こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その3

2019年03月30日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
 一見重いフィルム・ノワールに見せかけて、実はゆかいなコントのようなフランス映画『死刑台のエレベーター』。
 
 ここでさらにコメディ度を加速させるのが、主人公モーリス・ロネをの道へと導いたジャンヌモロー
 
 またこのジャンヌ姐さんが、妙におかしいというか、恋人がアクシデントに見舞われていることに、ちょっとした行き違いがあって気づかず、
 


「どうしたん? もしかして土壇場でおじげづいたんかいな。それとも、もうウチのことなんて愛してないのん?」

 

 アレコレ悩みながら、深夜の街を徘徊するのであるが、なんかそこもヘン。
 
 たとえば、モーリス行きつけのバーに、聞きこみに出かけるのだが、そこで
 


 「ジュリアン(モーリス・ロネの役名)を見かけた」


 
 という女に出会う。
 
 期待と恐れが、ないまぜになった表情でジャンヌ姐さんは「彼女に一杯」とギャルソンに告げるが、女はうつろな表情で
 
 

 「先週よ……」 

 
 
 この答えに、ジャンヌ姐さんは「ああ……」とでも、ため息をつきたげに、そっと外に出ていく……。
 
 ……て、この場面。画で見ると、ジャンヌ姐さんの演技力と、マイルスデイヴィスのしっとりした音楽で、なにやらフレンチ・ノワール的アンニュイさを醸し出している。
 
 けど、これってセリフだけ取ったら、
 
 

 「ジュリアンを見たで」

 
 
 酔っ払ってる不思議ちゃんがそういうのに、
 
 

 「彼女に一杯あげたって。で、いつ?」
 
 「うーんとね、先週!」
 
 「ズコー!」

 
 
 ……てことでしょ?
 
 

 「オレ、カジノで大もうけしたで」 
 
 「へー、すげえな!」
 
 「『ドラクエ』のやけどな」
 
 「ゲームの話かい!」

 
 
 ていう子供の会話と一緒やん!
 
 その間、勝手に車盗んで、嘘八百の武勇伝をふかしまくって、それを笑われたらいきなり拳銃で撃つとか、自分のダメダメっぷりを棚に上げて
 
 

「オレの人生はメチャクチャだ」

 
 
 ルイは苦悩している。知らんがな、と。
 
 一方、ベロニクの方は、
 
 

 「ひどいことになったわ。あたしたち、新聞に載るのね……」

 
 
 泣きそうになりながらも、ふと顔をあげ、ウットリしたようにつぶやく。
 
 

 「みんなが言うのね、見て、あのカップルよって……でも、それもステキかも……」

 
 
 完全に陶酔モード。
 
 痛すぎるねえちゃんである。絶対に彼女にしたくないタイプだ。
 
 あまつさえ、
 
 

「心中して、歴史に名を残しましょう」

 
 
 などと底が抜けたようなことをいいだし、ふたりは睡眠薬を飲んで眠りにつく。
 
 もうこのあたりは明らかに悪意のある演出で、当時まだ監督は25歳なのに、「今どきの若者」に言いたいことでもあったんでしょうか。
 
 とにかく、このカップルの能天気ぷり(まあ本人たちは大マジメですが)を見てると、そこが、モーリス・ロネのにっちもさっちもいかない危機的状況と比較されて、もう大爆笑
 
 緊張と緩和というか、悲劇と喜劇というか、ほんまにルイマル天才や
 
 いや、爆笑するところでは全然ないんだけど、笑うッスよ、これはホント。

 いやあ、もうメチャメチャにおもしろい。
 
 しかも、話はまだエスカレートし、なんとベロニクが偽名(「タベルニエ夫妻」というモーリス・ロネの役名)を使っていたことが原因となって、モーリス・ロネはドイツ人殺しの下手人として追われることとなる。
 
 朝になって、ようやく電気がついて、やれうれしやとエレベーターから脱出したら、その途端に見も知らん殺人の犯人に。
 
 しかも、エレベーターの中にいたもんだからアリバイはなく、そもそもそれを言っても信じてもらえない。
 
 だいたい、信じられたら今度は社長殺しの容疑はまぬがれず、八方ふさがり。
 
 まったくもって、おそろしい話だが、その発端はただの忘れ物である。
 
 ついでにいえば、このころジャンヌ姉さんも明け方、不審人物として警察に連行されている
 
 ドタバタしてますなあ。
 
 結局、死にきれなかったルイとベロニクであったが、ルイは「モーリス・ロネ逮捕」の報に、
 
 

 「やったラッキー!」

 
 
ガッツポーズで、おおよろこび。
 
 よろこんで、どうするという話だが、まあ、そういう子なんですね。フォローのしようもない。
 
 ところが、ここには穴があった。
 
 そう、モーテルで撮った記念写真だ。
 
 あれを見られたら、犯行時にドイツ人夫婦と一緒にいたことがバレてしまう。なんとか取り戻さないと……。
 
 バイクで写真屋に急いだところに、刑事であるリノヴァンチュラが待っていて御用となる。
 
 モーリス・ロネの無実が証明されて、ジャンヌ姉さんは
 


「いやー、もうウチ安心したわ。刑事さん、サンキューね」


 
 ウキウキとよろこぶが、そのカメラのフィルムの中にはモーリスとジャンヌ姉さんが、仲良くちちくりあっているところも写っており、リノ・ヴァンチュラが、
 


 「奥さん、写真はまずかったッスね」


 
 うなずいて映画は終了
 
 ジャンヌ姉さんは、
 
 

 「すべてはお終い。でも、写真の中だけでは、あたしたちは永遠にふたりきり……」

 
 
 遠い目をしてつぶやくのだが、その前に、これから二人で人を殺そうってときに、呑気にツーショットの写真撮るなよ!
 
 浮気とか、ようその展開でバレますねんって。

 ラブホテルで彼氏と写真撮って、それでスキャンダルになったアイドルとか、よういてますやん。
 
 てか、モーリスも元パラシュート部隊の英雄で、スゴ腕産業スパイのはずやのに、どこでも証拠残しすぎや!
 
 こうして最後まで見て、私は天にむかって叫んだのである。
 

 「この映画に出てくるヤツ、どいつもこいつもアホばっかりやあ!!!!!」

 
 だってこれ、事件を殺人現場からじゃなくて
 

 不倫現場から逃げ出す」

 
 に変えたら、そのまま立派な『ベッドルーム・ファルス』になるもんなあ。
 
レイクーニーとか、アランエイクボーンみたいな。
 
 てか、私が舞台人なら、これを一字一句変えずにコメディとして上演します。いや、マジで。
 
 かくのごとく私は、この映画を観るたびに、パリ夜闇が匂い立つような重厚なノワールを味わうつもりが、奇しくも
 
 
 「忘れんぼ兄さんが閉じこめられてる間に、リアルな世界がとんでもないことになってギャフン!」
 
 
 みたいな作品を見せられてしまい、
 

 「なんか思ってたのとちがう……」

 
 そんな気分になりながらも、
 

 「けど、おもしろかったからいいや」

 
 なんて満足してしまうのである。
 
 
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こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督 その2

2019年03月29日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。
 
ルイマル監督『死刑台のエレベーター』は、濃密なフィルム・ノワールと見せかけて、実はマヌケなギャグ映画ではないのかと疑ってしまった私。
 
 しかも、この映画のつっこみどころは、まだまだ、こんなところでは終わらない。
 
 そこで今回は、あれこれ言いながらストーリーを最後まで語っちゃうので、未見の方はスルーしてほしいが、続いてモーリス・ロネはロープを回収している間に、逃走用のを盗まれてしまう。
 
 窃盗犯は、現場である会社の向かいにある花屋の娘ベロニクと、そのボーイフレンドであるルイ
 
 彼女にいつも、

 

「あの戦争の英雄で、エリートのモーリスはんとくらべて、アンタはホンマに頼んないねえ」


 
 などと、からかわれていることに、イラッとしていたルイが、

 

 「ほな、オレ様のイケてるところ、見せたるわ!」

 

 ブチキレて、モーリスの車に乗りこみ、勝手に発進させる。
 


 「オレかって、本気出したら、こんな悪いこともできるんやぞ!」

 

 という、ヤンキー的中2病な彼氏に、最初こそ
 


 「そんなんして、怒られてもしらんで」


 
 あせっていたベロニクだが、やがて

 

 「いやーん、ドライブって、メッチャ楽しいやん。もっとスピード上げたって!」


 
ノリノリになってはしゃぎだす。
 
 なんか、殺人劇から打って変わって、頭の軽いカップルがワチャワチャやりだすのだ。
 
 そこからもふたりは、勝手にダッシュボードを開けて拳銃で遊ぶわ、仕事の書類を見るわ、果てはハイウェイで走り屋を気取るわ、もうやりたい放題。
 
 このふたりの浮かれっぷりが妙に長く、見ていてこれが、実にイライラさせられる。
 
 なんだか、殺人とかモーリス・ロネの運命など、だんだんどうでもよくなって、
 

「いつこのアホどもに天誅が下るか」

 
 そっちでハラハラするようになり、今どきの若いもんはと、とってもな気分が味わえる。
 
 そんなことも知らず、うっかり八兵衛ならぬ、うっかりモーリスは後始末に走るのだが、ここで第二のアクシデントが。
 
 なんと、エレベーターが止まってしまうのである。
 
 ロープの存在に気づいた時には、すでに会社を閉める時間が来ており、守衛がビルの電源を落としてしまったからだ。
 
 おかげで、エレベーターをはじめ、明かりなどもすべてストップ
 
 なんとモーリス・ロネは、今度は自分が密室の中に閉じこめられてしまうのだ!
 
 そこからモーリスは必死に脱出をこころみるが、動かないものはどうしようもないし、そもそもこんなところを見つかったら、社長殺しの第一容疑者だ。
 
 これでは、うかつに声も出せない。うっかりロープを忘れてしまったばっかりに、大変なことになってしまった。
 
 モーリスが袋のねずみになっている中、ルイとベロニクの阿呆カップルはますます絶好調
 
 ハイウェイで素人レースを展開したドイツ人夫婦に気に入られ、二人の泊まるモーテルに宿泊。
 
 はよ車返したれよ! とつっこみたくなるが、これにはベロニクも悪ノリ全開で、
 


タベルニエ(モーリス・ロネの役名)夫妻で一泊します」

 

 勝手に、モーリスの名前まで拝借。
 
 宿泊代も出せる当てもないのに、迷惑この上ない姉ちゃんである。浮かれとりますなあ。
 
 モーリスがエレベーターの中で悶々とし、脱出しようとしてエレベーターから落ちそうになってウッカリ死にかけたり(なにをやってるんだか……)しているのをよそに、4人はシャンパンで乾杯
 
 昔話をしたり、記念撮影をしたりと、完全にゆかいな旅行気分。
 
 ただそこに唯一、不機嫌そうなのがルイ。
 
 このアンチャン、顔はいいのだが、いかんせん無能で使えないにもかかわらず、プライドだけは山のように高いという、なんともめんどくさいタイプの男の子。
 
 それがここでも大いに発揮され、見栄をはってドイツ夫婦に
 
 

 「ドイツによる占領、インドシナ、アルジェリア、オレは戦地で命を張ってきたんや……」

 
 
武勇伝を語りまくるのだが、もちろんのことすべて大嘘のホラ
 
 まあ、「自称ヤンキー」が語る、昔オレはワルだった話みたいなもので、こういうのは洋の東西を問わないよう。
 
 後輩や女子に失笑されてるんやけどねえ……。トホホのホだ。
 
 そうやってフカしまくって、まだまだ彼女に「ワルなオレ」を見せたいルイは、ドイツ人の車を盗んで逃げようとするが、それは見破られていた。
 


 「そんなん、もうバレバレやん」


 
 バカにされた上に、

 

「外人部隊とか、全部ウソなんもわかっとったで。キミみたいな軟弱な痛い坊やは、そういうこと言いたがるねんワッハッハ」


 
 これには赤っ恥のルイが逆上
 
 なんと、ドイツ人をモーリスの拳銃で撃ち殺してしまう。
 
 おまけに、悲鳴を上げた妻もズドン。いきなり殺人犯に。
 
 ちょっとホラ吹いたのをバカにされただけで、人殺すなよ! どんだけ場当たり的に生きてるんや。
 
 外がえらいことになってるその間、主人公のモーリスは、やはりエレベーターの中。
 
 どないしようもなく座りこんでいるモーリスは、自業自得とはいえ(殺人よりも忘れ物の方でネ)実に哀れである。
 
 ここは押さえた演出で、感情表現のセリフとかナレーションは一切ないのだが、モーリス・ロネのその背中からは
 
 

 「オレって、アホやなあ……」

 
 
 という情けない声が聞こえてきそう。さすがは名優、見事な演技といえよう。
 
 ズッコケな出だしから、さらにズッコケがズッコケを呼び、再び殺人が起こってしまったというか、こんなことで殺されて、ドイツ人もいいツラの皮である。
 
 だが、ことはここで終わらないのが、この映画のすごいところ。
 
 そこからマヌケは、さらにブースターがかかっていくことになるのだから、もうなにがなにやらなのだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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こんなに変だぞ『死刑台のエレベーター』 ノエル・カレフ原作 ルイ・マル監督

2019年03月28日 | 映画
 『死刑台のエレベーター』は良質のコメディ映画である。
 
 フランスのルイマル監督といえば、『地下鉄のザジ』は大好きだし、『さよなら子供たち』は胸苦しく切ない傑作で、どちらも何度も観た。
 
 この『死刑台のエレベーター』も、やはり私のお気に入りで、こないだテレビでやってたのを見て、もうこれで4回目の鑑賞だが、またも最後まで笑いっぱなしで大いに楽しめたのだった。
 
 というと、

 
 「おいおいちょっと待て、この映画は《フィルムノワール》ではないか。マイルスデイヴィスの音楽もけだるく、どこにも笑いのはいる余地などないだろ」

 
 なんて意見があるかもしれないが、それはまったく正しい
 
 ノエルカレフ原作のこの物語は、犯罪劇であり、全編シリアスな展開のはずなのだが、それでもなぜか、私にはこの映画が喜劇に見えて仕方がないのだ。
 
 まず引っかかるのが、主人公が「やらかす」シーン。
 
 ストーリーは、主人公であるモーリスロネ演じる、元フランス軍落下傘部隊の英雄ジュリアン・タベルニエが、雇い主である社長を殺そうとするところからはじまる。
 
 なぜ、そんなことをするのかと問うならば、なんとモーリスは社長の奥さんとつきあっている。
 
 いわゆる不倫の恋というやつだ。
 
 そこで、奥さん役のジャンヌモローに、

 
 

「こんなことしてても、未来がないやん。なあアンタ、ウチのこと愛してるんやったら、ウチのこと縛りつけてるあのダンナを殺して。ほんで、二人で楽しゅう暮らそうや」


 
 不倫を発端にした事件。
 
 ビリー・ワイルダーの『深夜の告白』、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』とか、ノワールには付き物の設定だ。
 
 そこで、モーリスは殺人を決行。
 
 アリバイ工作も完璧にし、オフィスのベランダからロープをのぼって社長室に忍びこみ、見事社長を自殺に見せかけて殺すことに成功する。
 
 愛ゆえの、命をかけた犯罪だ。
 
 あとはモーリスとジャンヌ姉さんが完全犯罪を遂行できるのか、それとも警察に事が露見してしまい、ふたりは哀れ、ひき裂かれてしまうのか。
 
 そうしたドキドキ感でぐいぐい引っぱっていく、サスペンスフルな展開を期待するであろう。
 
 ところがどっこい観てみると、思ってるのと、ちょとばっかし雰囲気がちがうのだ。
 
 どう、ちがうかといえば、モーリス・ロネの犯行現場における証拠隠滅シーン。
 
 見事殺人をやりとげ、指紋もすべてふき取り、密室の状況もこしらえて、完全に自殺としか見えない場を作り出す。
 
 さてホッとしたと、愛するジャンヌ姉さんの元に走ろうと車に乗りこんだところで、ふと上を見上げて、そこで気づくのである。

 
 

「あ、ロープ回収するのん、忘れてた」



 
 ここでまず、スココココーン! とコケそうになった。
 
 おいおい、そんな大事なもん忘れてどうする。
 
 そう、自室のベランダから社長室の階に、忍者のごとくよじ登るときに使ったロープが、思いっきり出しっぱなしに。
 
 下から見ると、マヌケにプラーンとぶら下がったままなのだ。
 
 潜入に使ったロープなんて、「密室殺人」をするのに、一番現場に残してはいけないアイテムではないのか。
 
 むしろ、忘れようにも、忘れようがないアイテムだと思うが。ようウッカリしましたな。
 
 オレオレ詐欺師が、自分の本名を名乗ったりするレベルのうかつさである。

 こんなスットコなミスを犯す男が主人公で、この映画は大丈夫なのか。
 
 そう思ってしまったのが運の尽き。
 
 いったん、
 
 「主人公がマヌケ
 
 という、すりこみがあたえられてしまうと、そこからがいくらダイアログディレクターがシブいセリフを書こうと、ジャズメンがクールなラッパを吹こうと、

 
 「すべてがギャグに見えてしまう」

 
 というギアを切り替えることは、できなくなってしまったのだった。
 
 
 (続く→こちら) 
 
 
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「さばきのアーティスト」久保利明の常識を超えた、と金使い vs深浦康市 2013年 A級順位戦

2019年03月24日 | 将棋・好手 妙手
 久保利明のさばきは、将棋界の至宝である。
 
 ということで、前回は「さばきのアーティスト」こと、久保利明九段の華麗なるイリュージョンを紹介したが(→こちら)、今回は少し毛色が違う妙手を。
 
 将棋の妙手のおもしろさに、
 
 
 「固定観念をくつがえされる快感」
 
 
 というのがある。
 
 将棋には様々な常識というか「そうすべきもの」という型があり、
 
 
 「居玉は避けよ」
 
 「玉の守りは金銀三枚」
 
 「攻めは飛角銀桂」
 
 
 など、主に格言となったりしているが、ときにそのを行くことこそが「正解」だったりして、その読みの深さや、柔軟さに感心させられるのだ。
 
 今回は、久保による「逆張り」の妙手を紹介したい。
 
 
 舞台は2013年A級順位戦
 
 相手はまたも、深浦康市九段である。
 
 後手番で、早石田にかまえた久保が、序盤で早くも戦端を開く。
 
 飛車交換から、お互い敵陣に打ちこんでねじりあいになり、むかえたのがこの局面。
 
 
 
 
 
 先手の深浦が▲23と、と寄ったところ。
 
 形勢は難しそうだが、後手玉は左右から挟み撃ちにされており、いかにも息苦しい形。
 
 攻め合うなら△28とだが、△38の地点には▲74からが利いていて、きびしい手かどうかは微妙。
 
 そもそも次△38と、と取った形がなんでもなく、その2手の間に一気に攻めこまれるかもしれない。
 
 後手としては、当然をうまく使いたいのだが、ここで久保が指した手が、まさに「逆を行く」好手だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 △19と、とこちらに使うのが、思いつかない、いや思いついても指せない手。
 
 通常、と金といえば
 
 
 「と金のおそはや」
 
 「53のと金に負けなし」
 
 
 など、できるだけ敵陣に迫ったり、できれば3段目にいると、威力を発揮する駒なのだ。
 
 それを、まったく反対の、おそらくはと金がもっとも働かない△19の地点に寄る。見たこともない発想だ。
 
 もっとも、指されてみれば、意味は納得できる。
 
 次、後手は△29竜と入るのが、▲23と金の両取り。
 
 を責められるのもさることながら、と金を払われると、後手玉が一気に安全になってしまうのが、先手の泣きどころ。
 
 攻防ともに、実にきびしい両取りで、指された深浦もおどろいたことだろう。
 
 両取りを食らってはたまらんと、その前に攻めつぶすべく▲33桂と打ち、△31金▲21と、とこちらはまさに「と金のおそはや」。
 
 「敵のをはがす」は攻めの基本だが、久保は待望の△29竜。
 
 しょうがない▲39桂に、軽く△21金と取って、▲同桂成△23竜と金を除去。
 
 
 
 
 
 これで後手の左辺が、相当になっている。
 
 ▲23にあったと金は、後手玉の脱出を防ぐ鬼看守だったが、つんのめって利きの少ない▲21成桂だけでは、いかにも頼りない。
 
 その意味からも、久保の△19と、という手が、いかに一目指しにくかったかが、よくわかろうというものだ。
 
 玉を△42から逃げられては、つかまらないから、深浦は▲31成桂とせまるが、久保はやはり軽く△34竜
 
 これに深浦は▲41金と打つことを余儀なくされ、これがなんとも重い手で、いかにも悲しい。
 
 後手はゆうゆう△62玉とあがり、▲42金△73香が、すこぶるつきに味の良い手。
 
 
 
 
 角取りの先手で自陣を補強しながら、馬道を遮断して、さらには玉頭にねらいをさだめている。
 
 一石で、何鳥落としたかわからないくらい、まさに手がしなる香打ちだ。
 
 以下、▲56角△44竜と逃げ、▲52金△同金▲82銀△77歩と、ド急所にたたいて後手攻め合い勝ち。
 
 
 
 
 
 最後は△46に使い、その利きを生かして、桂香△76の地点を攻め、先手陣を攻略してしまった。
 
 あの△18にいたを、横からではなく、ぐるりと自陣を経由して、中段からタテに使うという発想が、すばらしいではないか。
 
 それもこれも、△19と、という「理外の好手」のたまもの。
 
 将棋の強い人は、盤面を実に広く見ていることが、よくわかる好手順といえるだろう。
 
 
 
 (鈴木大介の逆転術編に続く→こちら
 
 (久保の「ねばりもアーティスト」編は→こちら
 
 
 
 
 
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ハンガリーのブダペストでフォアグラ(格安)を食べてみた その3

2019年03月21日 | 海外旅行
 前回(→こちら)に続いて、ハンガリー格安フォアグラ戦記。
 
 首尾よく仕入れもすませ、いよいよ宿に帰って調理である。
 
 すでに言っているが、アパートにはキッチンから調理用具食器調味料まで用意されている。
 
 スーパーでクックドゥーのステーキソースと、日本の心お醤油も用意した。
 
 あとはチャチャっと料理して、ハグハグ食べるだけだ。
 
 余談であるが、ヨーロッパではキッコーマンが、かなりメジャーな存在であるらしい。
 
 プラハの宿では朝食のバイキングで、バターやジャム、蜂蜜といったものとならんでキッコーマンの醤油のビンがおいてあった。
 
 パンやシリアル、チーズに紅茶といった、純欧風のメニューのどこに醤油を使うのか疑問だったが、スープにでも足すのだろうか。いまだに謎である。
 
 まあ、ともかく醤油があるのはありがたい。これをかければ、たいていの食材はうまくなる。
 
 私は一人暮らし歴は長く、それなりに自炊もしないことはないが、基本的には料理に興味がなく、またそれゆえか下手でもある。
 
 なもんで、せっかくのフォアグラも無手勝流に手を入れると、とんだ惨状が待っていると思われるが、昨今は便利なもので、スマホで検索すればふだんはなじみのない「フォアグラレシピ」なるものも手にはいるのだから、文明の利器とはすばらしい。
 
 ここは変に考えず、ネットに載っているとおり、マシンのごとき調理するのが吉であろう。
 
 ソースを作って肉を焼いて、フォアグラにも火を入れる。
 
 焼きすぎないように火力を調節して(私のような料理が下手な人は、こういう一手間を惜しみがち)、最後に熱したフライパンごと醤油をざっとかけて、はいフォアグラステーキの出来上がり。
 
 完成したステーキは、分厚いのが2枚という豪華版の上に、あふれくるマグマのごときフォアグラがのっかっている。もうボリューム満点
 
 そこにパプリカと、ジャガイモとナスの炒めものもつけて、ではいっただっきまーす。
 
 備え付けのナイフとフォークで、モリモリいただいた人生初フォアグラは、まあなかなかの味であった。
 
 フォアグラというと身構えるが、要はののったレバーということであり、私は内蔵系はOKなので問題ない。
 
 セレブなミーは、独特のねっちりした食感を味わいながら、
 
 「うーん、これでレバニラ炒めを作ったら、どんな感じになるんやろ」
 
 なんてことを考えてしまうのが、どこまでいっても根が庶民のミーである。
 
 ハンガリーは残念ながら牛肉をあまり食べない土地柄か、ステーキの方はそれほどでもなかったが、フォアグラの方は堪能できた。
 
 味もさることながら、その量である。なんといっても、安いのをいいことに、400グラムも買ったのだ。
 
 同行者と2人で食べたから、半分に分けて200グラムだけど、それでも相当の量である。
 
 これだけ食べて、ひとり500円
 
 やっすー。
 
 さらには、同行者が「こんなに食べられへん」と残し(なんてブルジョアな!)、置いておくと味が落ちるから、まだ温かいうちに私がいただいて、これでまあ300グラム以上はたいらげたことになる。
 
 フォアグラを300グラム以上!
 
 これだけ聞くと、ものすごい贅沢である。でも、値段は750円やよい軒の定食程度。
 
 あまり値段のことばかり言うと育ちがばれるが、それにしても感動的な安さである。
 
 こうして、おそらく人生における全フォアグラ含有量を、ここで突破してしまった私は、満腹のお腹を抱えて倒れこむことになった。
 
 フォアグラ自体は食感も軽く食べやすいのだが、フワッとして見えてあれは実はモーパッサンも裸足で逃げ出す脂肪の塊
 
 ちょっと食べただけで、存外と腹にくるのだ。
 
 それを300グラムを食べた日にはあんた、そりゃ胃もたれも起こそうというもの。
 
 焼き肉屋で、牛脂をそれだけ口に入れたと想像すれば、私の苦しみもわかろうというものだ。
 
 そうして、「もうフォアグラは充分。しばらく見たくもないよ」とうなったプチブルの私がここで心底感じたのは、
 
 「あー、お茶漬け食べたい」
 
 私は外国に行っても、あまり日本食が恋しくならないタイプである。
 
 元から食に興味がないタイプだからだろうか、パンばっかりでも平気だし、衛生状況に問題ありそうな屋台などでも、腹をこわしたりしない。
 
 なもんで、友人と旅行したときなど、彼らが旅行3日目くらいから、
 
 「米の飯が食べたい」
 
 「タクワンがほしいなあ」
 
 などというのを、なんと軟弱な奴らなのかとあきれ、
 
 「フ、ど素人が」
 
 などと、南倍南のごとくひそかに見下していたのだが、ここへ来て私ははじめて彼らの気持ちがわかった。
 
 フォアグラを食べると、ものすごくお茶漬けが食べたくなります。いや、マジで。
 
 こうして「青いガーネット作戦」は成功に終わった。
 
 安くフォアグラを大量にいたいただいた私は、ハンガリーの豊かな食事情とフォアグラで満腹するという貴重な体験をし、そしてなにより
 
 「野沢菜で食べる、お茶づけは偉大だなあ」
 
 という、日本人としての真理を学んだのである。
 
 
 
 
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ハンガリーのブダペストでフォアグラ(格安)を食べてみた その2

2019年03月20日 | 海外旅行
 前回(→こちら)の続き。
 
 「ハンガリーではフォアグラが、とんでもない安値で手に入る」
 
 という、文字通り「おいしい」情報を得た私。
 
 そう聞けば、ふだんはグルメなんぞに興味はなくても、試してみたくなるのが人情というもので、オペレーション「青いガーネット」を発動させた私は、勇んでハンガリーの首都ブダペストに進駐したのである。
 
 ガイドブックによると、フォアグラが手にはいるのは、街の南にある中央市場
 
 そこでのフォアグラを買って調理するのが、一番安いらしい。
 
 レストランで食べるという手もあるが、それだと少しばかり値が張る。
 
 といっても日本で食べるよりは安いけど、それよりも自炊にこだわりたいのは、ハンガリーの宿事情にあった。
 
 私が滞在したころ(2014年くらい)は、ブダペストにはリーズナブルなアパートメント形式のホテルが多かった。
 
 ハンガリーにはもともと、一般家庭のあいている一部屋(子供が独立して物置になっているなど)を安く旅行者に貸し出す「プリバートツィンマー」という制度があったが、今ではもっと富裕層を取りこみたいのか、マンションや高級アパートの一室をファミリーに、丸々貸し出すようなホテルが増えていた。
 
 貸し主さんによって違うが、これがたいてい、広くて快適なところが多い。
 
 私が泊まっていた部屋も、モデルルームみたいに清潔で広々とした1LDK
 
 一泊6000円程度であったから、数人でシェアすれば夢のように安くつく。
 
 しかもヨーロッパではめずらしいバスタブつきで(ハンガリーには温泉文化があるからか?)、ゆっくり湯につかれるのもありがたい。
 
 そして、なによりもすばらしいのはキッチンがあること。
 
 アパートなんだから当然なんだけど、巨大冷蔵庫のみならず、オール電化のコンロが3つもあって、電子レンジから食器調味料までなんでもそろってる。
 
 もう自炊でもなんでもOKな、完全装備の物件だったのである。
 
 こんなもんが用意されてたら、そら高い金払ってレストランに行こうという気にはなりませんわな。
 
 装備の中で、日本人の肉料理に唯一足りないお醤油キッコーマンは世界のいろんなところで売ってます)を近所のスーパーで確保した上で、いざ市場に出撃。
 
 中央市場は、ブダペストの側、地図でいえばエリーザベト橋から少しに歩いたところにある。
 
 『地球の歩き方』にはそっけない記述しかないが、これが意外と観光客も集まるメジャーなスポットだ。
 
 中に入ると、これがもうまごうことなき市場。
 
 内陸国なので魚こそ少ないが、肉に野菜に果物、他にも自家製ケーキやピクルスの店もあって彩りを添える。
 
 観光客も地元民も、とりあえず集まってくるため活気があって、にぎやかなことこのうえないが、名物といわれ、肉屋さんも多い割にはフォアグラを売っているという店は少なく、2軒しかなかった。
 
 値段を見ると、どっちもほぼ同じくらい。
 
 交渉しやすそうな、おばさんが売り子の店を選択して、いざショッピングタイム。
 
 ハンガリー語で、フォアグラは「リバマイ」。
 
 とりあえず日本語で、
 
 「おばちゃーん、リバマイちょうだーい」
 
 もちろん、これで通じるわけはない。ここにあえてジャパニーズ突破を試みたのは、コミュニケートと言うよりは、まあ景気づけである。
 
 こういう英語が通じない地域でも、なぜかかたくなに
 
 「カタコト英語で通そうとする日本人」
 
 がいたりするけど、それは無意味なうえに、少々滑稽でもある。
 
 多少の現地語と、あとはどうせ通じないなら日本語を使うのがいい。
 
 これなら少なくとも、
 
 「単語が出てこなくて、ぎこちなくなる」
 
 という心配はない。
 
 下手な英語でどもるより(というか、そもそも「通じないうえに自分もしゃべれない外国語」を使うというのもおかしいし)、よほど自信をもって声が出るもの。
 
 「はあ?」という顔をするハンガリーおばちゃんに、日本語、片言ハンガリー語、身振り手振り電卓をたたきまくって、あっちこっち迷走しながらも、無事に生フォアグラをゲット。
 
 時間はかかったが、買えれば問題はない。「言葉は勢い」というのは本当なのだ。
 
 値段の方はといえば、ちょっと多めの400グラム2500フォリント。だいたい1000円くらいか。
 
 えー、こんなに買って、たったの1000円やってー!
 
 思わず、深夜の通販番組みたいな声が出る。こら思ってた以上に安いですわ。ビバ! ハンガリーの物価!
 
 ちなみに、ハンガリー人は食べることが好きな民族であり(だから丸々と太っている人が多い)、共産主義時代のどんな貧しいときでも、食料品だけは値上げをしなかったそうだ。
 
 そえゆえ、抑圧的なイメージの東欧の中でも、比較的国民の不満は抑えられてたそうだが、それは今でも伝統的に受け継がれている。
 
 しかもハンガリー食材は味もいいので、なにげに「自炊オススメ国」なのだ。
 
 本命の後はステーキ用のに、ハンガリーといえばこれでしょとパプリカ、ナスやジャガイモ、キノコ、パンなども買いこむ。
 
 こんなハンガリー語しか通じない市場で買い物しているのが、よほどめずらしかったのか、すれ違う日本人観光客が、皆おどろいたような顔をして、私の持つビニール袋を見つめるのがおかしかった。
 
 そう、言葉ができなくても、いろいろやれるんだよ。
 
 みんなもノリと勢いでレッツ日本語交渉術だ!
 
 次回いよいよ、フォアグラ料理編へ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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ハンガリーのブダペストでフォアグラ(格安)を食べてみた

2019年03月19日 | 海外旅行
 ヨーロッパで、フォアグラを山のように食べてきた。
 
 美食に興味のない方でも、名前くらいは聞いたことがあるであろう。キャビアトリュフと並ぶ世界三大珍味の一つ。
 
 そんなフォアグラは有名だけあって、値段の方ももちろん日本で食すとお高い
 
 まともなレストランでいただけば、それこそ松屋の定食についてくるミニ冷や奴くらいの大きさで、ウン千円は取られるというシロモノ。
 
 それをお腹いっぱい、それも本場ヨーロッパで食してきたのだ。
 
 セレブなミーは、もちろん量もステーキの上にこんもり
 
 野球のグローブかというくらい、にもりつけられたそれを、なんとか平らげた日にはもう、
 
 「満腹満腹。もうしばらくフォアグラは見たくないね。え? まだ残ってる? そんなものは食べきれないから、お腹を減らしたにでもあげてしまいなさい」
 
 などと言いたくなったものである。
 
 みんなはいいなあ、私のように
 
 「フォアグラの食べ過ぎで消化不良」
 
 なんていう苦しみを、味あわずにすむのだから。
 
 なんて得々と語っていると、そのうちプロレタリア革命でも起こされそうだが、それはちょっと待ってほしい。
 
 たしかに私はフォアグラをいただいた。それも並でない量を。
 
 ステーキの上に、皿からこぼれそうな勢いで盛られたそれを、動けなくなるくらいにお腹に詰めこんだ。
 
 だが、ブルジョアゆえにそういうことになったのではないのであり、そのカラクリを解くならば、ヨーロッパで食べたフォアグラというのは、ハンガリーの首都ブダペストでのことなのである。
 
 そういうと、旅行好きの人や、東欧のグルメ事情にくわしい人はポンと手をたたいて、
 
 「あー、そういうことね」
 
 納得してくれるのではないか。
 
 まわりくどい話はここまでにして、ここに一言にまとめるならば、これはつまり、
 
 「ハンガリーはフォアグラの名産地で、市場などで買うと信じられないような安値で手に入るから、ワシのような貧乏人でも、たらふく食べ放題や!」
 
 ということなのである。
 
 旅行者の間では、
 
 「○○に行くと、●●がすごく安価で手に入る」
 
 という情報がよく出回る。
 
 上海では北京ダック数百円で食べられるとか、一昔前のイランでは闇両替パワーで、
 
 「キャビア山盛り寿司」
 
 が一貫100円弱くらいで食べられた、など枚挙にいとまがないが、その中の一つに、
 
 「ハンガリーのフォアグラはとんでもなく安い
 
 というのがあるのだ。
 
 セレブなミーはふだんは食に興味がなく、三食立ち食いそばやコンビニ弁当でも平気なタイプだが、こういう話を聞くと「ぜひ食わねば」となるのだから、我ながら意地汚い。
 
 ものはなんせフォアグラである。こんな機会でもないと、日本では下手したら一生食べることなどない可能性も高い。
 
 そこで東欧旅行の際、思い切って食べてみることにしたわけだ。
 
 何事も経験。私はこのハンガリーグルメ計画を「青いガーネット作戦」と命名。
 
 勇んでブダペストの街に、東洋の食い意地男爵が進駐することとなり、次回より東欧フォアグラ自炊事情をレポートしてみたい。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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「さばきのアーティスト」久保利明の振り飛車カルサバ劇場 vs深浦康市 2007年 A級順位戦

2019年03月14日 | 将棋・好手 妙手

 久保利明のさばきは、将棋界の至宝である。

 前回は藤井猛九段の「一歩竜王」と、それにまつわる林葉直子さんの影響について語ったが(→こちら)、今回は振り飛車の指し方について。

 プロの将棋界において、振り飛車党といえば、藤井猛久保利明鈴木大介

 「振り飛車御三家

 が長くひっぱってきた。

 今でも若手棋士の石井健太郎黒沢怜生西田拓也杉本和陽などなど。

 このあたりの面々が、魅力的な振り飛車を見せてくれているが、中でもその本質である「さばき」においてもっとも秀でているのは、久保利明九段で間違いないだろう。

 そこで今回は、そんな久保の会心譜を紹介しよう。

 

 舞台は2007年、A級順位戦深浦康市八段戦。





 

 先手の深浦が、▲34銀▲25にいた銀を進出させたところ。

 次に、▲33銀不成とされると食い破られるが、ただ受ける手だけ考えるのは、いかにもつまらない。

 先手の駒が重く感じられる、ここは「さばく」チャンスと見たいわけで、次の手が、いかにも味の良い好手だった。

 






 

 △53角と引くのが、「さばきのアーティスト」久保利明の真骨頂。

 手の意味としては、で先手の飛車を間接的にねらい、次に△74飛の王手飛車の筋などがある。

 が、そういった理屈抜きで、これはもう、こう指すところであろう。

 先手の確実ではあるが重い攻めに、サッと△53角

 この呼吸が振り飛車の醍醐味で、指した瞬間、思わず笑みがこぼれるほどだ。

 このまま、飛車に照準を合わせられては戦えないと、深浦は▲38飛といったん辛抱するが、そこで△35歩と打つのががまた小粋な継続手。

 

 



 ▲同飛と取るのは、いわゆる

 

 「一歩で一手を稼がれる」

 

 という形になり、後手の思うつぼだから、先手は▲33銀不成と取って、△同金に▲45桂と両取りをかける。




 

 私のような凡人は、△42角▲33桂成△同角くらいしか思い浮かばないが、それにはどこかで、▲35飛とか▲55角など、調子いい手が出てくる。

 もちろん振り飛車において、玄人中の玄人である久保利明が、そんな平凡な手を選ぶわけがない。

 ここからの3手が、まさに振り飛車の醍醐味第2弾。






 



 

 △75角(!)、▲33桂成、△24飛(!)で、見事なさばけ形。

 両取りにあわてず、フワッと△75角が好感触。

 先手もを取るしかないが、こういう駒は「取らせて働く」のが極意。

 玉の反対側を成らせて、そのをつくように、△24飛と転換して一丁あがり。

 先手は桂得だが、玉型大駒の働きが違いすぎて、とても勝てる気がしない。

 後手の攻め駒はたった2枚なのに、それがこれでもかと躍動し、盤上を制圧している。

 居飛車側は特に、玉頭がないのが痛く、後手の美濃囲いのシンプルな美しさとくらべると、あまりの薄さに、それだけで戦意がなえそうだ。

 深浦は▲28銀と守るが、いくら駒得でも、こんなところに銀を使わされては、元気が出ないことはなはだしい。

 後手は△36銀とカサにかかって、▲同金△同歩▲58銀に、△56歩と、気持ちよすぎる取りこみ。

 以下、▲66金のねばりに、△同角とバッサリ切り飛ばして、▲同角に△57銀と、今度は一転「ガジガジ流」。

 

 

 

 そこからも最短の寄せで、先手玉を攻略してしまった。

 これら一連の手順には、何度並べてもため息しか出ない。

 この将棋は先崎学九段が、『将棋世界』で連載していた「千駄ヶ谷市場」で紹介されていたものだが、先崎九段も、

 


 「まったく、なんでこの人が捌くと、こんなにうまくいくのだろう」




 やはり久保のさばきは、プロですらあこがれるほどのものなのだ。

 その将棋には、振り飛車のエッセンスが詰まっている。

 「芸術点」の高さでは、棋界随一ではないだろうか。

 

 (久保のさばき編はまだまだ続く→こちら

 

 

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ジョン・ヒューストン監督『白鯨』は『ウルトラQ』のような怪獣作品でした その2

2019年03月11日 | 映画
 前回(→こちら)に続いて、映画『白鯨』の話だが、その前にスティーブンスピルバーグの『宇宙戦争』について。
 
 映画や小説の世界ではよく、
 
 
 「観てみたら怪獣映画だった」
 
 
 という作品があって、『白鯨』も『宇宙戦争』もその流れ。
 
 で、そこを見分けるためのポイントとして前回、
 
 
 「宇宙人が空から送りこんできたトライポッドが、なんでわざわざ一回地中に埋まってから出現するのか」
 
 
 という脚本的矛盾の理由について問うたわけだが、その答えというのは簡単で、そんなもん、
 
 
 「地底怪獣の出現シーンがやりたかった」
 
 
 これに決まってるんですね。
 
 絶対にそう。あんなもん見た瞬間、
 
 
 「マンモスフラワーや!」
 
 「ツインテール出現!」
 
 「おしい! 地割れはパンパン言いながら青く光ってほしかった!」
 
 「それは、や・り・す・ぎ」
 
 
 などと、みな小躍りするはずなのである。
 
 怪獣ファンだから、私もスティーブンも。もう、一発でわかります。
 
 これ、怪獣好きに同じこと訊いたら、ほぼ100%同じ答えが返ってくるはずだけど、そうじゃない人に訊いたら、逆に正答(?)率はまちがいなくゼロでしょう。
 
 よかったら、周囲の映画好きに声をかけて、やってみてください。
 
 あと、「白い航跡!」って言ってみるのもよいかも。
 
 ニヤリとした人は、「正しい見方」のできる人です。
 
 きわめつけが、
 
 
 「大阪では自力で2体倒したそうだ」
 
 
 私は別に、そんな地元愛が強い方ではないけど、このときばかりは大阪人を代表して、スクリーンに握手を求めましたね。
 
 スティーブン、あんたはよくわかってる。
 
 「大阪人はお好み焼きで、ご飯を食べる」
 
 なんていう、「大衆向けにアレンジした大阪」を嬉々として語るエセ文化人なんかより、よほど浪速のことを理解してくれている。
 
 やっと会えましたね、と。
 
 世の中にはこういった「実は怪獣映画」という作品が結構存在しているんだけど、宣伝の関係で「感動の名作」に描きかえられたり、観ているほうが気づかなかったりして、その魅力をスルーされてしまうことがある。残念なことである。
 
 このジョン・ヒューストンの『白鯨』がまさにそう。
 
 メルヴィルの原作が各所で「難解」「読みにくい」と評されていることもあって、そもそも読む気にもならず(『白鯨』原作の読み方は池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』という本が参考になります)、その流れで映画も見る気にならなかったのだ。
 
 それが、たまたまつけたテレビでやっているのをなんとなく見ていて、そのことを後悔したのである。
 
 しまった! これはどこをどう見ても『ウルトラQ』や!
 
 そもそもが、脚本にレイブラッドベリがいる時点で、怪獣映画かと推理すべきであった。不覚このうえない。
 
 ストーリーはみなさまも御存じの通り、いたってシンプル。
 
 モービーディックなる巨大白クジラをかみ切られたエイハブ船長が、狂気的な執念でもって、その復讐を果たそうとする。それだけ。
 
 ルパン銭形というか、キンブルジェラート警部というか、追うものと追われるもののサスペンスでありながら、逆方向のバディものというか、ホモセクシュアルな雰囲気もあるという「逃亡者もの」の定番設定。
 
 映画では、原作にある「そもそもクジラとは」みたいな長ったらしい博覧強記ぶりなどはすっぱりとカットして、エイハブの偏執狂的な白鯨への執着にスポットを当てている。
 
 ホント、シンプルなうえにもシンプルな「海上追跡もの」でありまして、あの船に万城目淳江戸川由利子が乗っていても、なんの違和感もない。
 
 いや、むしろクジラの生態など、一の谷博士に解説してもらえば実にしっくりくる。脳内補完しているBGMも、宮内サウンドがハマる。
 
 ラストもぜひ、あの不気味な音楽と「」の文字で終わらせてほしかった。
 
 だれか、マッド映像で作ってくれないかしらん。
 
 
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ジョン・ヒューストン監督『白鯨』は『ウルトラQ』のような怪獣映画でした

2019年03月10日 | 映画
 「ハーマン・メルヴィルの『白鯨』って『ウルトラQ』やったんやあ」。
 
 
 といった感想を抱いたのは、映画『白鯨』を鑑賞してのことである。
 
 ジョンヒューストン監督、主演にグレゴリーペック、原作は先も言ったハーマンメルヴィルの『白鯨』。
 
 映画や小説の世界ではよく、
 
 
 「観てみたら怪獣映画だった」
 
 
 という作品がある。
 
 怪獣映画は別に『ゴジラ』や『パシフィックリム』だけでない。
 
 怪獣は戦争や自然災害のメタファーだから、『戦争のはらわた』でドイツ兵が無敵のT-34戦車に追いかけまわされるところとか、キングジョーみたいなメカ怪獣との攻防戦だし、台風津波などのディザスター映画もその仲間。
 
 『帰ってきたウルトラマン』のシーモンスとか、そのまんまだし、『ジョーズ』なんてモンスターものも、モロそれ。
 
 『新世紀エヴァンゲリオン』も、エヴァがウルトラマンなのはいうまでもないから(猫背だし、カラータイマーあるし、第1話はテレスドンだし)、基本的には、使徒との怪獣バトルしか見ていない。
 
 テーマとか登場人物の苦悩とか綾波がかわいいとか、まったくどうでもいい。全部早送り
 
 私は子供のころから大の怪獣好きなので、そういう「正しい見方」ができるけど、べつに特撮好きでない人にはなかなか理解しづらいらしく、よく
 
 
 「あの作品、どこがおもしろいのかわからない」
 
 
 不思議がっているところに、
 
 
 「要するに、あれって怪獣映画やねん」
 
 
 そうレクチャーしてあげることもある。
 
 一番わかりやすい例が、スティーブンスピルバーグの『宇宙戦争』。
 
 ネットのレビューなどでも酷評されていたり、内田樹さんなんかも
 
 
 「ヒドイ映画でした……」
 
 
 なんて、あきれておられたが、それはこれを
 
 
 「親子の絆を描いたヒューマンドラマ」
 
 「あきらめない心が感動を呼ぶアクション大作」
 
 
 なんて、「ふつうの映画」として見るから、そう感じるだけ。
 
 だって、これ怪獣映画やもん。
 
 映画として微妙なのは百も承知だが、そんなことはどうだっていいのだ。
 
 いったんその「怪獣やねん」という視点に切り替えてみれば、これはもう実に楽しい名作なのだから。
 
 この映画を楽しめるかどうかについては、物語前半部分のあるシーンを取り上げてみれば、すぐにわかる。
 
 それはトライポッド出現シーン。
 
 落雷場所から、アスファルトをめくりあげるように飛び出してきたトライポッドの群れ。
 
 序盤の見せ場だが、そこで観ているほうはたいていが、こうつっこむはずなのである。
 
 
 「宇宙人が空から送りこんできたのに、なんでわざわざ一回地中に埋まってから出てくるの?」
 
 
 その疑問はまったくもって正しい。たしかに、ここはシナリオ的にちょっとした矛盾があるシーンなのだ。
 
 だが、私のような怪獣好きは、そこを別に変とは思わない。いや、むしろ「当然やな」と腕組みでもしておさまっている。
 
 ここで問題。なぜスピルバーグはあえて、そのゆがみをそのままスクリーンに出してきたのか。
 
 正解(?)と、その解説は次回にゆずりたい。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
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レイ・ヴクサヴィッチ『月の部屋で会いましょう』 ヘンな小説を読みたいときはこの1冊を

2019年03月03日 | 
 『月の部屋で会いましょう』は、へんちくりんで楽しい一冊だ。
 
 著者のレイヴクサヴィッチは、アメリカはオレゴン州出身の作家。
 
 その多くは、数ページ程度でおさまっている短編というか掌編で、内容的にはSFというかファンタジーというか、シュールというか、とにかく不思議な触感。
 
 ストーリーだけ取り出してみても、開口一番の『僕らが天王星に着くころ』から、こんな話。
 

 主人公はジャックとモリーという夫婦だが、彼らが住む世界ではある病気が蔓延している。

  それは、体が足元から徐々に「宇宙服」になり、ついには宇宙に飛んで行ってしまうという奇病。
 
 運悪く罹患し、空へと舞い上がるモリーをなんとか引きとめようと、夫のジャックは奮闘するが……。
 
 
 いきなりこれだ。
 
 「宇宙服」という奇病。なんやそれは! カフカの『変身』かいな。
 
 『セーター』では、恋人が贈ってくれたセーターを着ようとしたら、少しばかりサイズが合ってなくて、が抜けなくて困ることに。
 
 なんとか脱ごうと悪戦苦闘するうちに、主人公はセーターの中で迷子になって、そこからRPGでダンジョンをめぐるような「冒険」が始まるとか、もう奇想妄想のワンツーパンチ。
 
 『母さんの小さな友だち』では、人類の健康長寿のために体内に住まわせたナノヒューマンが、その意図通りでなく自らの繁栄のため、
 
 
 「危険な活動に従事しないように、わざと老化させ、のんびりした生活をさせる」
 
 
 よう宿主を改造しはじめる。
 
 つまり、
 
 
 「じっとしてたら母体がケガをしないから、寄生している自分たちの安全度が上がる」
 
 
 という《論理的理由》から、まだ若い体を勝手に、高齢者のごとく「不便」にしてしまうのだ。
 
 元の快活な母親に戻ってほしい宿主の子供たちは、ナノヒューマンたちを「脅迫」して手を引かせるため奮闘する。
 
 老婆と化した母を、何度もバンジージャンプで危険な目に合わせるなど、過激な手法を取るけど、それって逆にどうなのといった、エドモンドハミルトンフェッセンデンの宇宙』のスラップスティック版のようなものとか、もうページを繰るだけで、頭はクラクラ。
 
 一番ひっくり返ったのが、『彗星なし』(原題『ノー・コメット』)。
 
 ティムはある日、妻と子供に紙袋を被ることを強要する。
 
 いぶかしがる家族だが、そこにはあるねらいがあった。
 
 なんと今日は地球に彗星が衝突するという、おそろしい一日だったのだ!
 
 このままでは人類滅亡だが、破滅を前にティムは
 
 
 「量子力学のコペンハーゲン解釈」
 
 
 で立ち向かうことにする。
 
 いわゆる「シュレディンガーの猫」で有名なこの理論によると、
 
 
 「見ていないもの、というのは存在しない」
 
 
 ということになるから、目隠しして彗星を見なければ、それは「存在しない」ことになる。
 
 存在しないなら当然、衝突もしないわけで、よって地球は守られることになるのだ!
 
 ……て、どんな話や! 
 
 なにかこう、天下の将軍を詭弁でけむに巻いた小坊主みたいというか、まさに「地球滅亡とんち合戦」といったところ。
 
 こんなふうな、まあホント、ようこんなん考えつくというか、
 
 「考えついてもよう書かんで」
 
 みたいな物語が目白押し。田中啓文か。
 
 じゃあ、これがバカバカしいのかといえば、そういうのもあり、ちょっと切ないものもあり、残酷なものやを語るもの。
 
 またユーモアもあって、あるいはホラーやミステリっぽいなどなど、えらいことバラエティーにも富んでいる。
 
 ハッキリいってな本だから、若干人を選ぶかもしれない。
 
 解説の渡邊利道さんがおっしゃるように、フリオコルタサルイタロカルヴィーノといった作家を想起させるので、この手の作品が好きな人にはおススメかも。
 
 そういや、私もコルタサル大好きだし。
 
 こうした、読んでクラクラ、不思議でありながら、ゾッとしたり、コケそうになったり、ときにはホロっとさせられたり、とにかく飽きさせない内容。
 
 目を回しながら、堪能していただきたい一冊。おススメです。
 
 
 
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