」


 まあ、そういうのは好みの問題なので(ちなみに『2001年』はアーサー・C・クラークのノベライズ版を読むと、わりとアッサリ理解できます)、「合わないものは合わないからしょうがない」でいいんだけど、あまりに周囲の評価が高いのに自分だけポカーンだと、

 「自分だけ、作品の高尚さが理解できないスットコひょうたんなのでは」

 といった不安にさらされることもある。

 これは映画にかぎらず、どの世界でも多かれ少なかれある実存的不安だが、私の場合「世界のクロサワ」がそれであった。

 大学生のころ、阿呆ほど映画を観まくっていた私は、同じく映画好きの友人に、

 「映画を語るなら、黒澤は一通りおさえておいた方がいいよ」

 とのアドバイスを受けたことがあった。

 黒澤明といえば、日本のみならず世界の映像監督に影響をあたえたことくらいは映画ファンでなくとも知っていること。

 時代劇が苦手なため後回しにしていたのだが、やはり一度は通らなければならぬ道ということで、とりあえずレンタル屋でいくつかビデオを借りてきたのだが。

 これが合わなかった。

 いや、別につまらないわけではない。ふつうにおもしろいのだ。

 だが、全体的に冗長な感じがして、観ていて退屈を感じるところも多い。悪くはないんだけど、「世間で言われるほど」の感動には達しないというか……。

 のちに日本映画研究家の春日太一さんが、

 「黒澤の演出はくどい」

 と語っておられて、まさにそのじっくりした描写が、リズムに合わなかった。もっと、ポンポーンと話を進めてくれよと。

 しかも、その「長い」と感じた作品というのが、『七人の侍』『羅生門』『生きる』だったのだから、これはもういかんともしがたい。

 おとろえたと言われたころの、『夢』や『まあだだよ』ならまだしも、黒澤明といってこの三本がヒットしなければ、これはもう「おととい来い」と言われたも同然だ。

 ひとつ救いだったのは、食後のデザートくらいの感覚で借りた『素晴らしき日曜日』『酔いどれ天使』は地味ながら楽しめたこと。

 これで一応「全滅」だけは回避できたが、やはり代表作、特に『七人の侍』にピンとこなかったことは軽いショックで、それ以降、映画ファンと話すとき、

 「やっぱ、黒澤ってすごいよな。『七人の侍』とか」

 なんて流れになると、

 「まあ、そのへんはもう語られつくされてるからな。ボクはどっちかいうたら、下手な大作よりも、小品の方がむしろ彼の繊細さがあらわれてると思うねん。通はそこを見なアカンやろ」。

 などと、ごまかしていたものだ。嗚呼、なんて恥ずかしい。わが青春は悔いだらけだ。

 そんなことがあって、かなり長いこと「黒澤明は合わない」と思いこんでいたのだが、そこに風穴があいたのが、ある深夜映画の放送から。

 そこで流れていたのは、黒澤明『静かなる決闘』。

 タイトルからして、西部劇みたいなアクションかと勝手に思いこんでいたのだが、観てみるとこれが医者を主人公にした人間ドラマだった。

 三船敏郎演じるところの医師は、戦場で患者を治療中、梅毒に感染してしまう。

 復員後、秘密をだれにも打ち明けられず、婚約者とも距離を置かざるを得なくなった三船は、それでも黙々と仕事にはげむが、病のみならず、それゆえ余儀なくされた性的禁欲にも苦しめられる。

 一方、そんなことを知らない元ダンサーで、その過去ゆえひねた性格になってしまっている見習い看護婦は、そんな彼の姿を「偽善的」と見なし屈折した接し方しかできないが、ひょんなことから真実を知ることとなり……。

 あらすじで分かる通り、地味で重苦しいドラマであったが、これがおもしろかった。

 黒澤映画では、どちらかといえばマイナーな部類に入る作品かもしれないが、これを観終わって、

 「あー、やっぱり黒澤って、実力ある監督なんやあ」。

 そんな当たり前のことに、今さらながら気づかされたのである。

 そしてこれが、「私的クロサワの大逆襲」のゴングとなり、今度は当たるを幸い黒澤を観まくることになるのである。


 (続く→こちら



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