フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ その3

2018年09月24日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。

 ドイツ映画『M』のラストで、

 「この殺人者をここで死刑にしないのはどういうことか」

 そう釈然としなかった若かりし日の私。

 「古典」と呼ばれる作品には、古びてしまい「資料的価値」が高くなってしまったものと、今でも鑑賞に堪えうるものの2種類あって、『M』はまさに後者なのだが、見ている間中ハラハラし、同時に犯人役であるペーター・ローレへの怒りが湧き上がってくる。

 もちろんそれこそが名匠フリッツ・ラングのねらいで、その「義憤」を頂点まで高めたところで、

 「法の名のもとに」

 冷や水をかぶせる。

 ハッとなったわれわれは、そこで激高する市民と一体になっていた自分を冷静にかえりみて、この『M』はなにを描かれた作品なのか、ざわざわした割り切れない気持ちで考え始めるのだ。

 それこそが私の場合は「正義」だった。観賞中、ずっと犯人は殺されるべきだと思っていた。

 それもできるだけ無残に。なんなら、被害者たちの手で行われてもいい。

 「法の名のもと」なんておためごかしは必要ないし、精神病院に放りこんでの「治療」「更生」も望まない。

 子供殺して、なんの罰も受けずぬくぬく過ごして、いつかは釈放でっか、と。

 なら、ここで「われわれの手で」殺すべきなのではないか。

 私はハッキリこう思った。いや、今でも全然思っている。

 今回、この記事を書くにあたって『M』を観直してみたが、のべ4回目の今回も、やはり昔観たとき同様、

 「警察、いらんことすな! こんな悪党、今すぐここで殺せや!」

 やっぱ、そうなっちゃうんだよなあ。

 もちろん、それが「正しいこと」であるとは思っていない。

 それなりに人生経験も積んでるし、本などで仕入れた「そういうことはよくない」という歴史的、論理的な裏付けとなる知識も多少はある。外で、たとえどのような事情があれど、だれかを「殺せ」など口に出しもしない。

 でもそれは、

 「法治国家は」

 「ドイツの世相が」

 「倫理の問題で」

 といった「正しいこと」では覆い隠せない、私自身の「素直で自然な感情」であり、それをくつがえすことはなかなか大変だなと苦笑いを禁じ得ないのだ。

 フリッツ、アイツをぶち殺して、オレをスッキリさせてくれよ、と。

 だから私は、永井豪先生の『デビルマン』を読んで、3度衝撃を受けた。

 言うまでもなく、あの悪魔特捜隊による牧村家などの惨殺シーンだが、ひとつ目は

 「ふつうのヒーローアニメだと思っていた『デビルマン』にそんなショッキングなシーンがあったこと」。

 ふたつめは

 「それによって、《人間とはなんと愚かで、扇動されやすいのか》と戦慄したこと」

 そしてみっつめは、

 「自分は暴徒たちに怒る不動明ではなく、その『愚かな人間』の方になる可能性は充分あること」

 「ペーター・ローレを殺すべき」と確信していた私が、呑気に「きさまらこそ悪魔だ!」なんて、だれかを糾弾できるはずもない。

 「やっちまえ」って、言ってんだもん。

 ふつうに考えたら、不動君が叫んだような「外道」側に立つ可能性は充分ではないか。

 そこに「正当性」や「大義」があたえられたら、なおさら。しかもそれは「超スカッとすること」ときてる。

 『M』のペーター・ローレは犯罪者だった。だが、もしそれが

 「オレたちの勝手に決めたルール」

 における「罪」だった場合はどうなる?

 「民族の血を汚した」

 「資本家や貴族だった」

 「モラルに反する作品を作った」

 「神を信じていない」

 「だれかが井戸に毒を入れた」

 「戦争犯罪人」

 などなど。

 いや、そもそも本当の犯罪者でも「リンチ」をしていいのか。たぶん、いけないのだろう。だが私には確信できない。

 理性(そんなものがあると仮定しての話だが)と「自然な感情」が反する場合、どちらを優先するのが正しいのかを、

 「スパイがまぎれこんでいる」

 「家族が狙われている」

 「おまえは不当に搾取されてる」

 という、扇動家の決まり文句を耳に吹きこまれた状態で、うまく判断できるとはかぎらない。

 だから私は「正義の怒り」を警戒する。

 なにか「悪」を見つけたときに、自分基準のせまいモラルや《世間の常識》の判断で、それを断罪し、排除しようとしてしまわないかを。

 それはおそらく、人間にとって「自然」で「充実感ある」体験であり、逆らうことに困難が生じる。

 だからこそ、「不本意」ながら常に心にとめておかなければならない、と考えているのだ。

 
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フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ その2

2018年09月23日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「正義の怒り」の快感に身をひたすことには気をつけろ、と言いたいのは、自分の中にもまたそういった

 「自分が《悪》と認定したものをたたいて気持ちよくなりたい」

 という危険な願望が、きっとゼロではないからだ。

 そう感じたきっかけは、昔『M』という映画を観たから。

 『M』は1931年、ナチス台頭直前のドイツで公開された作品。名匠フリッツ・ラングによるサイコスリラーの傑作だ。

 「デュッセルドルフの吸血鬼」と呼ばれた殺人鬼ペーター・キュルテンをモデルにしたとされる主人公(ペーター・ローレが怪演)は、小さな女の子をねらって殺すシリアルキラー。

 警察の必死の捜査にもかかわらず、なかなか正体を現さない犯人に業を煮やし、ベルリン暗黒街のギャングたちや、街の自警団も立ち上がることに。

 エルジーという女の子が行方不明になったとき、盲目の男が、たまたまグリーグの『ペール・ギュント』の口笛を聴いたという証言から、徐々に犯人の正体が明らかになる。

 目印として、背中に「M」(「Moerder」ドイツ語で「殺人者」の意)の文字をつけられた犯人は、次第に暴徒と化していく民衆に追い詰められ、ついには……。

 ……というのが、だいたいのストーリーで、もう今回は最後まで語っちゃいますが、私が気になったのがまさにラストのシーン。

 街の人々によって地下室に連れこまれたペーター・ローレは、証拠を突きつけられ、罪を認めることを余儀なくされる。

 このままでは殺されると恐怖したペーターは、自らの精神の不安定さを訴え

 「警察に連れていけ」

 「裁判を受けさせろ」

 とさけぶが、市民たちは怒りの声と嘲笑しか彼にあたえない。

 地下室の興奮がピークに達したとき、だれかが声をあげる。

 「おまえの権利は死ぬことだけだ!」

 「殺人者に慈悲などいらない!」

 「怪物は殺せ!」

 それを合図にしたようにタガが外れ、みながペーターに襲いかかろうとしたところで、警察が入ってくる。

 手をあげる市民たち。警察はペーターの肩に手を置くと、

 「法の名のもとに」

 その後、審理のシーンが少し入って、被害者遺族の

 「こんなことをしても、あの子は帰ってこない」

 「だれもが子供の近くにいて見守らないといけないのです」

 という言葉で幕となる。

 この映画のラストは、説明セリフのようなものがないので、解釈も様々だ。

 「人民裁判」のシーンを当時「国家社会主義ドイツ労働者党」(ナチスの正式名称)が力をつけつつあった、不安定なドイツの世相を表現しているという人もいれば、

 「精神病者を法で裁けるのか」

 といった、今でも解決されることのない問題を突きつけてくるという人もいる。

 また、どんな犯罪者にも「法」を適用させる警察の態度から

 「法治国家のあるべき姿」

 を描いているという解釈もあり、それらはおそらくひとつだけでなく、多重的な層をなして映画の中に組みこまれているのだろう。

 ただ、私の感想は違った。

 いや、私も映画好きで、それなりに数も観てきたから、上記のような意見は理解できるつもりだし、おそらくそれは映画論的には「正しい」のだろう。

 しかし、私はこの映画を最後まで見終えて感じたことはただひとつであり、それこそが、

 「市民たちは警察が入ってくる前に、この鬼畜の殺人者をとっとと殺しておくべきだったのに」

 という、「正義の怒り」なのである。


 (続く→こちら


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フリッツ・ラング『M』と永井豪『デビルマン』に見る「正義の怒り」のあやうさ

2018年09月22日 | ちょっとまじめな話
 「オレは今でもフリッツ・ラングの『M』に納得いってないからね!」

 友人カシダ君に、そう声を荒げたのは不肖この私である。

 ことの発端は、近所のおでん屋で一杯やっていたときのこと。辛子たっぷりのちくわをほおばりながら、友がこんなことを言ったのだ。

 「でも、シャロン君の中に《リンチ願望》があるなんて、意外やったなあ」

 私が誰かを「私刑」したがっている。

 などというと、ずいぶんと物騒な話だが、カシダ君はこないだここで書いた「大坂なおみ選手とブーイング」の記事(→こちら)を読んで、「へえ」となったのだそうな。

 「正義を安易に楽しむこと」。

 それはそのまま無意識の虐待や差別にもつながる危険な感情だから、注意した方がいい。

 といった内容的なのだが、友がひっかかったのは、注意した方がいいというフレーズの前に

 「実に残念なことだが」

 そうカッコつきで、つけ加えてあったこと。

 「あんな前置きつけるいうことは、キミの中にも《悪》をやっつけて快感を得たいっちゅう欲望があるってことやもんなあ。それが意外やったなあ、思うて。まあ、冗談か皮肉かも知らんけどね」

 カシダ君にかぎらず、基本的に私はおとなしい人間に見えるらしい。

 たしかに、あんまり他人に対して腹を立てたり怒ったりしたことはないかもしれない。だれかに暴力をふるったこともないし、権力などを利用した各種ハラスメントとも無縁だ。
 
 実際、友人の女性などには、

 「セクハラとかパワハラをしないのが、唯一のとりえだよね」

 なんてことをいわれるほど安パイであり、それは別に私が聖人君主というわけではなく、

 「生きるエネルギーにとぼしいボンクラ男子」

 だからに他ならないが、それで世界が平和なら、まあそんなに悪いことでもないのかもしれない。

 そんなスーパー昼行燈なので、「正義の暴力願望」なんてのもなく、それゆえ「気をつけたほうがいい」と、ある意味他人事としてクールに語っているのかと思っていたところの「不本意ながら」発言。

 これが友には不思議だったのだと。寝ながら起きてるようなキミに、そんな激しい感情があるとはねえ、と。

 これに対して、冒頭の私の答えになるわけだ。

 そんなもん、全然あるよ。あるある。ないわけがない。

 そりゃまあ、『デスノート』のライト君みたいに

 「悪を滅ぼし理想の世界を作る」

 みたいな、中2病的ノリは大げさにしても、好きでない芸能人やスポーツ選手なんかがやらかしたり、たたかれたりしてるのを見ると、

 「フン、調子にのるからや」

 くらいなことは思うもの。
 
 それをわざわざ出かけて石を投げたり、ネットに書いたりはしないけど、熱量が低いから伝わらなかったり無害だったりするだけで、そういう「醜い願望」はふつうに持ってる。

 つまるところ、たぶんここをお読みの皆様方と同じくらいには「正義の怒り」を感じることもあるわけで、その意味では「気をつけろ」というのは、多分に自戒がこもっているのだ。

 全然、他人ごとなんかじゃない。

 私がそのあたりのことに自覚的なのには理由があって、それがフリッツ・ラング監督の『M』という古典的ドイツ映画。

 これによって自分が、

 「《正義の怒り》と理性を天秤にかけたとき、前者を取る可能性がゼロではない人間」

 だということを否定するのが、むずかしいと感じてしまったからだ。


 (続く→こちら



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われらアストロ奇術団 映画『プレステージ』は一試合完全燃焼主義バカ映画だ! その2

2018年09月17日 | 映画
 前回(→こちら)の続き。

 『プレステージ』のオチが「アンフェア」かどうかは意見が分かれて実に興味深い。

 私は賛否両論の「賛」の方だが、なぜにて私をはじめ、わりとコアなミステリファンや作家の方にこの映画が評判がいいか。

 以下、ネタバレはしてないけど、カンのいい人にはわかっちゃうようなこと書くので、未見の人はスルーしてほしいが、一言で言えばこの『プレステージ』(『奇術師』)は、

 「渾身のバカミス」

 そういう話なんですね。

 手品や映画にかぎらず、小説もお芝居もお笑いもアートも、これすべて「表現」というものの本質は、

 「イカれた思いつきを大マジメにやる」

 これに尽きるんです。

 さもあろう。「創作」というのは、自分の妄想や欲望を「芸術」や「商品」という形にして提出しているわけで、平たく言えばこれすべて「遊び」。

 お笑いにしろ演技にしろ、手品なんてまさにそう。自分の考えたトリックで、だれかを驚かして悦に入っている。

 「マジック」なんて語ると収まりもいいけど、これって本質的には「子供のいたずら」と同じメンタリティーだ。どこまでいっても「遊び」なのである。

 だからこそ「芸人」というのは精進が必要なのだ。ただの遊びならガキでも出来る。いわゆる「大学生のノリ」みたいなのがつまらないのは、それらが「ただのお遊び」だからだ。

 だが実際に舞台に立つ、本物の芸人はちがう。彼らに求められるのはプロの、玄人の、全身全霊をこめた大人の見せる「渾身の大遊び」なのである。

 手品なんて、たいていはタネを明かせばアホみたいなものだったりする。

 だがそれを、舞台上で大上段にかまえて、これでもかという「どや」という大ハッタリを乗せてぶちかましてくるから、そこに感嘆と感動を呼ぶわけだ。

 『プレステージ』のオチもまた、

 「え? 2時間以上かけて、あれだけ大見栄切って最後に出てくるのが、その見ようによっては脱力のトリックでっか?」

 そう思わせられるものなのだ。

 だがそれを、時速200キロの剛速球でもって披露する、その姿勢が「やってくれるぜ!」となる。芸人バカ魂にシビれるではないか!

 たしかに『プレステージ』のオチはバカだ。だが、それをフルスイングでやったことがすばらしい!

 なんてことを熱く語ると、やはり、

 「わかる、そういうことやねん!」

 と、同じような温度でうなずいてくれる人もいれば、

 「えー、なんか意味わかんない」とか、果ては「そういうのキモイ」

 なんて返されて、どこまでいっても賛否両論なのがこの映画の宿命であり、けっこう人を選ぶ映画なのである。

 映画でも読書でも手品でも、それこそ科学でも数学でもチェスでも米に字を書くでもなんでもいいけど、「プロ」「玄人」「ガチ勢」と呼ばれる人が持つ偏執的な面がないと、この映画は共感されにくいのだろう。

 それこそ、アンジャーがトリックを守るために○○を裏切ったり○○を自ら○○したり、最後には○○になることについて、

 「そこまでやるか」

 とあきれる人と、

 「そこまでやるよなあ」

 そう苦笑いとともに感嘆する人とに分かれる。

 そしてこの映画は、あきらかに後者の人用に作られている。「芸のためなら女房も泣かす」的な、コンプライアンスもへったくれもない世界なのである。

 だから、「登場人物に共感できない」のは当然。そんな、「いい人」にそこまでの命をかけたバカはできない。人生に大事なものは、他にいくらでもあるからだ。

 だから、「2人がバカに見える」「オチにガッカリした」というのは、ある意味「正しい」観方でもあるのだ。人間としてまっとうというか。

 一応、理屈としては

 「あのトリックが禁止されたのは『ノックスの十戒』からやけど、『奇術師』の世界はそれより前やし」

 とか、

 「テスラが出てくると言うことは、それはもう『わかってるよな』という作者側からの合図やから、『ムチャするで』宣言であって、そこはそういう目で見るということやねん」

 なんていう「論理的」(?)擁護も、やろうと思えば色々できるわけだが、私としてはそういったことよりも、

 「『プレステージ』はあふれくるバカ魂満載の男前映画」

 ここを大いに評価したい。

 ネットのレビューなどにはよく

 「アンフェアといわれないよう、『SFミステリ』とか『ファンタジー』と紹介すべきですね」

 なんて書かれているけど、私としては

 「アンフェアとか言ってる場合じゃないぜ! 一試合完全燃焼主義、渾身のアストロ球団的SFミステリの傑作!」

 こう謳うべきではないかと思うのが、どうであろうか。



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われらアストロ奇術団 映画『プレステージ』は一試合完全燃焼主義バカ映画だ!

2018年09月16日 | 映画
 『プレステージ』のオチが「アンフェア」かどうかは、意見が分かれて実に興味深い。

 この映画は、ミステリとSF両刀遣いの作家クリストファー・プリースト『奇術師』を原作としたもの。

 プリーストの作品自体がもともとケレン味たっぷりなところへきて、今作は題材が手品だったり、時代背景が19世紀のロンドンだったり、果てはニコラ・テスラが出てきたり。

 ミステリ的どんでん返しやら、エキセントリックな職人やら、ゴシック趣味やらも満載で、とにかくサービス満点。もう、設定だけでも大いに惹きつけられる内容となっている。

 しかもそれを、クリストファー・ノーランがやるんだから、なにかもう全体的に「観る前から賛否両論」感が濃厚で、ほめるにしろ、けなすにしろ、「観終わったあと、マクドかスタバであれこれ語る」のにピッタリな作品といえよう。

 ストーリーとしては、まあ、ざっくりいえば、アンジャーとボーデンというスゴ腕マジシャンの手品ケンカ合戦。

 設定のおもしろさも手伝って、テンポ良く展開されるこの作品が賛否両論なのは

 1「話がわかりにくい」

 2「主人公ふたりに全然感情移入できない」

 3「それどころか、どっちもバカに見える」

 なんて意見があったりするため。

 まあ私はこの映画は内容的にもテーマ的にも気に入っているので、それぞれ、

 1「うーん、原作と比べると、かなりスッキリしてますけどねというか、原作はなかなかスッキリさせないおもしろさなんですけど」

 2「いやいや、もともと作者はそんなところに主眼を置いてないというか、逆に主人公が《感情移入などできないようなひどいヤツ》であることこそがキモなんです」

 3「正解。バカなんです。で、それこそがまさに、この『プレステージ』のメインテーマなんですから!」

 なんて野暮な反論も出来るわけだが、中でももっとも多い「否」が、

 「オチがアンフェア」

 話の中盤以降はアンジャーとボーデンがともに最大の売りにしている「瞬間移動トリック」の奪い合いがメインとなっているんだけど、その肝心要のトリック自体が、見る人によっては

 「えー、こんなのありー?」

 「最後まで見たらしょうもなかったなあ」

 とか、人によっては
 
 「理論的(科学的)にありえないのでは?」

 なんてつっこみたくなるシロモノなのである。

 ここにハッキリ言っておくと、その指摘はすべて実にまっとうで正しい。

 「つまらない」という声も「アンフェア」という怒りも、「是」派の私からしても、

 「いやいや、まったくその通りでございます」

 そう認めるにやぶさかではない。

 にもかかわらず、私がこの映画の大オチを、

 「いやー、すばらしい。クリストファー(原作者と監督どっちも)なかなかカッケーじゃん!」

 と感嘆したのは、まさにその「こんなのありー?」「アンフェアじゃん!」の感情を、逆に自分は

 「こんなん、ようやったなあ! いろんな意味でたいしたもんや」

 そっちの方向に解釈したからだ。

 では、一体どこが「いろんな意味でたいしたもの」なのかといえば、やはり

 「腕も折れよと振りかぶって、ものすごいバカ話を放りこむ」

 これこそが、エンタメやアートを問わず、この世界のすべての「創作物」の基本形であるからなのだ。


 (続く→こちら



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大坂なおみUSオープン優勝と、ブーイングによる「リンチ」の問題 その2

2018年09月11日 | テニス
 前回(→こちら)の続き。

 大坂なおみUSオープン優勝に大興奮!

 と、浮かれまくっているところだが、ひとつ気になるのは、この決勝戦でもあった過剰なブーイングの問題。

 私はそういった行為を、基本的にはスポーツ観戦の楽しみと認めているが、それが限度を超えると「リンチ」になりかねず、その兼ね合いがむずかしいと悩むこともある。

 「リンチ」の定義はウィキペディアによると、 

 「法律に基づかないで、特定集団(およびそれ自身が定める独自の規則)により決され、執行される私的な制裁」。

 「オレたちの決めたルールやモラルに反した」ことによる加害行為だ。「ムカついたから、やってやった」と。

 私はこれが大嫌いである。

 ここで一応言っておくが、これは「ひいきの選手」だからではない。

 大坂なおみやマルチナ・ヒンギスは好きな選手だが、別に高校野球の強豪高に肩入れするいわれはない。興味もないし、たぶん好きにもなれないだろう。

 だが、これは「好き嫌い」の問題ではない。仮にこれらのブーイングが「大坂なおみのため」のものでも、私は支持できない。

 人として守るべき倫理の問題だからだ。私は「リンチ」に加担した人による、満足げな「ざまみろ」という表情を世界で一番みにくく感じる。

 それは、そのまま「正義」に結びつくからだ。甲子園のタオルを回す応援が批判されるのは、「ひいき」しているからではない。

 「自分が気に入らないから」「悪者だと感じたから」という理由でなにかを断罪し攻撃する、「安易な正義感」を楽しむことに対する警鐘なのだ。

 それは世界史における「パリ解放」の映像を見ればわかる。

 ナチスを憎んだパリ市民は、解放と同時にドイツ人とつきあいのあった女性をつるし上げ、鍵十字の落書きをし、バリカンで丸坊主にしたあげく足蹴にした。

 暴力的な人々に苦しめられた者が、その憤懣と屈辱感を晴らすため、手を出しやすく、報復もされない「悪」に暴力をふるう。

 地獄の悪循環だ。

 しかし、そこにあるのは、まごうことなき「正義」の感情。

 女に「わたしはナチの愛人です」みたいなことが書かれたプラカードを、嬉々として首からかけさせるパリ市民たちの笑顔の、なんと「さわやか」なことよ。

 それは、「わたしはユダヤのブタです」というプラカードをかけられた女性に石を投げた、「善良な」ドイツ人となんら変わらぬ光景だ。

 私たちが日々の生活で「さわやか」「痛快」「一体感」「元気が出た」と感じるものの正体は、実はこういうものかもしれない。

 そしてそれに嫌悪を感じるのは、私もまた同じような「願望」を持っているからだろう。

 「ざまあみろ」と。近親憎悪以外の、なにものでもない。だから、「義憤」にとらわれたときは、その快感に身をひたす前に(実に残念なことだが)慎重にならざるを得ない。
 
 この件で「恥ずべき行為をしたニューヨークの観客は反省している様子もない」と批判されていたが、なんのことはない。

 彼らは「正しいことをやってやった」と思っているのだから、反省する意味も必要もないのだ。カート・ヴォネガット風にいえば、「そういうもの」である。

 世のあらゆる迫害や虐殺は、ここまで例にあげたような「正義の名を借りたリンチ」と密接に結びついているのだから、こういう心理状態を常に警戒しなければならない。

 私が度を越したブーイングに賛成できないのは、以上の理由による。

 なんて、なんだか話がややこしくなってしまったが、ともかくも大坂なおみの優勝はすばらしいことで、それは決して観客の愚かな態度によっておとしめられるものではない、と言いたいわけだ。

 いや、すごいという言葉を何百回重ねたところで、その本当のところは表現できまい。

 荒れた雰囲気でも、自分を見失わずにしっかりと勝ち切るなど、その大物ぶりも存分に見せることができた。

 20歳での栄冠。錦織圭のベスト4と合わせて、なんという良き大会になったのか。

 いつかはやってくれると信じてはいたが、まさかこんなに早いとは思いもしなかった。「2年後には」とか言ってた私の見る目の無さが、今日ばかりはうれしい限りだ。

 大坂なおみ選手、あなたはテニスも笑顔もすばらしい。

 優勝おめでとうございます。 

 

 ☆おまけ 今年のマイアミ・オープンで見せた伝説の「史上最悪」なスピーチは→こちら



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大坂なおみUSオープン優勝と、ブーイングによる「リンチ」の問題

2018年09月10日 | テニス
 大坂なおみがUSオープンで優勝した。

 もちろんのこと私もこの結果には大興奮で、早起きしてスコアのライブ中継(今WOWOWに入ってないので。見る時間がないんだよなあ……)の前で一喜一憂したのだが、ちょこちょこ動く数字の前で、

 「うおっしゃー!」

 「行ける行けるで、ここ集中!」

 「やったー! なおみちゃんサイコー! もう結婚してえええええ!!!」

 などと、うるさいのは迷惑だから、枕で口を押さえて叫びまくるのは、われながらなかなかマヌケであった。

 でもマヌケでいいもーん! 大坂ちゃんが優勝したからね! すっげ、マジで。本物やった、この娘は。そりゃ昔からすごいのは知ってたけど、こんな早く頂点に立つか……。

 日本人選手で初のグランドスラム優勝の大快挙。それも、自身があこがれてやまないと公言するセリーナ・ウィリアムズを破っての栄冠とは、これ以上ないほどの喜びと充実感であろう。

 大坂なおみは、テニスがすばらしいのは当然として、そのキャラクターがまた魅力的だ。

 インタビュー動画や雑誌の記事など読んでも、その独特で明るい言動の好感度はすこぶる高い。海外でも人気だし、テニスを知らない人でも一度見たら、好きにならずにはいられないのではないか。

 ただこの決勝戦、ひとつ気になったことがあった。

 そう、会場のブーイングだ。
 
 私はダイジェスト映像しか観ていないから、そんなにくわしくはわからないが、セリーナが審判の判定を不服とし抗議したところ、会場は歓声とブーイングにつつまれ、それは試合後のセレモニーまで続いたのだ。

 大坂なおみには、なんら責められるいわれもないのだから、とんだとばっちりだ。本来なら人生最高の日になるはずなのに。

 これは個人的な見解だが、この決勝のみならず、私はスポーツの会場での過剰なブーイングなどが好きではない。

 いや、もちろん声をあげて大応援や、相手チームに対するディスはスポーツ観戦の楽しみだし、それはある種の文化でもあることは認めるにやぶさかではない。ただ騒ぎたいだけでも、それはそれで全然アリだ。

 しかしだ、単に自分たちが「ムカついた」ことによって、試合会場の空気を壊してしまうことだけは、なんだか受け入れられないのだ。

 テニスの世界でも、たとえば1999年のフレンチ・オープン決勝でのマルチナ・ヒンギスへのブーイング。

 たしかにあの試合で、審判の判定に異議を唱えたヒンギスの態度はほめられたものではない。それ相応のペナルティはあってしかるべきかもしれない。

 だがそのことによって、彼女を追い詰め、まともな精神状態で試合をできないようにし、一時は表彰式にすら出られないほど泣き崩れたところに「ざまあみろ」と罵声を浴びせる権利は、「我々」にあるのだろうか?

 最近の甲子園もそうだ。全国から選手を集めたり、金にあかせてチームを補強する「悪役」と戦う学校を露骨に応援し、マウンド上で青ざめている投手に(まだ高校生だ)

 「勝たせたいチームをひいきするのは当たり前」

 「あいつらは卑怯だから、これくらいやられて当然だ」

 と言い切る姿は、他者にはどう映るだろう。

 少なくとも私は「なんだかなあ」と思うし、知らずにやっているところを指摘されたら「恥ずかしい」と感じるだろう。

 なぜならそれは応援や意見の表明と見せかけた、単なる「リンチ」にすぎないからだ。


 (続く→こちら


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佐藤賢一『英仏百年戦争』 え? イギリスでもなく、100年でもなく、勝ってすらないの? 

2018年09月04日 | 

 佐藤賢一英仏百年戦争』を読む。




 英仏間の戦争でも、百年の戦争でもなかった。

 イングランド王、フランス王と、頭に載せる王冠の色や形は違えども、戦う二大勢力ともに「フランス人」だった。




 という紹介文にもあるように、我々が英仏百年戦争教科書で習い、かのシェイクスピアも華々しく「勝った」と歌ったこの戦い。

 これがなんと「英国」でもなく「百年」でもなく、ましてや「勝利」でもないことを、読みやすく、ときにユーモラスな文体で暴いていく本。

 平たくいえば、これは国家間の戦争ではなくて、

 「海峡をはさんだフランス王位をめぐる内輪もめ」



 であって、あんまりイギリス人は関係ない

 フランス諸侯が、フランスでチャンチャンバラバラやってただけやん、と。

 そもそも当時は「イギリス」とか「フランス」なんて国民国家も存在しなかったわけで、その意味でも「英仏」という表現も微妙だ。

 歴史の本を読むと、こういう「現在」の知識や経験がある立場から見たら、わかりにくいといった事例がけっこう多くて、困惑させられることがある。



 「ドイツ人がナチズムに傾倒していった時代」

 「共産主義が世界を二分するほど人を惹きつけたこと」

 「真珠湾奇襲すなよ。あんな国力に差があって、アメリカに勝てるわけねーじゃん!」

 「フランス革命って、もしかしてフランス大虐殺なんじゃね? ポルポトとか文革とどうちがうの?」



 などなど、「もっとうまく、やれんかったんかいな」なんて思いがちになる。

 もちろん本などで、当時の社会状況を把握していくと「なるほど」と考えさせられるが、それでも知識だけでは実感できないところもあろう。

 下手すると、そういったことに鈍感なあまり、


 「昔の人はバカばっかりだなあ」


 といった傲慢な感想すら抱いてしまうことも多々だ。

 それが短慮であることは重々承知だが、その意識の調整も、当時を知らないわれわれには困難を極める。

 どうしても「当たり前のこと」にとらわれてしまって、そこから歴史を逆算するのは難しく、その試みが「正しい」ことかもわからない。
 
 それこそ中世の「という概念がない」なんて、今では想像しづらいものなあ。

 でも考えてみれば、そもそも世界は「国なんてない」時間の方が圧倒的に長いのだ。

 アラブアフリカ国境線なんて、一部の人間が勝手に引いたものだし、「ドイツ」や「イタリア」というまとまった国も、せいぜい150年程度の歴史しかない。

 自分たちの方が「歴史的少数派」なのに、「想像できない」なんて、むしろ傲慢かもしれないのだ。

 この本から学べることはふたつで、


 「自分たちの《の常識》で見ると、歴史認識というのは傾いた家と同じで、まっすぐ歩いているつもりなのに、いつのまにかおかしな結論になってしまう」

 「歴史なんて自分たちに都合よく解釈したがるのは、どこの国も同じですわ(笑)」 



 どちらも安易におちいらないよう注意が必要だが、わかってても結構むずかしい条件ではあるなあ。




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